第七章 ダイヤモンドの脆弱
ep79.「不用心だなぁ、鍵しかかかってない……」
認知症の老人が深夜に徘徊したっきり、二度と会えなくなるケースは珍しくない。
山奥で出会った老女とにこやかに話しながら、彼女が着ていたワンピースの紐でその皺だらけの首を締めあげ、実家である農園の、まだ種がまかれていない畑の土に埋めた翌朝のことだった。
「もう、お前の面倒は見きれん。このままじゃ俺がおかしくなる。責任を負いたくない……」
ナチュラルなログハウスの、ダイニングテーブルで向かい合って朝食を終えた矢先。
苦し気にやっと吐き出された祖父の声に、安斎は何とも思わなかった。そして何ともない口調で箸を進めながら答える。
「そう、わかった。じゃあ高校からは一人暮らしするよ。市外の学校でも受験しようかな。学生用のアパートを借りるから、仕送りだけしてくれたら後は勝手に生きていくね。大丈夫だよ――農園の脱税について、誰にも言う気はないから」
そう宣言した通り、安斎は実家である農園から離れた町の高校を受験することにした。同じ県内だが、真逆の方向にある町だ。
不動産の仲介会社でトントン拍子に学生用のアパートを見つけ、入居の契約をし引越しをするまでに一切の躊躇はなかった。祖父も積極的にそれを手伝った。
引っ越し当日。
ちょうど一昨日入居したばかりの、それも安斎と同じ高校に入学する学生がいることが分かった。
「ああ、××高校の一年生? 同じ高校の一年生が今年入居してきたのよ。もしかしたらクラスメイトになるんじゃない?」
世話好きで噂好きといった印象の大家の女性が嬉しそうに語り、彼女に連れられて安斎はその住人に挨拶をしに赴いた。
安斎の部屋の、ちょうど真下の部屋を借りたという入居者が、鳴らされたチャイム音の少し後でのっそりと顔を出す。
「へえ、同じ高校なんだ。俺、あ――河合って言います。河合雁也。よろしく」
大家に紹介を受け、気怠そうに少年はそう挨拶した。
派手な髪色をした、背の高い、わざとらしい猫目が特徴的な少年だった。彼のことをどこかで見たことがある気がすると安斎は感じたが、思い出せなかった。人の顔を覚えるのは苦手だ。
「安斎小蓮です。よろしくお願いしますね。もし上の部屋がうるさく感じたら遠慮なく言ってください」
ただにっこり笑ってそう挨拶し、彼と別れて大家に案内されるままに自分の部屋へ入った。
オーソドックスなワンルームだった。日当たりは悪くないが、三階だから外を歩く人からの視線は届きづらい。
安斎は黙々と荷ほどきを終え、夜を迎えた。あらかじめ購入していた出来合いの惣菜弁当を食べながら、ノートPCを起動してWi-Fiの接続確認を行う。
安斎が食事と風呂を済ませた、深夜といえるその時間帯のことだった。
昼間に河合と名乗った少年がアパートを出ていくのを、安斎はベランダの窓越しに見つけた。最寄のコンビニとは真逆の方向だ。きっとすぐには帰らないつもりだろう。
まだ開けていない引越し用の段ボールからビニール手袋を取りだして装着する。スマートフォンと工具を一本手に取って、そっと部屋を出て下に向かった。
外に誰もいないのを確認し、後ろ手に持っていた工具をドアの隙間に差し込む。
ホームセンターで買い物さえできれば、サムターン錠は簡単に開くのだ。
「不用心だなぁ、鍵しかかかってない……」
誰に聞かせるでもなくそう呟き、安斎は二〇三号室に足を踏み入れた。
まずは玄関から、スマホで家の中を撮影する。物が少ない部屋だった。布団と、棚と、机。キッチンは整然としている。
机の上に出しっぱなしのノートがあった。手袋をはめた手でその中身を読む。
神経質に尖った筆跡で綴られた、同級生を貶めて楽しむ観察日記――。その悪趣味な内容に、安斎はふむと納得した。
「ああ、“南中学のクソ野郎”事件の人か。有名人だもの、地元から亡命でもしてきたってところかな……」
F市東中学に通っていた安斎でも、そのニュースは耳に入って来た。近所の南中学で、男子生徒の三人グループが首謀者となり、一人の男子生徒を陰惨なやり口でいじめたというアレだ。
当時SNSで知り合った同学年の少年が、鍵付きのアカウントではあったがいじめの写真をアップロードしたのをきっかけに、一気にその事件は拡散されたのを覚えている……。
何となく、という気持ちで日記のページをスマホで撮影し、元のページを開いて元の場所に戻した。
河合の部屋の中を適当に物色し、彼の昔の名前である「阿多丘皇帝(あたおかえんぺらー)」と、被害者生徒である「弱井磐眞(よわいはんま)」の写真が乗せられた中学の卒業アルバムを見つけた。
同じ棚の中には、殴打の跡があちらこちらに散らばる弱井の写真がわざわざ紙で印刷され、似たような他の写真と一緒にまとめられたアルバムもあった。
安斎は河合という少年の自室を一通り調べて、つまらなそうに鼻を鳴らして外へ出た。
最初にスマホで撮影した部屋の写真を見ながら、きっちりと物の位置を元に戻した後で。
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