■(2)洪水伝説


 紅葉に彩られた山。

 木々のトンネルを抜け、細い県道を数時間、車で走った。その後、徒歩で立ち入ることになったその山は、地元の人々にすら正式に名前を覚えられてはいなかった。町から少し離れた場所にある。


 最寄りの集落は、東北地方に属していた。僻地で過疎化が進んでいるその町は、国籍・人種が入り乱れた十数名の集団が訪れた事で、にわかに騒がしくなった。なお、『調査団』の人間は、その土地における客へのもてなしの心の結果の郷土料理よりも、自身達の目的に思考を埋められていた。


 ――この山に、本当に箱船が眠っているのか。


 期待と緊張で、心を躍らせる者の多さ。それは、険しい山道でも、会話が途切れなかった事にも顕著に表れていた。


 この界隈は、隠れキリシタンの里でもなければ、ヘブライ語が由来だという半ば迷信じみた盆踊りのかけ声さえ存在しない。何の変哲もない地域だった。宗教をしいて挙げるならば、葬式仏教となるのだろうか。勿論地域の風習や、アニミズムと習合した祖霊信仰などは、詳細に聞き取りをすれば、きっと残っていたのだろうが、少なくとも私は知らない。


 少なくともこの地には、ノアの箱船に繋がるような伝承は何一つ無く、海や河のそばでさえないのは明らかだった。洪水の伝説すらない土地だったのである。


 では、何故そのような――極東亜細亜の日本という国の、奥地の田舎へ……そこが唯一の最寄りである山へと、調査団が派遣されたのか。


 それは、シュメール文明の遺跡で出土した粘土板が理由だった。年代測定の結果、その粘土板に記されていた文字は、その当時、その時点で、世界最古のものである事が分かった。


 ――シュメール文明は、ノアの洪水伝説とは異なる洪水神話を持っている。


 さて、その粘土板からは、特異な語がいくつか解読された。その中に既存のシュメールの伝承には合致しない名称がいくつかあった。例を挙げると、『カイン』『箱船』『ナカツクニ』『フタハシラ46』等である。他には、複数の数列が記載されていた。


 カインといえば、旧約聖書における、初の殺人者だ。弟のアベルを殺害した、アダムとイブの長男だとされている。なお、カインにとって(少なくとも聖書の記載上)二人目の弟であるセツが、ノアの祖先である。大洪水の際には、カインの末裔は全滅したという話もある。


 それにしても――『箱船』。カインと箱船という二つの単語に、敬虔な基督教徒の中には喜んだ者も唖然とした者もいる。旧約聖書の研究に転機が訪れたと、歓喜した解読者もいた。


 では……他の語は、一体何を指すのか。

 数字の意味は、どのようなものなのか。特に、箱船の側に記載されている数字は、箱船の在り処を知らせる手がかりでは無いのかと期待した者がいる。


 この時数字を、なんとはなしに、地球の緯度・経度に当てはめた研究者がいた。すると驚くべき事に、いくつかの特異的な数字は、現在の地球の位置を指しているという結果が出たのである。


 シュメール文明は、高度な数学体系を有していたと考えられている。しかし地球の座標を正確に測定していたと断言するのは困難だ。ただ、発見されたもの内の一つ、まさに箱船と近接して刻まれていた数字は、日本にある小さな山を示していた。


 日本という国に着目してみれば、古事記や日本書紀と呼ばれる書物群の存在が思い出される。その中に、漢字が当てられている、古い語が残っているようだ。古来の日本という国は、無文字文化であったとされるが、音声言語が存在しなかったわけではない。よって漢字の輸入後、昔から存在する言葉に、文字を当てた例があるらしい。


 その古い書物の代表とも言える記紀において、確かに『ナカツクニ』という語があった。中つ国、神々が住まう場所である。粘土板に刻まれていた言葉と同一だ。


 そして、フタハシラ――二柱というのは、そこに住まう古い神々の数え方である。

 一柱で、一人、つまり二柱とは、二人の神となる。


 なぜシュメール文明から出土した粘土板に、ずっと後になってまとめられた聖書の記述に近いものが出てきたのか。この問いに関しては、当時から伝承があったと考えるのは易い。しかしながら、日本に関連がありそうな語と、示された日本の山、これはシュメール文明と一体どのような関連性があるのだろうか。


 事実は分からないが、解読の限りであれば、どうやら聖書に関連のある箱船は、日本にあるらしいと結論づける事は――不可能ではなかった。そして、そんな馬鹿げた話があるかと一笑する人間ばかりが、その事実を知ったわけではなかった。その為、調査団が組まれる事になったのである。


 数値を地理に当てはめてみた人間、日本語に関する知識があった人間、『彼ら』が存在した事は、紛れもない幸運だった。遅かれ早かれ同じ点に着目する者がいた可能性はある。


 なお、迅速に行動に移す事ができる、実力がある人間の耳に、その報せが入ったタイミングこそが、最たる幸福だろう。その人物にとってこの情報は、非常に価値がある情報だった。彼にとって行動は早ければ早いほうが良かった。何故ならば、彼には寿命が迫っていたからである。


 彼――最後にその人物が名乗っていた名前は、ラシードだ。当時は齢102歳だった。


 周囲は彼を、『アラブ人の大富豪』と認識していた。ラシード氏は、確かに大富豪であったことは疑いようもない。彼は度々、シュメール文明――それに限らず、古代文明の発掘調査に資金援助を行っていた。いいや、それだけではない。彼は様々な研究分野に出資していた。その彼が――死を間近に感じていた時、報せを聞いた。そしてすぐに、日本へ調査に向かうよう、調査員を集めた。彼は末期癌を宣告されていた。


 彼は敬虔な基督教徒では無かったし、イスラム教徒でもヒンドゥー教徒でも無いようだった。今となっては、彼が無神論者であったのかすらも分からない。


 ラシード氏の余命が少ない事、及び、もう少し遅い時期になれば、日本のその山は雪に覆われる事が明確だった為、粘土板の発掘調査から二ヶ月後には、山登りが開始された。



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