ep35.「さっきから失せろって言ってるだろ、鬱陶しい」
「――ひゃあ!」
緊迫した場にそぐわない、気の抜けた甲高い悲鳴。
肩を跳ねさせて驚いた安斎の後ろ姿がこちらを振り返った。
「え、安斎さん……?」
「なんで安斎さんがいんの……?」
驚く石橋と河合をよそに、安斎の奥に座り込んでいた玖珠が身体ごと傾けて顔を出した。
眼鏡を外した玖珠の顔を、石橋は初めて見た。──ついでに言えば、殴られたかひっぱたかれたかしたのだろう、腫れた頬も初めて見た。
「その声は石橋君!? 石橋君だね、ああ良かった無事だった……」
「玖珠さんも無事――いや無事じゃないなそれ……」
裸眼の玖珠はどうやら声とシルエットで石橋を判別しているようだった。
安斎は再び玖珠に向き合い、彼女の手首とバスケットボールの入ったかごを結びつけるネクタイをほどく作業に戻った。
しきりに目を細めながら、玖珠が石橋に向かって語る。
「いやー運がよかったよほんと。眼鏡もスマホもどっか行って、身動きできなくってさ。この中で大声出して騒いでたら――」
「ちょうど花壇の様子を見に行った私がその声を聴いたんです。それで駆けつけてみたら、ええと、こんなことに……」
解放され赤くなった手首をさする玖珠に、安斎が落ちていた眼鏡を拾い上げて渡す。
「あはは、マジで参った参った。でも眼鏡を吹っ飛ばされるのって、単純だけど良いスリルだったよ。いつもの光景が簡単にデンジャラスな異空間になっちゃうんだからね。へへっ!」
「浸ってる場合か。喜屋武さんと何があった?」
「ええと……」
玖珠がレンズ越しに安斎と河合の存在を改めて認識し、分かりやすく口ごもった。
おそらく部外者である二人には事情を口外したくないのだろう。厄介ごとを避けたがっているのか、それともこんな目にまで遭わされておきながら、喜屋武の名誉を気遣っているのか――。
何かを察したような安斎が石橋と河合の間に割って入り、河合の方を見て言い出した。
「そうだわたし、花壇の様子を見たら河合くんを探しに行こうかと思ってたんです」
いきなり話を振られて河合がたじろぐ。
「えっ俺? 何か用事あったっけ?」
「近所であんな物騒な事件があった後だから、今日は河合くんに一緒に帰って貰いなさいって大家さんから今朝言われてて」
「あー、あの人おせっかいだからな」
安斎は石橋に視線を滑らせ、いたずらっぽく笑ってみせた。
「わたしたち、同じ学生用のアパートに住んでるんです。河合くんは女の子のファンが多いから、あまり大声では言えないんですよ。ね?」
「誰も安斎さんが相手なら何も言わねえと思うけどな……」
意外な組み合わせが、意外にも仲良さそうに話すので、石橋も玖珠も面食らった。
安斎がマイペースに河合の手から熊手を奪い取って壁に立てかけ、袖を引っ張って歩き出す。
「それじゃあ、わたしと河合くんはここで失礼しますね」
「いやちょっと待てよ安斎さん!」河合が引き止めて吠える。「どう見たってヤベぇ状況だろこいつら! 石橋は血まみれだし喜屋武が怒り狂ってるし、玖珠さんも明らかに何かの被害者だし。置いてくのはあんまりにも――」
「だけどわたしたちはどう見たって邪魔者ですよ。喜屋武さんはきっと石橋君と玖珠さんに積もる話があるんです。今だって玖珠さんはわたしたちがいたらお話しづらそう。可哀想じゃないですか」
「それは、そうだけどよ……。石橋、マジで俺ら帰って大丈夫?」
冷静に考えれば、この修羅場に第三者がいなくなるのは悪手だと言わざるを得ない。
しかし今の石橋にそんな冷静な判断は選べなかった。どうにも先ほどの幻聴以降、河合が近くにいるだけで冷や汗が止まらないのだ。胃が痛くなる。
助けてくれる第三者はぜひ欲しいが、それが河合だというのなら願い下げだった。
「さっきから失せろって言ってるだろ、鬱陶しい」
――ちょっとこじれてるだけだから、ちゃんと話し合えば大丈夫……。
何とか呂律を回して頭の中を発言すると、玖珠が信じられないとでも言うように石橋を見た。もしかしたら声の震えがばれてしまったのだろうか? そうだとしたら、情けないことだ。
河合が驚いたように目を丸くし、安斎が無言で河合の腕を引っ張って立ち去る。
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