第3話 悪夢と上書き
夜更け、透理は飛び起きた。
浅い呼吸を繰り返し、苦しくなって御先狐の面を側頭部に回す。肩で息をしながら、今し方見た悪夢を思い出した。日中あった、無理に乱暴されそうになった記憶を、夢に見たのである。
「っ……」
夢だと気づいたら、安堵のあまり涙が滲んできた。人差し指で、右の目元を拭う。
「透理?」
「!!」
その時唐突に声をかけられたものだから、透理はビクリとした。
慌てて声がした方向を見ると、右手の襖が開いていて、そこからひょいと昭唯が顔を出したところだった。まだ昼間と同じ、濃鼠色の着物に金色の袈裟という出で立ちだ。
「書き物をしていたら、魘される声が聞こえたもので。どうなさいました?」
「あ……」
雪洞の灯りが漏れてくる隣室から、立ち上がった昭唯が入ってきて、襖を閉める。
そして上半身を起こしている透理の、足下に正座した。
「私に話してご覧なさい。御仏に誓って他言致しません」
「っ」
まだ胸の動悸が激しかった透理は、冷や汗をかいたまま、まだ少し現実感を欠いていたのもあり、縋るように昭唯を見てしまう。唾液を嚥下してから、俯いた透理は両手で掛け布団を握った。
「……その」
「ええ」
「……」
「ゆっくりで構いませんよ」
昭唯の声は、温かく優しい。チラリと顔を見れば、そこには心配そうな笑みが浮かんでいた。上手く声にならなかった透理だが、必死に言葉を探す。
「……夢を見たんだ」
「どんな?」
「……昼間の……服を剥ぎ取られかけた時の……」
「なるほど」
「……悪い」
「なにがですか?」
「いや……俺は弱いなと思ってな。濡卑の一座の長なのだから、もっとしっかりしなければ」
自嘲気味に笑って透理が呟くと、昭唯が腕を組んだ。右側に錫杖を置いている。
「あのような目に遭ったのですから、弱っていて当然です。貴方は十分しっかりしているのでは?」
昭唯の温かい言葉に、透理は何も返せない。
すると不意に、昭唯が手をポンと叩いた。
「ですが、それにしても、嫌な夢ですね」
「……そうだな」
「ここは、一つ。心の傷になる前に、上書きしてしまった方がいいと思いますよ」
「上書き?」
昭唯をまじまじと見て、透理は首を傾げる。
「ええ。嫌な記憶は、良い記憶で塗り替えるべきです。たとえ未遂であれど、ね」
そう言うと唇の両端を持ち上げて、ずいっと昭唯が、透理の膝と膝の合間に身を乗り出して座り込んだ。そうして正面から透理に顔を近づける。硬直して透理は目を見開いた。
右手に錫杖を持ったままで、さらにぐいっと詰め寄った昭唯に、唇と唇が触れあいそうなほど顔を近づけられて、透理は息を詰める。どんどん近づいてくる端正な顔の、色素の薄い茶色の瞳に、何故なのか引き寄せられたようになってしまう。それは、その眼差しに獰猛な色の他に、優しさが滲んでいたからだ。
「私ではご不満ですか?」
柔らかな声で昭唯に言われ、透理が困惑していた時だった。
「!」
不意に唇に指で触れられて、思わず透理は仰け反った。するとまた、昭唯がさらに詰め寄ってくる。呆然と昭唯を見上げ、妖艶な眼差しを受けながら、カッと透理は赤面した。
思わず右手で唇を覆うと、昭唯の左手で手首を軽く握られた。
「顔をよく見せて下さい。思ったより可愛らしい反応をするのですね」
「……」
「本当に、透理は綺麗ですね」
目と目が合う。先程よりも一層昭唯の眼差しが獰猛に変わり、その茶色い瞳には情欲が見て取れた。昭唯の眼差しに絡め取られた透理は、背筋がゾクリとしたのを感じる。このままでは行けないと思って、右手を離して振り解こうとすると、より強く手首を握られる。
「嫌、ですか?」
「え……あ……」
嫌か否かならば、決して嫌ではなかったと、透理は思った。だから小さく首を振ると、口角を持ち上げた昭唯が左手で、透理の側頭部の面の紐を解く。カランと鳴り、面が枕にぶつかった。昭唯はそして、透理の右肩に触れ、そのまま押し倒す。昭唯の右手の錫杖が畳にぶつかり音を響かせた。
そのまま暫くの間、透理は昭唯に真正面から見つめられていた。
それは長い刻のようにも、一瞬の事のようにも思える、不思議な時間だった。
ふっと優しく息を吐き、昭唯が体を起こす。
「――もう十分そうですね」
「あ、ああ。も、もういい……もういいから!」
「また嫌な夢を見たら、いつでも声をかけて下さいね」
くすくすと笑った昭唯は、錫杖を手にすると、隣室へと戻っていった。
上半身を起こし必死で息をした透理は、ドクンドクンと動揺で煩い鼓動を沈める事に必死になる。しかしちっとも落ち着かなかった。だが、このことに意識を取られ、日中のことなど吹っ飛んでいることにも気がつく。
「効果が絶大すぎる……」
一人ぼやいてから、それでもこれは、昭唯の優しさだったのだろうと判断し、透理は感謝することにした。そうして改めて横になり、瞼を増えると、今度は自然と睡魔が訪れたのだった。
◆◇◆
「……弱りましたね」
隣室で透理が寝た気配を感じてから、昭唯が呟いた。
初めて見た時、落葉村での怯えた瞳、悲愴に濡れた目に、心を射貫かれて、それからずっと道中から夜に至るまでの間、透理の事が頭から離れなかった。透理は外見も麗しいが、それ以上にあの時見た悲しげな瞳が脳裏に焼き付いている。
夕餉の席で僅かな笑みを見た瞬間には、胸を鷲掴みにされた。
昭唯は本命がいない時分は、身持ちが堅い方ではない。恋人が出来れば一途であるが、今のように独り身が気楽だと考え、適度に遊んできた。万象仏教は妻帯も同性婚も許可しているが、独身の方がなにかと楽だと思って過ごしている。ただ透理に抱く感情は、そういったものではない。冗談八割善意二割だったのだが、あんまりにも純粋に見えて、そんな思考は吹き飛んだ。
「どうしましょうか。庇護欲が止まらないのですが……」
悪夢に魘されていた透理を上手い事言いくるめてキスをした結果、あまりにも透理が愛らしくなってしまい、昭唯は頭を抱えていた。片瞼を半分閉じて、左右非対称の顔で、昭唯は溜息をつく。
「うーん」
男前としかいいようのない、鋭い眼差しかつ無表情の透理が、己の下でだけは草食動物のように涙ぐみ震えていたのが、たまらなく可愛かった。透理の事を、守ってやらないとならない気になる。まずは透理と友達になりたい。まだ心を許して貰えていないのは、明らかだ。
「あと二日、か。あと二日で、透理は出て行ってしまうのですね。今後一緒にいられないのでは、大問題ですね。友達になれない。私が一緒について行くなど、現実的ではないですし。本山……羅象山に陽術の文を送ってみるとして……吉と出るか凶と出るか。悪くすれば、破門ですね。まぁ、そうなれば、私は堂々とついて行けるのですが。まずは孝史から説得すると致しましょうか」
一人そんな事を呟いてから、昭唯は布団から出て、隣室へと戻も寝る準備をした。
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