ep30.「あなたをぶった私の心だって痛いんだよ!」

 六月十四日火曜日、午後二時四十分。


 五限の授業が終わった後に、全校生徒が体育館に集められた。近所で物騒な事件があったため、早めに帰宅せよとのことを校長が演説する。可能な限り自宅で過ごすこと、夜は出歩かないこと、自分を大切にすること――。

 校長が道徳めいた長話を少し加えてから演説を切り上げ、各学年順に数分ずつずらして生徒が体育館から退出していった。現地解散とのことで、退出した後は教室に戻り、そのまま荷物を持って校舎を出なければならない。


「喜屋武さん、ちょっといい?」


 生徒の波にごった返す体育館で後ろからそう声をかけ、腕を引くと、喜屋武は分かりやすく息をのんで振り返った。切れ長の美しい瞳が見開かれ、その中に利己的でわがままな女が映り込んでいる。


「あたしとお話ししようか、二人で」


 喜屋武は何も言わなかった。――いや、あまりのことに驚いて、声が出なかったのかもしれない。

 生徒の波の中で河合が石橋に絡んでいるのがちらりと見える。きっと今の玖珠を石橋が見たら止めようとするだろうから、石橋には可哀そうだが、彼の苦手な河合が邪魔をしてくれるなら都合が良い。


 途中まで女子の集団に紛れて歩き、そっと群れをはずれて体育館倉庫へ入った。案の定そこには誰もいなかった。

 喜屋武を先に中に押し込んで、後ろ手にカギをかける。喜屋武は説教を受ける前の子どものような顔をしていた。


「玖珠さん、あの……」

「あのね喜屋武さん、もしもあたしに心揺らされるものを感じてるんならそれは勘違いってやつだ。あなたがそんな感情を抱くべき相手はあたしじゃないはずだよ」


 言われた後、喜屋武は俯いて目をそらし言った。きっと逃げる気だろう。


「え、ええ……? いや、何を言ってるのか分からないよ、別に私はそんなじゃ――」

「確かに中学のときに喜屋武さんのことを結果的に助けたのかもしれない。でもあれはあたしの喜屋武さんへの厚意じゃない。あたしは正義ぶった顔で人の修羅場に顔を出してスリルを味わいたかっただけ。本当は喜屋武さんの事情なんてどうでもよかったんだ。あの時お礼を言われたときにハッキリそう否定しておくべきだったね。感謝なんてされるいわれはないし、あたしは喜屋武さんにあの時話しかけられるまであなたのこと、どうでもいいその辺の喋る石ころの一つとしか思っちゃいなかった――」

「そんなことッ――!」


 勢いよく怒鳴りかけたが、喜屋武はとどまって静かに息を吐いた。


 ――前に一度だけ、弓道部の練習試合を見たことがある。あの時見た構えとよく似ていた。ピンと張り詰めた弓と、狙いを定める喜屋武の視線。今もその時と変わらず凛としていて美しいと思うが、ただそれだけだ。玖珠がそこに美的以上の魅力を感じることはない。


「……そんなこと、関係ないよ。私が玖珠さんに感謝してることに変わりはないんだし、あなたがしてくれたことも事実。それに私は何を言われても、あなたが自分を謙遜する控えめで謙虚な人だと知ってるから大丈夫――」

「何が大丈夫なの、そんなに目を曇らせて? 正気になりなよ、あたしはあんたを期限付きの一粒のおやつ扱いしてたんだ。もう期限切れだ。あんたという極上のスリルが、たった少し優しくしてやることでただのメンヘラストーカー女に成り下がっちまったのが今は面倒でしかたない」

「そんなことを言わないでッ!」


 ついに手を出した喜屋武に、肩を掴まれ壁に叩きつけられる。痛みについ、ニヤついてしまった。

 平静を装う社会の中の石ころとしての皮がはがれ、喜屋武照沙というドロドロの人間性が中から覗く。玖珠はその光景を見て初めて、彼女を人間として認識する。

 素晴らしい。満点だ。感情が、スリルがむきだしだ!


「おう……痛いじゃないの」

「お願いだよ、目を覚まして玖珠さん。あなたは今自分を見失ってるだけ。だって私は知ってるんだ。玖珠さんはいつだって正しくて毅然としていて、慈愛に満ちている人だってこと。確かにちょっと変わったところがあると思うけど、それはあなたが誰にもなびかず聡明で偉大な私の人生を照らすただ一本の街灯であるということを」

「クソみたいな幻覚だ!」早口の喜屋武を遮って手を掴み返した。「喜屋武さんラリってる? 見なよ、眼鏡の陰湿な地味女があんたに抑え込まれてるだけだ。いつか夢見た救世の女神なんぞいやしない。目を覚ますのはあんた自身だ、騙されたんだよ! だからあたしに執着する意味はないし、石橋磐眞に恨みを抱く必要も――」

「そいつの名前を出すなッ!!」


 存外に強く頬を打たれ、思わずよろめいた。痛い、意外だ、最高だ――。痛みではなく興奮で玖珠は尻もちをついた。

 喜屋武が頭を抱えてこちらを見下ろしわめいている。


「ああ違うこんなことしたいんじゃないのに。どうして私が玖珠さんに暴力なんて……でもこうしないとあなたが正気を取り戻さないななら……」

「ってぇなクソ……ショック療法かい? 素人がやっていい対処法じゃないな」

「あなたをぶった私の心だって痛いんだよ! ねえ、お願いだから目を覚まして! 石橋はなんてやつなんだ、玖珠さんの聖なる口から汚い言葉ばかり吐かせて。全部あいつが悪いんだ。あいつが玖珠さんに悪い影響を与えて汚してしまったんだ! ねえ聞いてよ玖珠さん、あなたがどう思ってるかは知らないけど、あいつは己斐西さんのような健気な女の子の覗きをして下卑た妄想ににやけてる、薄汚い男共の中でも群を抜いてシミだらけのクソ野郎なんだ。きっと玖珠さんは騙されてるんだよ、男ってみんなそう。許せない、あんなに綺麗だったあなたが、騙されてあんな男になんか告白なんかしてっ」

「告白? あー……はは。そこまで見られてるとなると、話がややこしくなるな……」


 笑いながら、これは簡単な事態ではないと玖珠はこのときやっと自覚した。

 喜屋武の目を覚まさせて自分への執着をなくさせてから石橋との話し合いに望めればと思ったのだが、上手くいかなかった。むしろ余計なことをした。まさか石橋に告白まがいのことをした場面を見られているとなれば、かなり後処理が面倒になる。


 頬を張られたときに眼鏡が飛んでいったので、裸眼で視界がぼやけて定まらない。それでも目の前に立つ女を見上げて玖珠は続けた。


「見てたんなら白状するがね、誤解なんだよ。あたしはあのとき石橋君に惚れて告白したわけじゃない。付き合ってないし喜屋武さんが思うようなことは何も起きてない。あたしと石橋君は友だちなんだ。わかる? だからね喜屋武さん、あんたも石橋君とはちゃんと話し合いをするべきだ。それに石橋君はああ見えて誠実な人だから、喜屋武さんの弱みを握ってはいるけど、別に悪用なんて――」

「弱みを握ってる……? あの野郎、己斐西さんだけでは飽き足らず、私のことまで覗き見てたのか! なんて下劣な!」

「え?」


 喜屋武が強めに壁を殴った。その衝撃でカゴに入っていた大量のラケットが玖珠の足に雪崩れ落ちてきた。


「――ってぇッッ!!」


 骨をぶつける感触に玖珠は悲鳴を上げた。すねがかなり痛い。流石に身動きできなくなって悶絶する。


「ああ、ごめんね玖珠さん私ったら痛い思いばかりさせて。いつもこうなんだ、口より先に手が出るタイプで、不器用だから思いやりに欠けるってよく言われて」

「不器用とかそういう次元の話じゃない……ッ……」

「だけど話を聞かない玖珠さんも悪いんだからね! とにかく私が言いたいのは、今の玖珠さんは混乱してるってこと。時間を置いて、後でちゃんと話し合おう。大丈夫、どんなに時間がかかっても玖珠さんは私がちゃんと正気に戻してあげる。あのとき馬鹿な私を助けてくれたように、今度は私があなたを助けるよ。あんな男の毒をきれいさっぱり抜いてあげるから。それまでここで待ってて、誰にも会っちゃだめだからね。玖珠さんはきっとピュアな人だからすぐに周りから変な影響を受けちゃうんだ……」


 言いながら喜屋武は自分のネクタイをほどくと、さも当たり前と言わんばかりに玖珠の両手首を拘束した。


「は……? いや何だこれ、喜屋武さんふざけるなちょっと――」

「すぐに片づけて来るから!」


 バスケットボールのカゴにネクタイで手首を縛り付けられたらしい。ろくにハッキリと見えない視界の中、体育倉庫の扉が閉まるのが光の加減だけで分かる。

 視界は使い物にならない。足は痛いし、手は縛られている。完璧に身動きできない状態で玖珠は一人取り残された。


「マジかよ喜屋武さん……とんでもねえスリリングガールだな……絶頂モンだよマジ……」


 言いながら自分のスマホを探すが見当たらなかった。どうやら尻もちをついた際、ポケットから飛び出したらしい。指でネクタイを触ると、片結びにされているのが分かるだけだった。


「さすがにヤバいな、これは。頼む石橋君生き延びてくれ……」

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