ep84.「人にお出しするディナーを自分で食べてしまったじゃないですか」

「――ッ!? ぁ……ヒゅァ……」


 妙な音で息を吐きながら倒れ伏す。声も出ないらしい。


「……ああ、何てことしてくれたんです。人にお出しするディナーを自分で食べてしまったじゃないですか」


 落胆の声が漏れた。

 まだ今は殺すつもりなどなかったのに、計画が大きく狂った。

 真柴を始末するのは、本当は石橋を殺してからのはずだった。

 石橋が自分の希望を叶えてくれなかったときは、上から二番目の――石橋を殺すという念願を叶えた後で、真柴を犯人にするつもりだった。


 そのときは北崎の部屋に侵入し、彼のスマホの日記アプリで、同じマンションに住む真柴という男と、買春予定の女子校生が被ったことがきっかけで言い争ったと書き込み、真柴が北崎を殺す動機を捏造した上で、石橋のことも暴言と共に書き記して……。



「――――うそ、でしょ。なんであんたが……?」



 バシャ、という水音。

 振り返ると傘が水たまりに転がっていた。

 そこで初めて安斎は、己斐西がそこに立って自分の決定的な瞬間を見てしまったことと、雨が降り出していることに気が付いた。


 本当に、ひどい失態だ。


 己斐西は茫然としている。

 今ならこいつの口も封じることが可能だろうか。狂った男の無理心中にすれば――いや、衝動的に死体を増やすのは良くないし、場所が悪すぎる。それに無計画だ。こんなのは非現実的だ。


「……っは……ぃ、いこい……」


 背後でか細く真柴が喘いだ。こいつに喋られてはまずい。


「ちがっ……ちが、うんですッ!」


 安斎は背後の声をかき消すように叫んだ。叫びながら、後ろの男の声に被せるようにして被害者のように弁明する。


「だってこのひとっ人が急に、掴みかかってきて」

「いこい……君、を……」

「お前でもいいって、制服が同じだからって、わけわかんないことを、言って、それでっ」

「とくべ、つ……だっ……た」

「大人しくしないと殺すぞって……」

「ほんとにおれ、はきみ、を…………」


 廃ビルの谷間の路地裏は暗かったし、雨音が次第に強くなっていたし、真柴は自分の後ろに倒れていてよく見えないだろう。

 しゃくりあげるように言い終えて、安斎は己斐西の反応を待った。

 この状況をどう処理するだろうか。目の前の、客と、友人を。


 己斐西は見開いたままの目をぎょろぎょろとさまよわせて、不安定な震え声でぐずぐずとこう発言した。


「ひとごろし」


 ああ、こうくるのか、と思った。


 でも、そうだろう。保身に人一倍のこだわりを見せていた彼女なら、こうくるだろう。

 どうして彼女の目に友人など映ると思ったのだろう。

 正しくはこうだった――――客と、クラスメイトの知人。


 安斎はできるだけ悲哀に満ちた声で嘆くことにした。


「まっ、まって唯恋さ、ちが――」

「あー今日はほんっと暗いな。雨だもんね、暗い。暗い……」


 傘で顔を隠し、踵を返して己斐西は背中を向けた。


「……暗すぎて視界が悪すぎ。何も見えない……」

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