ep85.「俺じゃないって? あはは、あなたですよ」

 置いて行かれるような顔と声で安斎は己斐西を見送った。

 震える手で制服のポケットを無意味にまさぐって、通報する様子も見せず、落とした傘を拾って、おぼつかない足取りで己斐西は闇夜に溶けていった。


 その姿を見て、かえって都合が良かったと安斎は考えた。

 それはそうだ。ここで同情などされては困るし、正義感や道徳心で通報されても困る。一緒に警察署へ付き添われるなどもってのほかだ。


 己斐西は安斎を見捨てたのだ。これが最も合理的な結果だと納得できるのに、なぜこんなにも気怠い気持ちがするのだろう。


「…………」 


 風が吹いた――わけではない。それによく似た、男の虫の息で我に返る。そうだ、こいつの処理をしなくては。


 振り返って近づいてみると、男は微動だにしていなかった。

 腹ばいに丸まって動かない。その下できっと腹のナイフを握り込んでいる。これ以上傷口が広がらないようにするためだろう。死体にはできない芸当だ。


 ――死んだふりをして安斎をやり過ごしたら、警察に全てを喋る? まさか、させるわけがない。


「…………まだ、起きてますよね。寝たふりがお上手ですね?」


 ゆっくり屈んで耳元で囁いてやると、数秒後に根負けしたように青い顔が持ち上がった。

 焦点の定まらないその目に、ポケットからビニール手袋を出して指先一本一本に馴染ませる安斎の姿が映り込んでいる。


「ああひどい、全く酷い人ですよあなたは。女子高生をお金でいいようにして、上手くいかないかったときには無関係の人を殺しちゃうなんて。そして自分の罪がバレそうになったら、人知れず、くらーい路地裏で自殺。わざわざ自分でお腹を刺してから首を吊るなんて、よっぽど確実に死にたかったんでしょうね……」


 スクールバックから登山用ロープを取り出す安斎を、絶望のまなざしで真柴が見守っている。


「……な、にを……おれはひとをこ……ころして、なんて……」

「すぐにばれますよ。あなたの上の階の北崎さんの部屋から、あなたの毛髪が見つかるんです。それに手がかりの日記もね。女子高生を買春しようとしたら、同じ子を買おうとした男と言い争いになった、って……。もうお先真っ暗ですよ。あなたの奥様はとても悲しむでしょう。だけどそれと同時に、納得もするはずです。だって彼女の夫は不自然に帰りが遅いし、子どもの前で父親面をするけれど彼女の前で恋人の顔をもうしてはくれない。長い茶色の髪の毛が、家族の憩いを象徴するはずのファミリーカーのシートから見つかって、きっと心底あなたを汚らわしく思ったでしょうね。もちろんその茶髪の持ち主は、あなたの大好きなあの子です。……憩い(いこい)の場所から、唯恋(いこい)の髪の毛……ふふっ、ごめんなさい、今思いついたからつい言いたくなっちゃった……」


 弱弱しくもがく男の手をそっと握り、手のひらを開かせてゆっくりロープを握らせた。

 安斎は語り聞かせながら、手際良く準備を進めていたのだ。


 廃ビルの裏口にある丸いドアノブに、“絞首刑結び”と呼ばれる方法で結ばれたロープの、ちょうど大きな輪になった部分。それを男に握らせ、彼の頭を輪にくぐらせる。

 男はゆっくりと首を振る。


「い、いやだ……」

「そうですよね、全部見つかってみんなに嫌われちゃうのは嫌ですよね」

「ちが……おれじゃ……」

「俺じゃないって? あはは、あなたですよ。あなたの家族を裏切ったのはあなたです」


 ロープの感触が喉に触れたとき、男は一体どんな感触を抱いただろう。


「……あ……あ…………」


 あごを支えていた手が離れると、頭が大きく頷くように下を向いた。


 夜の暗さに加えて雨の音や匂いが混じる廃ビルの隙間に、真柴の姿はただ酔い潰れた男の姿にしか見えなかった。

 彼が背中を預けるドアが、彼の首と運命を繋がれていることも、すでにその肉体が動いていないことも、腹に刺さった得物も、わざわざ近寄らないと判別できないだろう。

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