第2話 雛原村



 心配していたらしい三春に、透理は抱きつかれてからずっと、雛原村を目指して歩いている現在、腕の衣を掴まれている。逆隣を歩く昭唯は、その様子を微笑ましそうに見ている。


「私にも、三春と同じ年の頃の弟子がいるのです。嘉唯かいというので、村に着いたら仲良くしてあげて下さい」


 昭唯の声に目を丸くしてから、嬉しそうに口元を綻ばせて、三春が頷いた。


 それを一瞥しながら、正面に見えてきた雛原村を透理は見据えた。法師が常駐しているだけあって、大規模な村だ。


 ――そこでは、どのような要求を突きつけられるのだろうか?


 きちんと着直した黒装束姿の透理は、狐面の奥から昭唯を観察する。助けてくれた時には、本当に安堵して肩から力が抜けたが、過去、なんの理由もなく助けられた経験が、透理にはそれこそ母や養父といった一座の者からしかなかった。


 透理の本当の父親については、母の静子が一切語らないので不明だが、再婚した養父との間に三春が生まれ、透理と四人での生活は、本当の親子のようで、実の父親の不在や生死などほとんど思い出させなかった。三春の前に神子をしていた母は元々体が弱く、養父の保が亡くなった一昨年に、後を追うように流行病で亡くなってしまった。


 保は生前、透理に様々な忍術を教えてくれた。家族であるだけでなく、師でもある。

 その忍術を用いて、透理一人ならば、本当にどうとでもなる。

 だがそうするわけにはいかないのが、頭領という立場だ。


「ほら、見えてきましたね。あそこですよ、出入り口は」


 昭唯の声に、我に返って透理は改めて前を向いた。そして一座の者に一度振り返ってから、雛原村へと足を進めた。


 すると三春と同じ年頃の少年が駆け寄ってきて、昭唯の前に立った。


「遅いぞ、師匠! って……ええと? この人達は?」

「嘉唯、随分なご挨拶ですね。彼らは、濡卑という方々です。孝史たかふみに、濡卑の一座が来たと伝えてきて下さい。いいですね?」

「濡卑……? うん、分かった」


 嘉唯と呼ばれた少年は、目を丸くしてから大きく頷くと、踵を返して走り始めた。


「さぁ、行きましょう」


 それを見送りながら、ゆっくりと昭唯が歩いて行く。自分より僅かに背が高い昭唯の背を見ながら、唾液を嚥下し気を取り直し、透理もまた前へと進んだ。


 ついていくと、少し高い場所に寺があり、その隣に大きな邸宅があった。土が踏み固められた集落の路地には、綺麗に家々が立ち並んでいる。


「ここが村長の、神原孝史の家です。どうぞ、中へ。孝史ならば、決して悪いようにはしないでしょう」


 それを聞いて、半信半疑ながらも透理は頷いた。

 扉は開いていて、中を覗くと、長身で大柄の青年が、快活そうな笑みを浮かべていた。


「よぉ、昭唯様。なんだって? 濡卑だ?」

「ええ。落葉村で酷い目に遭っていたので、連れてきたのです」

「そりゃあ災難だったな。今、村中に伝令を出した。各家で、一人ずつ、夫婦や子がいるものは、その家族単位で滞在を受け入れる事にした。今、外で誘導を始めているはずだ。勿論俺のこの家でも必要があれば預かる。頭領と神子は、森羅寺の方がいいだろう?」

「ええ、そうですね。寺に住職がいる場合は、そうするよう万象仏教の本山からも通達されておりますので」

「おう。そうしたら、滞在中の禁については、ここで俺と昭唯様と頭領で話をするとして、神子さんは……こりゃあ、まだ小さいなぁ。嘉唯と先に寺に行っていたらどうだ?」


 それを無言で聞いていた透理は、先程のような事があってはならないと考えて、自分の腕を掴んだままの三春を見る。


「三春。先に」

「……でも」


 だが三春も怯えているようで、孝史と昭唯を交互に見ている。するとそこに、嘉唯という少年が顔を出した。


「行こうぜ! 色々お話、聞かせてくれよ」

「えっ……あ……」


 これまでに同世代とほとんど会った事のない三春が狼狽えているのが、手に取るように透理には分かった。暫し逡巡した様子だった三春は、それから手を伸ばしている嘉唯の掌に、そっと手を載せた。


「じゃあな、師匠。先に行ってるぞ」

「三春殿に失礼がないように」


 溜息をついた昭唯に対して、嘉唯は笑顔を返してから、三春の手を引き歩き出した。

 その姿を見送っていると、正面で吐息に笑みを載せた気配がした。慌てて視線を戻すと、楽しそうに孝史が笑っていた。


「心配か?」

「……」

「嘉唯はああ見えて聡いから、心配はいらん。どうぞ入ってくれ」


 孝史はそう言って促すと、先に奥へと戻っていった。


「入りましょう、透理」

「……ああ」


 頷いて、下駄を脱いだ昭唯の後に続き、透理もまた草鞋を脱いで中へと入った。

 案内された客間で、掛け軸の前に孝史が座す。そこへ女性がお茶を運んできた。


「あ、こちらは俺の家内の紗和さわだ」

「はじめまして。私、濡卑の方って初めてお会いするの」

「……透理です」


 言葉遣いに気をつけなければと思い出し、透理はそう述べた。湯飲みを三つ置くと、すぐに紗和は下がっていく。中に入るのはドクダミ茶のようだった。歩き疲れて喉が渇いていたから、すぐにでも飲みたかったが、濡卑の使った食器類は二度と使わないという人々が多いので、透理は躊躇った。紗和は知らないと言っていたから、迷惑をかけないように飲まない方がよいだろうかと思案する。


「それで? 滞在中の禁だが」

「……はい」

「そう畏まるな。気楽に気楽に。別に濡卑だからって、俺は気にしないぞ」


 明るい孝史の声音に、透理が顔を上げる。面越しに捉えた孝史の瞳に、嘘は見えない。


「聞いた事があるのは、腐肉が浮くから、湯は最後に入ってもらうという事だな」

「……ああ」

「他には何か、禁忌はあるのか?」

「……濡卑の側には、特別には無い」

「そうなのか?」

「ああ……三日間だけ滞在させてもらえれば、十分だ」

「三日ねぇ? 気に入ったら、いつまでいてくれてもいいんだぞ?」

「……」


 そんなものは出来っこないと、心の中で透理は溜息をついた。三日以上滞在すれば、罰を受ける事になる。どうせ三日目には、雛原村の者達も、濡卑の一座を追い立てるはずだと、透理は静かに考えていた。


「じゃ、それだけか。俺達が気をつける事は他には無いんだな?」

「……滞在させてもらえるだけで十分だ」

「それなら、特に話す事も無いな」


 孝史のその言葉を聞いて、思わず透理は息を呑んだ。なにか、要求されると考えていたからだ。本来、〝禁〟を聞くというのは、滞在先の村の指示を聞くというものである。


「……」


 透理は面の奥で冷や汗をかいた。しかし余計な事を述べて、何かを要求されても困る。


「透理」


 すると昭唯が、隣から声をかけた。透理が顔を向けると、彼は湯飲みを傾けていた。


「お茶をご馳走になったら、私が暮らす森羅寺へ参りましょう」

「あ、ああ……その……飲んでいいのか……?」


 おずおずと透理が己の湯飲みを見て切り出すと、孝史が頷いた。


「飲め飲め。なんだ? ドクダミ茶は嫌いか?」

「その……呪いが移ると噂する者が多いから……」

「馬鹿だなぁ。呪いなんてあるわけがねぇよ」


 あっけらかんとした様子で、孝史が言う。透理は沈黙した。己の左肩の少し下と二の腕には、確かに呪いの証である障りがある。まだ爛れている状態だが、すぐに腐り始めるのは明らかだ。それが、腐華肉病である。


「……」


 迷ったが、喉の渇きに逆らえず、透理は御先狐の面を後ろに回した。


 そして右手を伸ばして、湯飲みに触れる。初夏の日射しを慮ってか、中身は冷たいようだった。一口飲めばドクダミの風味がし、喉がすぐに癒やされていく。


「思ったより、若いんだな。頭領っていうから、もっと爺様かと思ってたぞ。透理だったか? お前、歳は? 俺は二十八だ」

「……二十一だ」

「おや、私と同じ歳なのですね」


 そんなやりとりをしながら、透理はゆっくりと冷たいドクダミ茶を味わった。




 それから孝史に見送られて、透理は昭唯と共に村長宅を後にした。

 ゆっくりと坂道を上り、すぐそばの寺へと向かう。


 シャラランと錫杖が立てる金属音を聞きながら、時々透理は昭唯を見た。その度に、昭唯は微笑を浮かべて、小首を傾げる。だが別にこれといって話があるわけでもないので、透理は何も言わなかった。


 寺に着くと、嘉唯と三春が待っていた。


「お師匠様、夕餉の準備は出来てるぞ!」

「四人分ですか?」

「勿論! 三春に取れたての蕨をご馳走したくて、一品増やしたからな」


 明るい声の嘉唯の隣では、頬を染めた三春がはにかむように笑っている。三春のそんな表情は珍しいなと考えながら、草鞋を脱いで、透理は昭唯に続いて中へと入った。


「夜は、客間は一つですから――」

「三春は俺と一緒に寝るから、俺の部屋!」

「――そうですか。仲良くなったのなら結構。では、透理は一人で客間を使って下さい」


 昭唯の声に、透理が三春を見る。すると三春が頷いた。


「僕ももっとお話ししたいから、嘉唯と一緒のお部屋がいい!」


 濡卑と同じ部屋を望む者は、本当に少ない。嘉唯は濡卑をなにかまだ知らないのかもしれないが、師匠らしい昭唯が止めない事実にも、透理は複雑な心境になった。だが、三春が楽しそうであるから、それを邪魔したくはなくて、沈黙を貫く。


「では、夕餉を頂きましょうか」


 居間へと案内された透理は、黒い漆塗りの横長の卓に並ぶ料理の数々に、小さく息を呑んだ。万象仏教では、菜食主義などはないのだが、だとしても現在並んでいる品々が、もてなしのための料理だというのは一目で分かる。濡卑であるから、誰かにもてなされた事は無い。濡卑とは、忌み嫌われる存在なのだから。


「いただきます」


 昭唯が手を合わせた。嘉唯と三春もそれに倣う。慌てて透理は、面を後頭部へと回し、同じように手を合わせた。そして朱い箸を手に取り、恐る恐る味噌汁の椀を手に持つ。


「……」


 美味しくて、涙が出そうだった。温かい味噌汁など、滅多に食べられる品ではないからだ。幼少時より旅をしてきて、時に野宿をした際に、一般の民のふりをして母が村へとわけてもらいに行き、そうして作ってくれた事が数度あるだけだ。忍術の鍛錬をしながら待っていた透理は、母の帰宅に喜んだが、同じくらい初めて飲む味噌汁にも喜んだ記憶がある。


「味はいかがですか?」


 優しい声音で昭唯が聞いた。


「俺が作ったんだから、美味しいに決まってるだろ!」

「……ああ。美味しいよ」


 本当に小さくだが、透理は口元を綻ばせた。するとその表情を、昭唯と嘉唯がまじまじと見るものだから、透理は気恥ずかしくなり、表情を正す。


「笑顔の方が似合いますね」

「俺もそう思う」


 嘉唯が大きく頷いたものだから、透理は苦笑しそうになったが、無表情を貫いた。


 食後は、嘉唯と――片付けまで許された三春が、食器類を台所へと運んでいった。神子とはいえ濡卑の一座の者が、洗う行為を許される事は滅多にない。透理は止めるべきか悩んだ。何せ、三春には……決して他者には公言出来ないが、神子であるのに障りの兆しがあるからだ。


 御先狐の面を正面に戻し、透理は俯く。三春には楽しんで欲しいが、濡卑の一座の頭領として、どう行動するのが正しいのか、考えあぐねいていた。


「透理、その狐面は、ずっとつけていなければならないのですか?」


 すると子供達に後片付けを任せて麦茶を飲んでいる昭唯が、小首を傾げて透理に尋ねた。


「ああ……決まりだからな」

「寝る時もですか?」

「基本的にはそうだ」

「何故です? 誰が決めたのですか?」

「……昔から、そう教わっている。それに腐肉が顔にある者とない者の、双方が同じよう過ごせるようにという取り決めでもある」


 淡々と答えた透理は、不思議そうな顔をしている昭唯を見た。


「折角綺麗な顔立ちをしているのに、隠しているのは勿体ないですね」


 至極当然だというように、昭唯が述べた。思わず透理は、咽せそうになった。

 いつも面をしているから、誰かに容姿を褒められた経験などない。

 ただ不思議と、落葉村の村長達のような卑しさは、昭唯には感じなかった。


「この寺では外していてもいいのではありませんか?」

「……決まりだから」

「ここ、森羅寺は、万象仏教の教えが最優先です。何人たりとも、顔を隠す必要などありません」


 そう言うと、唇で弧を描き、昭唯が綺麗に笑った。詭弁だと透理は考えたが、昭唯なりの優しさだろうと判断し、その気持ちには嬉しさを感じる。


「さぁ、早く」

「……それは」

「早く」

「……っ」

「透理」


 昭唯の声が、少しだけ低く冷ややかなものへと変化したから、透理は狼狽えた。強く名を呼ばれたから、じっと昭唯を見れば、その瞳は僅かに鋭く思えた。考えてみると、これほど世話になっているのだし、その相手の言葉に従わないのも悪いようにも思えて、ここには外したら傷つける相手も罰する相手もいないと判断し、ゆっくりと透理は御先狐の面を側頭部へと回した。


「うん。やっぱり男前ですね」

「っ」


 満面の笑みを浮かべた昭唯の一言に、思わず透理は呻きそうになった。あまりにも真っ直ぐに言われたものだから、羞恥がこみ上げてくる。


「透理のような者を、麗人というのでしょうね」

「な……そ、それは、普通は女人に使う言葉じゃ……?」

「性別など関係ありません。私の仕える御仏は、愛に性別は関係ないと説いておりますので」


 両頬を持ち上げて笑っている昭唯を見て、あまり詳しくない透理は、そういうものなのだろうかと小さく首を傾げた。ただ、一つ思う事がある。


「その……昭唯の方が、整った容姿をしているだろう……?」


 思わずぽつりと透理は零した。昭唯の茶色い髪も瞳も、本当に惹き付けられてしまう色彩で、この日ノ本ではあまり見ない。その茶が彩る造形も非常に端正だ。


「ええ。私はよくそう言われますし、とてもモテますよ」

「そ、そうか……」


 納得するが、ここで認めるのもまた中々の自信家だなと透理は感じた。


「お師匠様、終わったから俺達、上の部屋に行くから!」


 そこへ嘉唯と三春が戻ってきた。


「どうぞ。ああ、透理。透理も部屋に案内致します」

「あ、ああ……」


 なんでもなかったように昭唯が言うので、おかしな冗談だったらしいと透理は考えた。

 案内された二階の客間の窓からは、満月がよく見えた。




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