ep34.「待って、話し声が」

 すっかり微睡みが消え去ったが、目を伏せたまま身を固くして、石橋は狸寝入りを決め込んだ。思わず息を潜めたくなったが、可能な限り自然に聞こえる寝息を演じた。

 しばらく無言の時間が続き、やがて河合が退室する足音が聞こえ、扉が閉まる音を認識してからそっと体を起こした。相変わらず頭は痛いが、先程より視界はクリアだ。額に垂れる頭の血も止まってきた。


 それよりも先ほどのセリフは何だ――。河合が本当に発言したのか、意識混濁の状態で自分が聴いた幻聴なのか分からない。


 思い出すのは、中学時代の忌まわしい記憶だ。

 同級生から悪意と暴力と暴言を向けられ、自己肯定感を削り取られる毎日。


 ――キモイ。ウケる。最悪。触るな。見ろよ、あれ……。


 具体的になっていく脳裏の雑言。刻みつけられた屈辱の時代が鮮明に蘇る。

 やがて自分がクラスメイトに殴られるのは、自分が被害者だからなのか、それとも罰を下されるほどの悪事を働いたからなのかすら分からなくなってしまった、おぞましい地獄の連日――。



「――よお、起きてるか石橋……?」


 河合の声と扉の引かれる音に、心音が激しく轟いた。肩ごと跳ねそうになるのを押しとどめ、気怠い緩慢な動きを装って石橋はベッドから起き上がった。


 今起きましたと言わんばかりの声と顔をつくって河合に訊ねる。


「ここは……」

「ああ、起きたか石橋。保健室だぜ。びっくりさせやがって、お前頭から血流して気絶すんだからよ。マジ救急車呼ぶべきかと思ったぜ」

「はは、それはどうも。面倒かけてごめんね。河合君もう帰っていいから……」

「そんなわけいくかっての!」


 まるで心から友人を心配するような河合の声に、石橋は心から恐怖した。

 喜屋武からの暴力がトリガーで、過去に受けた暴力のフラッシュバックが起きたのだろうか。

 それとも頭の打ちどころが悪かったせいで、幻聴や幻覚、被害妄想に囚われているのかもしれない。


 何も定かではないが、とにかく石橋は今、自分が正気ではないのを自覚していた。

 周りの全てが敵に見えるような錯覚の中、当然だが河合の顔をまともに顔を見られない。


「……なあ、喜屋武とのことだけど」

「そうだ玖珠さん!」

「は?」


 石橋は河合を横切るように立ち上がって、今最も信頼できる友人の名を口にした。


「おい、石橋……」

「玖珠さん。玖珠さんがどっかでつかまってるはずなんだ。おそらく体育館倉庫だと思うけど……」


 口にする度、自分が中学生ではなく高校生なのだと思い出す。玖珠の名前は今の石橋にとっての力強いまじないだった。少しずつ正気が戻ってくる気がする。


 玖珠さん大丈夫かな、と念じるようにつぶやきながら挙動不審に保健室を飛び出すと、河合が速足でついてきた。「ちょっと待てよ」と半ば困惑気味の河合の声を無視して、石橋は体育館裏へ向かう。


 ここでの喜屋武の追跡はなく、あっさりと石橋は体育倉庫までたどり着いた。河合がむやみにその扉に手をかけようとするので、石橋はそれをジェスチャーで制止する。


「待って、話し声が」


 そう呟いてそっと扉に耳を近づけると、確かに誰かの話す声が聞こえた。

 落ち着いた声はボリュームがなく、誰のものだか判別できない。これが玖珠なのかどうかは分からなかった。

 石橋、と背後で囁く河合の声。振り返ると、河合が傍にあった二本の熊手のうち一本を渡してきた。

 河合のことはまだ信頼できなかったが、確かに武器はあった方が良いかもしれない。


 二人で熊手を一本ずつ構え、石橋は勢いよく扉を開けた。

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