第17話
ラルドが起こした風は、荒々しさを失っていた。先程のような竜巻は形成されず、一瞬だけ突風が吹いたようなものだった。だが、それで充分である。花吹雪を少しだけ押し込めることが出来れば、後は自滅してくれる。
リッカの思惑通りに事は運んだ。押し流されていくマドロミの花は、空気を取り込もうと吸引を続けている巨大魚の体内の中へと吸い込まれていった。リッカは不安を覚えながらも、拳を握り締めた。効果があるのないのか、それはすぐに分かるはず。もし効果がなければ、ここで命果てることになるのだろう。ある種のギャンブルに、リッカは全ベットした。
ほどなくして、二人が受けていた風圧がなくなった。巨大魚が空気を吸い込むことを止めたのである。
ラルドは地面に膝を着きながら身構えた。第二陣の攻撃が始まるのか、固唾を呑んで状況を見守る。亀吉も、乱れた呼吸を整えようと深く呼吸をしながら、目線は巨大魚から離さない。
しばしの沈黙。その後に、ゆっくりと闇が消え去るように目前の洞窟は閉じられていった。口が閉じられることで波が生じ、亀吉の身体が押し出され、巨大魚との距離は近距離から中距離へと変わった。
巨大魚は慌てるように身体を反転させて、まるで逃げるようにして一目散にその場から去って行った。何度も巨体を揺らしたおかげで、海は一時の間荒れ狂う。荒々しい波の動きに、最早脅威が去ったことを認識した亀吉は、抗うことなく波の揺れに身を任せた。背に乗る二人も、その場で仰向けになり生き延びたことを実感し喜んだ。
「やったなラルド。それと、亀吉も。ありがとう」
「なあに、礼を言うのは俺の方だ。しかし、あの花はなんだ? 何故、あの花を吸い込んだ途端、奴は去って行ったのだ?」
リッカは、マドロミの花の毒性についてラルドに説明した。
本来のマドロミの花は、生物が一回でも舐めてしまうと強い幻覚作用を起こす、というものであった。もし仮に、花弁一枚食べてしまおうものなら、錯乱した後に、命を落とす。昔、リッカの村に住んでいた悪ガキが度胸試しだとか言って、花弁を食べたことがあったが、その後の彼の様子は見るに堪えなかったことを覚えている。
巨大魚の様子からして、幻覚作用はしっかりあったようだが、命を落とすほどの毒性を受けているようではなかった。正常に戻った後、復讐のためにもう一度現れることもあるだろうが、今は置いておくとしよう。
「なるほど、そういう花だったのか。間違えてリッカに飲ませなくて良かった。それにしても、すごい怯えようだったが何を見たんだろうな」
マドロミの花が起こす幻覚の特徴として、侵されたものが一番恐れているものが見える、というのがある。恐らく、巨大魚はその特徴通りの幻覚を見たのだろうが、しかし、あの巨大な怪物が何を恐れるというのか……。
魔神。リッカは、まだ見ぬ脅威に身体が震えた。
「とにかく、疲れたなあ」
リッカがぼやくと、亀吉が人鳴きした。ラルドは何を言っているのか分からなかったが、自然の中で暮らしていたリッカには、なんとなく生物の言葉が通じることがあった。
「腹が減ったらしい」
「かなり痛めつけられというのに、呑気な奴だな。いやむしろ、だからか。回復には食うのが一番、と言うからな」
睡眠では、と疑問を抱きながら、リッカは近場に転がっていたパオブの実を拾い上げてラルドに渡した。まあ、確かに栄養を摂取することも大事だなと、思いながら自分も片手で持って食べるリッカ。もう片方の手にも実を持つと、亀吉の頭近くへと移動を始めた。ラルドも慌てて実を担ぎ、リッカに並んで歩きだした。
満身創痍の戦士に休んでいい、と狩人の青年は伝えたが、戦士は「一緒に闘った仲間だ。一度、しっかりと顔を合わせたい」と言って戻らなかった。
中心部にある森の周囲をぐるりと円を描くように右から周り、亀吉の首部分に辿り着く。二人は、パオブの実と他にも幾つか木の実を持って、幅の広い大橋のような太い首を渡って行った。
「お待たせ。ほら、行くぞ。しっかりと受け取れよ」
リッカはそう言って、パオブの実を亀吉の口元へ放り投げた。亀吉の大きさと比べると、実が随分と小さく見えてしまうが、仕方ない。現状用意出来るのは、果実や木の実しかないのだ。
亀吉は大口を開けて、飛んでくる実を受け入れた。リッカとラルドが持って来たものを全部投げ終えると、亀吉は不満そうに顔を揺らめかした。リッカは嘆息しながら、森の入り口にある食べられる果実を次々と亀吉の口の中に放り込んだ。
しばらくして満足したのか、亀吉は水面ぎりぎりのところまで首を下げ、黒い真珠のような瞳を瞼の裏に隠した。共に戦った二人の戦士も、亀吉の頭の上で仰向けになり、世界を照らす暖かい陽光を全身に浴びながら目を閉じた。
大海原の中、ぽっかりと浮かんだ一つの島。その島から伸びる脈打つ地面の先で、三つの命が寄り添い、息づいている。
波に乗りゆったりと動く島は、ほのぼのと時の流れにも身を任せているようである。
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