第5話 降りしきる雪の中で



 ――深々と雪が降っている。まだ初秋だというのに、綿雪が舞い落ちてくる。髪に触れる温度は冷たく、その色は白い。眼前には、綿雪が積もった道とは言えない坂がある。


 透理は、背に抱える孝史の体を、背負い直した。孝史は透理の肩に、ぐったりと顎を預けている。簡易な治療は施した。これもまた忍びの技術だ。だが頭部と肩、腹部に、深い傷を負っている。包帯を巻いてはいるものの、溢れている血が止まる気配はない。


「……置いていけ」


 その時孝史が、掠れた声でそう告げた。


「……」


 透理は何も答えない。


 孝史を背負い歩く透理は、ただ大きく吐息しただけだった。感覚としては真冬の山を歩いている状態だが、透理の体は流行病で熱を孕んだかのように上気し、汗が止めどなく浮かんでくる。大きく呼気して、少しでもその熱を逃そうと試みたが、上手くはいかない。汗で黒い髪が、肌に張りついてくる。


 無論体を楽にし、より早く退避するならば……背負う孝史を捨てて行くのが、最良の選択だ。それは、十分理解していた。


 ――けれど。そんな事が、出来るはずもなかった。


 出来なかったからこそ、何も答えられない。


 桑梨山に逃げたところ、街道を東雲水軍に封鎖されており、後ろからは追っ手の相樂の忍び衆が来るため、一同が逃れられる道は花刹山への登山道しか無かった。挟み撃ちにあうような形だったため、透理達に残された逃げ道は一つだけだったのである。


 投降することは論外だった。

 そうすれば、皆が処刑されるのは目に見えていた。

 綿雪を踏みしめながら、透理は山を登る。


 ――花刹山、か。


 一度立ち入れば、雪童の呪いを受けるのだという。


 足を踏み入れて呪いを受けなかった者は誰もいないと、専ら評判の場所だ。いくつかの村に滞在している時、透理は噂話を耳にした。それだけ、年中雪深いこの山は、異質だった。無論、濡卑の一座にも、この山に関する伝承は、いくつも伝わっている。


「……大丈夫だ」


 透理がポツリと、そう告げた。水のように静かで、感情の窺えない声音だ。

 本当は戦闘での疲労で困憊していたし、希望的観測なんて出来るはずもなかった。


 しかし少しでも、自分達を一時期の間村で普通の暮らしをさせてくれた、大恩ある孝史を安心させたいという思いが募る。


 そのため息をするのもやっとなのに、必死に言葉を発したのだが、思いのほか冷たい声になってしまい、透理は後悔した。だから長めに瞬きをすして気分を切り替えようとする。だが何をしても、罪悪感と後悔に苛まれる。


 ――濡卑の頭領として、己は判断を誤った。


「透理の言う通りです」


 そこへ錫杖をつきつつ雪道を進みながら、昭唯が声をかけた。


「諦めてはなりません」


 改めて強く、昭唯はそう告げる。その声は明るく力強い。


 昭唯は、血の滴る孝史の体を一瞥しながら、笑っている。それが作り笑いだと透理にはすぐに分かった。昭唯は思いのほか、作り笑いを浮かべていることが多い。そう分かるようになったのは、己には心からの笑みを向けてくれると気づいてからだ。とても作り物には見えないのが、昭唯の笑顔だ。多くの者はこの表情に騙される。


 両頬を持ち上げ、昭唯が明るく続けるのを、透理は一瞥していた。


「もう少し歩いたら、きっと休める場所もあるはずです。そこまで頑張りましょう」


 透理は昭唯の意図を察した。


 ――周囲が気を落としていては、それだけ孝史の死期が早まる。


 どこからどう見ても、最早孝史は助からない。

 それは透理だって気がついていた。


 もし仮に――神の子である雪童が存在するのならば、孝史を助けて欲しいと透理は思っている。いいや透理だけではなく、昭唯を始め全員が孝史の生存を願っている様子だ。


 透理と昭唯の後ろを歩く、多くの村人と、濡卑の一座の者が、皆同じ気持ちだろう。あるいは、それは現実逃避であったのかもしれない。なにせ濡卑には神もよそよそしく、神仏に祈る権利はないのだから。


「無理すんなよ、三春」


 透理達の後ろで、嘉唯が三春に声をかけた。


 三春は息切れをこらえるようにして、必死に歩いている。三春の肩に、嘉唯が静かに触れた。今にも倒れそうに見えたからだろう。華奢な三春は、ふらついている。だが、顔を上げて、しっかりと頷いた。三春は、一見気弱そうだが、芯がしっかりしていると透理は思っている。


「大丈夫」


 三春が両頬を持ち上げて、笑みを浮かべた。

 その気配に、透理は安堵した。


「子供達二人も、このように元気なのですから――先を急がなければなりません」


 昭唯がそう言って笑った。

 頷こうとした透理が、その時前を見て、大きく息を呑んだ。


「……!」

「どうかしたのですか?」

「……社がある」


 透理の声に、昭唯が前方へと視線を向けた。そして目を瞠り、錫杖を強く握る。銀製の輪が鳴る音が響く。


「――雪童を奉る社でしょうか?」


 昭唯の問いには答えず、透理は孝史を背負ったまま走った。

 ざくざくと膝まで雪に襲われるが、気にもとめない。

 早く安全な場所で、『手当』をしなければ――その考えだけが、透理の頭を占めていた。


 それは無論、孝史のことでもあったし、他にも、後ろを歩いてくる多くの負傷した雛原村の人々、そして濡卑の面々に対しても抱いていた想いだ。


 ――とにかく、社に。


 本来ならば、村人……一般の民と濡卑の人々が、このように混合して歩くことはない。

 それがこの世界だ。それだけ濡卑は、差別されている。


 だが雛原村の人々は、分け隔て無く接してくれた。今も、逃亡中だからではなく、濡卑の者にも比較的元気な村人は肩を貸してくれたりしているのは、元々根が優しいからだろうと、透理には分かる。


 ――その恩義にも、なんとかして報いたい。


 社の前に立ち、透理は足を止めた。入り口は固く閉ざされている。

 妻入りの社で、三角屋根だ。


「どうしましょうか?」


 追いかけてきた昭唯が、首を傾げた。彼もまた走ってきたため、息が上がっている。

 吐息する度に、その息が白く変わる。

 それを一瞥してから、透理が告げた。


「蹴破ろう」

「――……雪童は祟ると言いますよ」


 昭唯のその声に、面の奥で薄く透理は笑った。

 それは、自嘲的な笑みだった。


「昭唯は手を出すな。俺は呪われる事に、慣れている」


 濡卑は、呪われし業病を患う一族だ。

 つまり、とうに祟りは受けている。そう透理は考えていた。


 それは――透理のみの理解ではなく、濡卑に生まれた者ならば、誰もが持つ共通認識だ。この世界においては、紛れもなく、それが『真実』だ。当の濡卑も周囲の民衆も、多くがそう信じきっている。違うと言ってくれたのなど、それこそ雛原村の人々だけだ。


「――私は呪いなど信じません。それはただの病いです。付き合いましょう」


 その時昭唯が、錫杖を近場の雪に突き立てながら、そう告げた。


「っ」


 その言動に驚いて透理が顔を向ける。


「さぁ、早く――それに御仏に誓って、私は友人を一人だけで、呪わせたりはしないのです」


 隣にいる、汗をかいている昭唯の笑顔が、今は心強い。普段は汗一つ流さない印象だから、本当は昭唯もまた疲弊しているのはよく分かる。ただ、それでも余裕ある素振りで隣にいてくれるだけで、安心感がある。


 まだ……昭唯の問いに、己は返事をしていないと、漠然と透理は考える。


 だが今となっては、もう『自分も友人だと想っている』と、返事をする権利も無いだろう。


 ――いいや、そんな事を考えている場合ではない。


 それからすぐに、透理は昭唯と揃って、社の扉を蹴り破った。激しい音を立てて、木の扉が中へ向かって倒れていく。


 中には腐葉土色の床が見えた。ごくありきたりな、木造の社だった。




 ――皆で社の中に入り、扉を閉めて、寒さを凌ぐ。


 目に付いた藁の敷物の上に、透理はまず孝史の体を最初に横たえた。もう一時間ほど前の事だ。その後は、昭唯と二人で覗き込み、付き添っている。


 何が出来るわけでも無かったが、透理が指示を出さずとも、他の人々は皆各々動いていた。それに今だけは、透理は孝史のそばについていたいと考えていた。だから、特に頭領として指示を出すことはしない。なにかあれば、馨翁もいる。


「……此処は?」


 意識が朦朧としている様子の孝史が、掠れた声で問う。


「花刹山の社だ」


 簡潔に透理が答えると、隣で昭唯が微笑した。


 よく見なくても作り笑いではあったが、昭唯なりに元気付けようとしているのだと、透理は理解しているから、何も言わない。今となっては昭唯の感情の機微が、手に取るように分かる気がした。


「今際の際には、相応しい――神々しい場所ですよ」


 しかし続いた昭唯の声は、洒落にならない部類の冗談だった。

 思わず面の奥で、透理が目を伏せる。


「……ハハ、そうか」


 しかし孝史が咎める事は無い。

 彼は、包帯がずれ落ちてきて隠れた目元を、柔和に細めているだけだ。

 常日頃と変化がない、穏やかな笑顔である。


「――なぁ、透理」

「……なんだ?」

「お前は、呪われてなんかいねぇよ。俺が保証する。呪われているとすれば、呪った神様の方がおかしいんだ」

「……」


 孝史の言葉に、透理は唇を噛んだ。


 己があの村に、一座の皆を引き連れていかなければ――……そして規定日数よりも多く滞在などしなければ、孝史がこのような致命傷を負う事はなかった。それは明確な現実だ。


 悔やんでも悔やみきれない。


 なのに、これほどにまで優しい言葉をかけてくれる孝史の事を、その彼の体が冷たくなり始めていくというのに、何も出来ないのか。ただ見ていることしか出来ず、胸が苦しい。透理にとっては、それがどうしようもなく辛かった。


 ――その時の事である。


「おい」


 一同の視線が、揃って社の扉へと注がれる。

 唐突に淡々とした声が、外から聞こえたからだ。


 そこに立っていたのは、長めの前髪をしている一人の青年だった。

 非常に中性的だと感じさせる外見だ。不思議な色彩の、翡翠色の髪をしている。


 その青年は、性別を見間違うほど美しい体躯の持ち主であり、甘い顔立ちだ。背丈と骨格から、男性だと言うことは分かる。しかし、中性的な少年がそのまま大人になったかのような、不思議な空気を醸し出している。纏っているのは、見慣れぬ月白色の衣服だ。翡翠色の丸い耳飾りが右耳に嵌まっている。


 ――花刹山の雪童は、月白色の衣を身につけている。


 透理は、そんな伝承を想起する。


「お前達」


 その時青年が放った声で、惚けていた透理は我に返った。


「ちょっと退いてもらえるか?」


 青年の言葉に意を決して立ち上がり、透理が一歩前へと出る。


「――怪我人がいる」


 透理は、覚悟していた。『出て行け』と告げられる事を。

 だから先に、そう口にした。真っ直ぐに相手を見る。とはいえ、面越しの事だが。


「俺達、濡卑の者は、すぐにでも出て行く、しかし他の彼らの事は――」

「出て行く必要などありません、透理。何を言っているのですか、今更」


 しかし透理の言葉を、昭唯が制した。慌てて透理が、面越しに昭唯を一瞥する。

 すると昭唯が、現れた青年を見た。


「勝手に入った非礼は詫びます。しかしながら、此処にいると言うことは、貴方は雪童の縁者あるいは、当人でしょう? 怪我人をこの雪の中に追い出すような非道を、果たして神が見過ごすでしょうか? そんな事はあり得ないと、御仏に仕える身である私にすら分かります」


 よく通る強い声で、昭唯が続ける。透理は昭唯と青年を交互に見た。

 その時、麗しい青年が困惑するように吐息した。


「あの――」


 そして彼は何かを言いかけたのだが、そこに被せるように昭唯が再び口を開く。透理は見守るしか出来ない。


「兎に角、追い出さないで下さい。その要求は飲めません、私達は、此処から離れるつもりは、一切ありませんので」

「だから、あの――」

「退かないと言ったら、退きません」


 きっぱりとそう言った昭唯の顔を、青年が困ったように暫し見ていた。


「……その、別に中にいていい。お前達の足の下の板を外さないと、囲炉裏に火が入れられない。奥の座敷に移動してくれないか?」


 青年が、とても困ったようにそう口にした。

 その言葉を理解し、透理は昭唯と、思わず顔を見合わせる。


 そんな二人には構わず、中へと入ってきた青年は、それまで壁にしか見えなかった右手の木の板を、左右に動かした。すると奥に、座敷が現れた。一段高い場所にある、畳が敷かれた部屋を透理は目視した。


「こっちに」


 青年がそう言った時、今度は透理と昭唯も、そして見守っていた皆も従った。


 怪我をしている者には手を貸し、皆が畳の上へと向かった後、今度は床の木の板を青年が外していく。すぐにそこには、巨大な囲炉裏が現れた。


「後は、少し人手を貸してくれ」

「人手?」


 昭唯が問うと、少し怯えるような眼差しで、青年がコクコクと何度も頷いた。透理は、昭唯がいてくれて本当に良かったと考える。己一人では、このような応答は出来なかった自信がある。


「雪でこの位置からは見えないが……社の石段を一番下まで降りた所に、荷車を置いてきた。布団や衣服、食料を積んであるが、一人でこの場所まで持ってくるには骨が折れてな……」


 その言葉に、濡卑の一座の面々が、長である透理を見た。

 透理が頷いて返すと、二十人前後いる濡卑の人々が立ち上がる。


「運んでくればいいんですか?」

「そうだ」


 立ち上がった一人の声に、青年が頷いた。


 それを確認すると、濡卑の面々は雪の中、社から外へと出て行く。透理はその背中を見送った。


 それから青年は、その後囲炉裏に火を入れた。


 残った透理は、沈黙しながら作業を見守る。見慣れぬ品で火を点け、その後また皆には馴染みが全くない所作で、その炎を大きくしていった。思わず透理は凝視していた。昭唯が尋ねたのはその時である。


「ええと……貴方は?」


 金色の袈裟が囲炉裏の火で少しだけ煌めいて見える。透理は次第に暖かさをを感じながら、漠然とそう考えた。


「俺は、彩という」

「彩殿ですか」


 人好きのする笑みを取り繕って昭唯が頷いた時、外に向かった第一陣が帰ってきた。

 それほどの時間、透理達は呆然としていたのである。

 戻ってきた濡卑の面々が手にしていたのは、切ってある茸や野菜、肉類だった。

 それを一瞥しながら、彩が鉄の鍋を囲炉裏の上に吊るす。


 彩は持参していた鞄から、不思議な筒を取りだした。それは透明で、蓋を開けると水が出てくる。水は、鍋を満たしていく。


 透理にとっては、こちらも初めて見る品だった。透理は、再びまじまじと彩と鍋を見据える。彩は特に気にするでもなく、野菜盛り沢山の、うどんのつゆを作り始める。そこでまた、昭唯が気を取り直した表情になったのを、透理は見た。


「私は幸栖こうのす昭唯と言います。御仏に使える者です。昭唯とお呼び下さい」

「分かった」

「こちらは、透理と言います」


 そう告げて、昭唯が透理へと視線を向けた。

 ごく自然な流れで紹介されたものの、見守っていた透理は体が強ばった気がした。

 彩はといえば、促されるがままに透理へと視線を向けている。


「――その格好は、流行か? 多くがその格好だが」


 この場にいる約十五名が同じ装束を纏っている。彩は疑問に思ったのか首を傾げている。

 透理は、凍りつきそうになった。昭唯も沈黙した。


「これは――」


 透理が濡卑の事を伝えようとした時、昭唯が錫杖でそれを制した。


「彼らは伝統芸能を保存している方々なのです」

「へぇ」


 訝る様子もなく、また、興味もない様子で、彩が頷く。


 ――まさか、濡卑を知らない?


 自身が導出した驚愕の結果に、透理は息を呑んだ。


 ――ありえない。


 まず最初に、そう思った。


 しかし……ずっと山で暮らしてきたのならば、ありえない話ではないのかもしれない、とも思い直す。実際目の前で鍋を見ている彩の瞳には、多くの人々が濡卑に向ける、忌むような色が無い。


 ――知らないから……だから慈悲深く、自分達を留め置いてくれているのだろうか?


 透理は、必死に頭を回転させた。

 だがそれは……露見すれば追い出されるという危機を孕んでいる。


 この装束を知らないのだとしても、濡卑という存在まで全く耳にした事がないとは考え難い。透理の背に、冷や汗が浮かんできた。


「うどん、食べられるか?」


 濡卑の人々が運んできた食材から、なにやら透明な袋に入る白いものを取り出し、彩がそう尋ねた。


 透理達の動揺に気づいた素振りは、一切ない。


「ええ」


 ここのところ満足に食事をしていなかった昭唯が、笑顔のまま頷いた。

 勿論――警戒心を隠すための作り笑いだろうと、透理は判断する。


「――ご馳走して頂けるのですか?」


 昭唯の言葉に、静かに彩が頷いた。


「うっ」


 その時、奥の一角から呻き声が響いてきた。


「孝史……!」


 透理が孝史の顔を覗き込む。位置が床板よりも奥だったから、最初に運んだ位置に、孝史は横たわらせたままだ。重症過ぎて、一度横にしたから、動かすのが危険だったというのもある。


 孝史の側に、昭唯もまた膝を突いた。

 するとゆっくりと彩が歩み寄ってきて、屈む。膝に手を当てて、孝史を覗き込んでいる。


「――これは、縫って輸血をしないと命に関わる」


 淡々と呟いた彩の言葉の意味を、透理は昭唯を見る。昭唯も首を振っている。二人とも理解が出来ないのだと、透理は悟った。


 縫うというのは布地なら分かるが、輸血という言葉は初めて聞いた。


「誰か、火を見ていてくれないか?」


 彩が声をかけると、すぐそばから、嗄れた声が上がった。


「火の番は得意じゃ」


 馨翁が声を上げた。

 その姿に、透理が息を呑む。


「何、気にすることはない、雪童様のたっての願いなんじゃからな」

「……よろしくお願いします」


 透理が静かに頷く。


 それから彩は、持参した鞄をあけ、中から半透明な袋に入った赤い液体を取り出した。透理は思わず息を詰める。血に見えたからだ。


「それは……?」


 昭唯が尋ねると、彩が視線を向けた。


「輸血パックだ。万が一に備えて持ってきたんだ。治療用の医療キッドもある。これは血液型等が不一致であっても、問題なく使用が可能な品だ」


 彩は、静かに孝史の手を持ち上げる。意識がない様子で、顔色が非常に悪い。彩は孝史の手に、なにやら針をまずは刺した。その後、切り裂かれている腹部を、丁重に縫っていく。


 それを見て、目を丸くしていた透理は、何が起きているのか分からないながらも、雪童の、神の御業なのかと考える。だが昭唯は違う見解だった様子だ。


「異国の医術ですか?」

「まぁ」


 淡々と彩が声を返す。


「頭領、着物が沢山ありました!」


 そこへ、濡卑の一人が透理に声をかけた。


「……そうか」


 淡々と透理が頷く。喜ばしい報告だったが、今は孝史のことで必死だった。


「ああ、よかったら着替えろ」


 それを聞いていた彩が、振り返りながら声をかけた。

 その言葉に透理は驚いた。


 ――このように、普通の人として、普通の遭難者として扱われたことが、これまでには一度しかなかったからだ。そのたった一度は……今、死にかけている孝史や、隣にいる昭唯の手による施しだ。


「それと奥に温泉がある。自由に入れ。一人で入りたい時は、隣にもう一つ浴槽がある」


 彩が続けたそんな言葉に、いよいよ透理は困惑した。


 ――濡卑の入った風呂には、雛原村の人間ですら入らない。唯一の〝禁〟だ。


 膿やふやけた皮膚が、湯を汚す事は、腐肉を見るまでもなく普通は分かる。


「じゃあ俺から先に入る!」


 すると嘉唯が、先に声を上げた。

 それを聞いてすぐに、多くの村人達が立ち上がる。


 嘉唯の意図を察するように、次々と、濡卑の事には触れないままで、村人達が湯に入ると声を上げた。村人の後で入る分には、腐肉は問題にならない。村人はそれを知っているので、先に入ると述べたのだと、透理にはよく分かった。


 そんな気遣いが、透理にとっては優しくも辛いものだった。

 濡卑の人々は、まだ荷運びをしながら、村人達が温泉へ向かうのを見送っている。


「あがったら、二階の押し入れに布団が入っているから、出して適当に休め。後は、薬缶にはほうじ茶を作っておく」


 孝史の処置を終えた彩が、静かにそう告げる。

 透理は罪悪感に似た何かを胸の内に覚えながらも、何も言わないままでいた。





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