ep86.「デート、しましょうか」
『己斐西さんが志望してた専門学校のパンフレットが届いてるの。だから、もし回復したらなるべく早めに登校してね。欠席続いちゃうと推薦も不利になるから……』
電話口でそう語ったのは、進路指導の担当をしている社会科の橋本先生だ。どうやら美容専門学校のパンフレットについて連絡してきたらしい。
この、こんな自分に、進路の話など――。
『ネイルアートって、素敵な仕事よね。ほら、指先っていつも視界に入るから。あなたが魔法みたいに指先で人を元気にしてくれるの、先生楽しみにしてるね』
混じりっ気のない優しい言葉をかけられ、己斐西は泣きたくなった。そんな優しさを向けられるような価値が、自分という人間にあるはずがないからだ。
あの日――自分のせいで人を殺めてしまった、心細そうな顔をした親友を見捨てた時点で、己斐西唯恋という人間はすでにクズの燃えカスの塵以下の存在なのだ。
***
発熱もないのに二日も連続で学校を休もうとすれば、流石に親にも怪しまれる。
六月十五日。
午後の授業だけにでも出席しようと、吐きそうな気持ちを抑えて己斐西は登校した。
登校中、ずっと人の視線が気になっていた。
街頭テレビのニュースを見て、真柴の事件が取り上げられていないか確認した。
いつ警察から電話がかかってくるのか、そのとき何と答えようか、真柴との関係性についてどう弁明しようか――結局、自分の保身のことしか考えられない自分に嫌気がさし、自己嫌悪で押しつぶされそうだった。
やっとの思いで校門をくぐり、昼休み中の自分の席に鞄を置く。
いつもと違ってメイクも雑で、おそらくクマもできている。異様な雰囲気を察してか、いつもつるんでいるグループの女子を含め、誰も己斐西に話しかけてこようとしなかった。
賑わう教室の中、午後の授業の教科書を整理しようとしたときだった。
――ジリリリリリ――!!
「なんなんだよクソ……」
その非常ベルを聞いたとき、本当に頭がおかしくなりそうだと思った。
けたたましい警報音は、寝不足だった己斐西の頭の中をひっかきまわし、正常な判断と思考を確かに奪おうとした。
どうせ誤報だろうと、どうでもいいと言いたげに教室に残る者。
家事だと叫びながら、真面目に校庭へ飛び出していく者。
ニヤニヤしながら祭り気分で、不審者だと妙なことを言い出す者。
生徒が様々な反応を示す非常ベルの音に、流石の己斐西も気になって、一応外に出て様子を見ようと廊下までやってきた。
廊下の方が教室と比べて、非常ベルの音が余計に大きく聞こえる。鼓膜から脳がかき回されるようだ……。
己斐西はうずくまった。激しい頭痛で吐きそうだった。
「――唯恋さん、大丈夫?」
そんな自分に、後ろから肩にそっと触れる手。この冷たさ。――安斎だ。
振り返って見上げると、あの夜に自分が無情に見捨てたはずのあの子が、心底心配そうに自分を見つめていた。
「…………なの……」
「はい?」
「……なんなのあんた……頭おかしいんじゃねーの、何で、あんなことあって、んな平然と話しかけてきてんだよ!」
怒鳴り声を上げてその手を振り払い、立ち上がる。またいつも通りのぼんやりとした瞳が、じっとこちらを見ていた。
この、彼女自身も何を考えているのかわからないと言っていた目が。
「あの……ごめんなさい、体調が悪いのかと思って。それに皆さん避難した方が良いかもって……」
気づけば周りの視線も痛かった。
クラスメイトを心配するだけの安斎に対し、いきなり怒鳴りだした己斐西を見て、何事かと囁き合っている。
まるで頭がおかしいのは自分のようだった。
違うと声を大にして叫びたかった。本当におかしいのは安斎小蓮の方だ。
出会ったときもそうだった。安斎は空気が読めない。常識が通じない。何を考えているかわからなくて不気味だ。
こいつ自身の言った通りだ。人に嫌われて当然だ。
――だから……あんたは見捨てられたんだ。人としておかしいから、あんたが友だちと思っていた奴に、裏切られたんだ――。
喉のすぐそこまで声に出かかって、それを唾と一緒に飲み下した。
「……急に大声出してごめん。ほんと何でもないから。ありがと……」
そう言って手を振ると、さすがの安斎にも拒絶の意思が通じたらしく、彼女は目を伏せ背を向けた。
安斎がいなくなれば気が楽になると思ったが、急にどっと寂しさと心細さに襲われる。
このまま安斎を行かせてしまっていいのだろうか。――いや違う、話さなくてはならないはずだ。
真柴とのことを話して、謝らないと。やっと会話のチャンスがめぐってきたのに、台無しにしてどうする。
避難に向かう生徒の波をかき分け、己斐西は走り出した。廊下の踊り場で安斎を捕まえる。
「待って!」
「え?」
カーディガンの裾に覆われた、その細い手首をぎゅっと掴む。
「あの……あんたさえ良かったら、なんだけど……あのっ、今日の放課後、時間ある? 話したいことがあんの。お願い……」
まるでびっくりしたように目を丸くして、安斎は不気味なほど取り乱さずいつもの調子で言う。
「あらまあ、唯恋さんがそんなに必死になるなんて、なんだか意外」
「あんたまだこの期に及んでそんなことっ、ウチは本気でっ」
「分かってますよ」
彼女を捕らえていた手がゆっくり握り、剥がされる。
「では放課後に。デート、しましょうか」
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