ep80.「もめごとは嫌いなんだ。佐藤君も嫌いだろ?」
なるほど、亡命ではなかったようだ。
どこからどうやって彼がそれを知ったのかは知らないが、河合は石橋を追ってこの高校に入学したらしい。
河合の部屋で卒業アルバムの写真を見たから、新入生の中で石橋の顔を見つけたとき、彼が昔の「弱井磐眞」だったことにすぐ気がつけた。
弱井――石橋は中学時代とは雰囲気が大きく変わっていた。ボサボサだった髪は相応に整えられており、目立ちすぎない程度に垢抜けている。つまり、周囲の生徒に上手く溶け込んでいた。
河合と安斎は同じクラスだった。
隣のクラスの石橋を、移動教室や合同体育の授業などで目にするたび、河合はしきりに見つめていた。河合は石橋を見るのが趣味のようだったが、決して話しかけようとはしていなかった。
当の石橋はというと、彼と同じクラスの玖珠という女子からしきりに話しかけられていた。しかし石橋が彼女と親しくなることはなく、玖珠だけではなく誰ともつるまなかった。石橋は必要なコミュニケーションを除いて、一匹狼のスタンスを貫いていた。
中学時代にあんないじめを受けては当然かと安斎は考えたが、それが彼なりの処世術だと知ったのは、二学期に入ったときのことだった。
「ちょっ、めっちゃ血ィ出てんじゃねーの! 保健室!」
高校一年生、二学期。九月六日。
隣のクラスとの合同体育で、安斎はうっかり転んでひざを擦りむいた。
クラスメイトの己斐西が大げさに騒ぎだしたので、安斎は授業中に保健室へ行くことになった。同じクラスの保健委員として喜屋武が付き添ってくれたが、保健室手前で「もう大丈夫ですから」と言って彼女と別れた。
保健室で一通りの手当を受け、ガーゼを固定して再び廊下に出る。
グラウンドへ戻る廊下の途中で、先に戻ったはずの喜屋武が教室にいるのを見つけた。
――そして、その喜屋武をベランダから覗き見る男子生徒の姿も。――石橋だ。
「――っはあ……! 玖珠さんっ……玖珠っ………………り、りる、るっ……ぅぁ……さんッ!!」
教室に置かれたままの制服の上着を大切そうに抱きしめ、喜屋武は玖珠の名前を唱えながらその衣類に顔をうずめていた。喜屋武は玖珠を好きなんだろうか。人を好きになるということがどういうことか、安斎にはよくわからない。
それよりも興味を惹かれたのは、そんな喜屋武の光景をそっとスマホで撮影する石橋の方だった。
思えば石橋は、いつも目立たない位置や役割を狙うように存在していた。
合同体育では活躍しすぎず、かといって目をつけられるほどの下手は打たない。たまに廊下から隣の教室を見掛けるときも、石橋は一人でいながら他の生徒たちの中に溶け込んでいた。
まるで、ゲームの中のモブキャラのようにして。
日常に溶け込んだフリをして、一体何をやっているのだろう、彼は……。
ちょうどその三日後のことだった。
あまり人が通らない廊下の端で、石橋が放課後に他の男子に絡まれているのを見た。
「なあたった100円だぜ? そんくらい貸してくれてもいいだろがよぉ。喉乾いて死にそーなんだけど」
小銭を貸すのを渋り、石橋は毅然とした態度で断わる。
「捻くれてると言われても良い。僕はこういうケースが後々に100円から500円、果ては白紙の小切手になって永遠に搾取されることを確信してるんだ。だから何が何でも佐藤君にお金を貸すことはないよ、金輪際一生、たとえ君が干乾びて死んだとしてもだ」
まるで普段の彼からは想像もできない口調だ。安斎はそっと物陰に隠れ、聞き耳を立てた。激昂した佐藤が喚きだす。
「あーそう。あー、そう! お前終わったわ高校生活。今終わった。明日から学校来んの苦痛だぞー? たった100円で青春を棒にふっちゃったな。ただでさえぼっちで陰キャの石橋君が、薄情者の被害妄想のサイコパスだってみんなに――」
「登校できなくなんのは君だぜ佐藤君。これ見なよ。君が山内さんと激アツの接吻かましてる現場。――君も知ってるだろ、山内さんが三年の加藤先輩とデキてることと、加藤先輩のお家がちょっとヤバめのナントカ団にかかわってんの。……先輩には僕だと言ってないけどさ、実は僕、加藤先輩のアカウントとオンラインゲームで仲良しなんだ。学校で撮れた面白写真だって言って送ってあげてもいいけど……」
好奇心に駆られないわけがない。
そっと安斎が顔を出すと、青ざめる佐藤の顔が見えた。石橋の顔は、こちらに背を向けているから見えない。
石橋は自分のスマホ画面を佐藤に見せつけ、もう片方の手で佐藤の肩を指が食い込むほどに掴む。
「良いか、二度と僕に意地悪しようとするなよ。僕もお前の秘密は何が何でも守り抜いてやる、だから一生僕に関わるな。良くも悪くも接することなく空気のように扱え。必要な時だけ必要なコミュニケーションを取ればそれでいい。もめごとは嫌いなんだ。佐藤君も嫌いだろ? なら僕ら両思いだ。そうだよな佐藤君? そうだよな?」
肩を掴まれ、無言でうなずいて去っていく佐藤。
それを、見えなくなるまで立ち尽くして見送る石橋。
――まあ!
再び物陰に隠れ、安斎はつい熱くなる両頬を手で覆った。何とあの男は、勝手に人の秘密を踏みにじり、倫理を無視して脅迫に使い、自分の安全を勝ち取ってしまった!
石橋にはプライドがある。そしてそれを守り抜く知恵も、行動力も、非道さも。
日常に潜もうと画策しながらも、明らかに非日常的な狡猾さが彼にはあった。
そしてその非道さを、日常に潜むための努力を、自分も痛いほど熟知している。
今までいろんな人間を見てきたけれど、こんな人はいなかった。
狡猾な者は少なくないが、それを冷静に実行できるブレない非道さを持ちあわせた人物を、安斎は初めて目の当たりにした。
――希少、だ。レアだ。
鼓動が早くなる。
身震いする。
視界の隅で、廊下の壁を這うクモを親指でぎゅっと潰した。か弱い体が千切れて潰れ、汁が出る。
命の、呆気ない終わり。
だけどこんなのじゃない。
こんなのでは足りない。
もっと激しく、身もだえするような命の終わりを感じたい!
激しい衝動を落ち着けるために、羽織っていた長袖のジャージの裾を引っ張った。
裾の中、手首に巻いたヘアゴムを強く弾いて、皮膚を強く打った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます