ep.65 ■二〇××年九月五日。雨。

■二〇××年九月五日。雨。



 記念すべき一日だ。

 興奮して今も上手くペンを握れない。こういうときにはハーブティーを飲むと良いらしいが、あいにく家にそんなしゃれたものはない。



 ……弱井磐眞はとうとう泣いた。俺はあいつを下したんだ。

 その日、俺は放課後まで弱井に何もせず過ごした。何もされていないのに無駄にビクビクと怯えて一日を過ごす弱井を見るのはとても楽しかった。いつもより背筋を伸ばして、背後の俺にずっと震えていた。


 いつもつるんでいた友だちから距離を置かれ、弱井は孤立していた。

 いくらか寂しそうに見えるそいつが放課後を迎え、教師が教室を去った後、仁藤がいきなり弱井の首根っこをひっつかんで教室の後ろにある掃除用具入れに叩きつけた。

 ひどい音がして教室に残っていた何人かが振り返ったが、三田が宇宙人語のように何事かわめくと、教室からは俺たち以外には誰もいなくなった。みんな三田の三白眼が怖いらしいが、俺にしてみれば蟻が睨みつけているようにしか見えない。


「オイ弱井~、なァんで俺の教科書がお前の机から出てくンだよ。俺、お前に嫌がらせされるほど何かしたかァ!?」


 そう言って仁藤が弱井の腹を殴った。弱井はうずくまったがまだ泣いてはいなかった。

 俺が弱井に近づいていくと、仁藤が立っていた場所を俺に譲ってくれた。こいつは俺のことをボスか何かと思っているのかもしれない。俺はこいつのことをただの文房具くらいにしか思っていないのに。


「弱井君さ、言いたいことあんなら俺に言いなよ? この前お前にちょっと意地悪したからって俺のこと恨んでんのは分かるけどさァ、俺の友だちに仕返しすんのはちょっと……いやかなーり卑怯じゃねえのかな! なあ!」


 やや長めの前髪をひっつかんで顔を上げさせると、弱井は青い顔でただ静かに俺のことを見つめていた。

 人は怒りで顔を青くするやつと赤くするやつの二パターンに分けられるらしい。

 青くするやつは自律神経のうち副交感神経が優位に働いていて、落ち着き払って何かとんでもないことを冷静にしでかすタイプ。

 赤くするやつは交感神経が優位に働いていて、興奮で混乱しながらとんでもないことをしでかすタイプ。

 弱井磐眞は前者だ。怒らせるほど冷静に物事を判断して、このときもどう振舞うべきか考えているに違いない。


「何か言ってくんねえとわかんねえんだけど?」

「……どうせ何を言っても無駄なんだろ。なら何も言わない。ほら、殴れば? サンドバックを買う余裕もない貧乏人だから、わざわざ難癖つけて僕に絡んでくるんだろ」


 俺は思わず笑ってしまった。この期に及んで挑発してくれるなんて、素晴らしいやつ!


 この野郎、と仁藤がこぶしを振り上げかけたので、俺は弱井の前髪から手を離して立ち上がった。仁藤はそれだけで引き下がる。


「市松さァ、理科の加藤先生に雑用押し付けられたって言ってたよな。あれ、弱井君がかわりに引き受けてくれるってよ」


 突如話を振られて、市松が驚いたように「マジ?」と言った。その声には笑いがまじっていた。

 弱井が目を丸くしてこちらを見上げる。そして言った。


「僕はやらない」

「へえ、そう。じゃ仕方ないな」


 俺はポケットからライターを取り出して、ロッカーに隠していた弱井の教科書を引き出した。着火したライターに教科書の角を近づける。


「知ってるぜ弱井、お前んちって父子家庭ってやつだろ。片親は大変だよなァ。金はかかるしこんなひねくれた反抗期の息子の面倒も見なきゃならない。だけど仕方ねえよなァ。お前が仁藤の教科書盗んだんだから、お前も自分の教科書盗まれても、たとえ燃やされても仕方ねえよなぁ」

「っざけるなよ! 僕はそんなことやってない! どうせ阿多丘君が僕をハメるためにやったんだろ!」


 叫ぶ弱井に俺は返した。


「友だちもいない、協調性がなくて社会に適合できない、虚言癖もある、おまけに無駄に教科書もう一冊買わせるよーな親不孝者! すげーよお前、最低だ! 中学生の中でもド底辺! ……なあ俺はさっきチャンスをやったんだぜ、わかるか? お前が仁藤にやった意地悪の代償を、市松のお手伝いをすることでチャラにしてやろうとしたんだ」


 絶望に歪んでいく弱井の目がたまらなかった。見開かれた瞳の中で、俺の持つライターの灯りがきらめいていた。


 少しだけ沈黙した後、唇を血が出るほどに噛んで弱井は言った。


「……わか、った……やるよ。明日、市松君の代わりに、雑用……」


 絞りだすように言った弱井の、右のまぶたが痙攣していた。きっと言いたくないことを言わされているのだろう。なんて可愛い光景じゃないか。


 俺は角の焦げた教科書を放って、がまんできずに笑い出した。

 一緒になって笑っていたクソアホトリオはきっと何もこの面白さに気づいていないのだろう。


 行こうぜ、と言って三人を外に出した後、ちらりと教室を振り返ると、弱井が心底悔しそうに泣いていた。

 あいつはその時も青い顔で、きっとこの出来事の重要性をしっかり理解したから泣いていたんだろう。


 弱井は前例をつくってしまったのだ。

 一度でも俺に屈したら、その消えない事実と過去がゆっくり芽吹いて、永遠に俺から逃げられなくなる。

 あの弱井の承諾は一度きりじゃない。

 永遠のはじまりの、その一つだ。

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