0-5 二日目 初仕事

 一瞬バタバタこそしたが、その後はアクシデントなく職場へ向かった。行きしなにトイレへ寄り、鏡の前で髪と表情だけ整えた。メイクは自然な仕上がりのまま崩れていない。

 よしよし、憂いは限りなく少ないぞ。つい先ほど再会した山根やまねも含め、金曜日の出勤で出会った人に恐い人は一人としていなかった。

 土日もしっかり勉強した。もうヘマはしないはず。

 大丈夫。私なら、やれる!


「よし!」

 気合と共に胸の横で両の拳を握り、肘を腰辺りまで引いた。

 母から学んだ、不安な時にやる「気合のおまじない」だ。


 精一杯、頑張るぞ!


「おはようございます!」

 元気よく出勤したおおとりは、金曜日の分の勤怠登録を済ませると早々に上司の相原あいはらに呼び出された。

 先日予告された通り、オオカミ区長なる動物人アニマンと打合せするための事前の認識合わせが行われる。


 そこには、初対面となる、細身で日焼けしたような顔色の男性も――相原あいはらの言っていた元課長だ。髪は後退こそしていないが白髪まじりで、相原あいはらとどちらが年上かわからない。

細田ほそだ とおるです。今日が初出勤なんだ。よろしくね、先輩!」

「いや、入社月は同じだから同期ですよ! もー!」

 力強くて熱い、だが痛みは一切ない固い握手をしながら簡単に自己紹介した。この短時間のやり取りだけで、細田ほそだのひょうきんな人柄がよくわかった。この人ともうまくやっていけそうだ。


 その後の本日の業務に関する相原あいはらからの背景説明によると、管理局特区出張所の運営は、人間と動物人アニマンが協働で行っているそうだ。動物人アニマンは生活に必要な物資を人間から供給され、それをどのように分配するか自分たちでルールと役割を決めて流通させているとのことだ。オオカミ区長は、動物人アニマン側のトップ。特区の長だから、区長。なるほど。


 動物人アニマンによる自治行為は、十数年ほど前から始まったらしい。この変化によって、動物人アニマンの人数や健康状態の確認に日々費やされていた管理局員の工数が浮き、楽になったそうだ。おおとりは「ほう」と思う――これが細田ほそだが担当する「効率化」というやつの一つなのだろうか?

 おおとりの認識では、動物人アニマンはケモミミや尻尾の生えたである。テレビや雑誌で「びっくり人間」などとして紹介されていた動物人アニマンも、態度や言葉遣いは普通のヒトと変わらなかった。やはり、動物園の動物などとは違う。ヒトのできることは、動物人アニマンにもできるのだ。任せられるものはどんどん任せて良いだろう。

 それにしても、自治をしているなら「管理」などという言わば拘束行為は本当に必要なのだろうか? ――ふと、そんなことを思った。通勤中に思いがけず動物人アニマンとの会話を初体験したが、もしかして区長もフリーダムな性格とか……?


 が、その疑問をぶつける前に移動開始となる。

 指示されるまま、公用車である黒のプリウスの助手席に乗ると、細田ほそだは後部座席、相原あいはらも運転席についた。

「免許は持っているか?」上司はパワースイッチを押し、車のエンジンを起動させながら質問する。

 おおとりはシートベルトを体に掛けながら答えた。「学生の時に取りました。ほぼ『ペーパー』ですけど」

 頭の中では、ボタン一つでエンジンが点くことに驚いていた。おおとりは車を所有しておらず、埼玉さいたま県にある実家はイグニッションキーを回していた。窓も手回しウィンドウしか知らない。


 田舎者の感動などつゆ知らず、

「そうか」イケオジはミラーの角度調整を済ませると、時計で時間を確認する。「今後は一人で特別保護対象個体の上層部と話すことがあるかも知れない。その時は、誰かに送り迎えを頼むように」

「はい。わかりました」

 ペーパードライバーはドライバーにあらず、ということか。仕方ない。時間ができた頃に運転の練習をしておこう。


 出張所を出てから、公用車は大通りを南下した。他に車両は一台もない。特区ズーの中は国有地であり、一般道のような乗用車や物流トラックの往来がないためだ。しかし日本にほんである以上、道路交通法は存在する。もはや意味があるのか怪しい信号機に従いながら、車は孤独に道路を進んだ。


 赤信号で止まったタイミングで、おおとりは興味本位で疑問を口にする。

「オオカミ区長は、どんなヒトなんでしょうか」

「区長は特別保護対象個体だ」

「あぁ、そうでした。……どんな、動物人アニマンなんでしょうか。性格とか」

「冷静な性格だ。頭も悪くないし、会話する上で何ら問題はない」

「普通の人間と変わらないってことですか?」

「そうだな」

「へぇ~」返事をしたのは、後ろの細田ほそだだ。


 助手席の女が「では、なんでき帳面にヒトと動物人アニマンを区別するんですか?」と尋ねるより先に、運転席の男が車を発進させながら口を開く。

「オオカミは、特区ズー運用開始の頃に入った、第一世代の個体だ」

「へぇ」新人は素直に驚いた。

特区ズーの運用が始まってからもうすぐ三十年になる。特別保護対象個体による自治が始まったのは十五年ほど前だが、その時もオオカミとオオワシが中心になって人間と協議を重ねていた」


 新キャラ登場だ。

「オオワシにオオカミ、どちらも強そうですね」と細田ほそだ

 おおとりも同感だった。動物人アニマンにとってはさぞかし頼もしい存在だろう。

「力が強いのは確かだ。だが冷静な個体だから

 が、上司の反応はこちらの認識とはかみ合わないものだった。


「はぁ……」

 おおとりは戸惑うと同時に、思う――だ。

「安心と言うのは、どういう意味でしょうか」今回は、胸で湧いた疑問がすぐ口をついて出た。

 上司は前を向いたまま、こともなげに回答する。「そのままの意味だ。危険はない、ということだよ」

 おおとりは首を傾げる。「危険な動物人アニマンがいる、ということですか?」


「そうだ。特別保護対象個体は、危険であると理解しなさい」上司は少し険のある言い方をした。

 すかさず、後ろから「う~ん」と、悩むと言うより気を引こうとするような声が響く。「野生のクマみたいなイメージかな」

 問い掛ける風の語尾だったが、おおとりが振り返ると、人差し指を立てたジェスチャーをした男と完全に目が合った。同期への説明として発言したようだ。


 細田ほそだはニカッと笑うが、おおとりは未だ得心していない。

 動物人アニマンの扱いが、野生動物と同じなの? どうして? ヒトなのに。

 一時期テレビやネットで頻繁に見かけた愛きょうのあるケモミミと、時折ある地方で人里へ降りてくる恐ろしいケモノとは、どうしても合致しなかった。


 あるいは、動物人アニマンは本当に凶暴で危険な生物なのだろうか?

 答の見えない疑問は、心の片隅に陰を落とした。

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