ep33.「勝ち確ボイスで説教かましやがって……!」
やがて悠々と歩いてきた喜屋武の足音が背後で立ち止まり、すました声が語りだした。
「お前さえいなくなれば玖珠さんも正気に戻るさ。今は理解してもらえなくても、そのうち私のことを認めてくれる。やっと私の世界が透明度を取り戻すんだ。――さて石橋、ジェンダーギャップ指数を知っているか?」
「は……?」
「世界で各国の男女格差を数値化したものだよ。教育、経済、健康、政治……どの分野でも日本は世界的にジェンダーギャップが目立つ。特に格差があるのは政治分野だ。男が構成する男がつくった男が導く政治が、女性を含め国の舵を取っている。犯罪者の数も男が圧倒的に多い。その理由は様々提唱されているが、少なくとも私は遺伝子によるという説を推している。男性ホルモンは性衝動を高めたり、衝動的に――つまりキレやすく、理性の働きを弱めてしまうって話だよ」
何とか足を引きずって顔を上げる。きっと今の自分の姿は、まるで許しを乞う罪人のような情けない体勢になっているに違いない。
屈辱を噛み締めながら振り返ると、ぐにゃりと歪んだ視界で喜屋武がこちらを見ているのが分かった。
「……ご高説どうも。で、結論から言ってくれないか、教授?」
「ほら、気が短い!」
嘆くように言い放ち、喜屋武が肩にかけた矢筒からもう一本の矢を取り出した。
「こうなったのはお前のせいというより、お前が男として生まれてしまったせいだ。覗きも妄想も、どんな趣味も人それぞれだと思うよ、それは私自身が一番わかってることだ。だけど人に迷惑かけちゃいけない。お前のXY染色体がそこを踏み越えさせてしまったから、仕方なく私はこうして鉄槌を下すんだ」
「勝ち確ボイスで説教かましやがって……!」
右手をついて震える体を起こしながら、体の下敷きになっている左手でポケットに何かないか探る。
目ざとく喜屋武がそれに気付いて眉を寄せた。
「――この期に及んでまだ何か――」
喜屋武が言い終える前に、彼女は激しい水飛沫で真横から体を打たれた。
――雨? いや、雨は水平に降ったりしない。そもそも降るという表現には似つかわしくない勢いがある……。
「石橋!」
そう叫ぶ声が喜屋武の少し後ろから飛び込む。
顔を向けると、ホースを握った河合がそこにいた。水道に繋がれたままのホースの口を潰して、河合は喜屋武に高水圧を浴びせていた。
「冷たッ……」
いきなり真水を浴びせられて喜屋武が怯む。
その隙によろよろと立ち上がると、喜屋武に水をかけることを忘れないまま、足元のおぼつかない石橋を促して河合が後退した。
「河合君? なんでここに……?」
「忘れ物して教室まで戻ったんだよ、そしたら窓からお前が喜屋武と鬼ごっこしてんのが見えてよ。何でこんなことンなってんだよ、修羅場か?」
「はは、まあ、そんなもん……」
河合が水を出しっぱなしにしたホースの端を喜屋武に向かって投げ、石橋は彼に連れられて走り出した。
「待て石橋ッ! こらーッ!」
背後から喜屋武の怒号が聞こえる。その声が遠くなったところで振り返ると、まだ何か怒鳴りながらも律儀に水道へ戻って蛇口を止める姿が見えた。
こんな場面でも水の無駄遣いを気にする姿は、何だかとてもシュールだ。
根は真面目でデリケート……玖珠の言葉が頭をよぎる。そんなことを言った玖珠は今どこでどうしているだろうか。
石橋は河合に先導されるままに校舎へ敗走し、保健室へと向かった。バケツをぶつけられた頭から血が首筋に垂れてくる。
屋内に入る頃にはまるでゾンビにでもなったように足を引きずり、石橋は朦朧とした視界を進んでいた。
「おい、石橋? おいしっかりしろよ!」
よろめく石橋の体を河合が支えようとしたが、石橋は「大丈夫」と半ば反射的にその手を弾いた。このピンチに駆けつけてくれたのはありがたいが、まだ彼のことを信用しているわけではないのだ。
もう何が何だか、冷静に判断できないというのが正直なところだが――。
無人の保健室に入り、一も二もなくベッドへ倒れ込む。仰向けに目を閉じると隣で河合がまくし立てた。
「喜屋武は追って来てないみたいだ。――なあ、ほんと何が起きてるんだよお前。何で喜屋武にこんなことされてんの……」
返事をしようと思ったが、口が動かなかった。意識が遠のく。瞼が重くてとにかく眠たい。このまま気を失いそうだった。
「石橋? もしかして気絶でもした? 救急車呼んだ方がいいのかこれ……」
おーい、と耳元で囁かれた。その声もなんだか遠く感じて、誰のものかすら分からなくなる。
石橋が黙り込んでいると、沈黙の中、河合のものと思しき声が喋った。
「…………………痛かった? はは……これからもっと、苦しんでもらうぜ……」
一気に覚醒し、石橋は戦慄した。
その声に聞き覚えがあった。
一体、いつ、どこで? これは夢か? それとも現実に今、河合が発言したのか──?
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