ep29.「あたしは後腐れたいんだよ、あんたと……ッ!」

 正義の鉢から芽生えたスリルの、その味の何と甘美なことか――。


「あんたのせいでっ――あんたのせいでねぇ、あたしの人生めちゃくちゃよ、わかる!?」


 そう叫ぶ女の声が今でも鮮明に思い出せる。



 女は玖珠璃瑠葉の父の愛人だった。父は単身赴任で滅多に会うことがなかったから、六歳の時に母が肺炎で入院したことで、玖珠はほぼ初めて父と出会い、彼の家に預けられた。

 父の家にはたびたび愛人の女が出入りして、玖珠を面倒くさそうに相手しては父に殴られるのを喜んでいた。


 ――殴られて、いたのだ。


 女の悲鳴と体の打ち付けられる音、酷い時には血と、彼女の体にできる痣やケロイド。喜ぶ下卑た父の声。

 ある日家具が蹴とばされ、ガラスの花瓶が割れ、破片が飛び、まだ幼い玖珠の柔らかな皮膚が切り裂かれた。


 玖珠はその傷が新鮮なうちに家を飛び出して近所の交番へ行き、父に虐待されていると語った。

 嘘ではなかった。小さな子どもに見せて良い光景ではなく、父のやったことはまぎれもなく身体的・精神的な虐待であった。


 それから父には会っていない。

 正義を果たした警官からDV被害者とされた愛人の女は、玖珠に冒頭のことを怒鳴った。


「あんたのせいでっ――あんたのせいでねぇ、あたしの人生めちゃくちゃよ、わかる!?」


 例え誰から認められることではなくても、女にとっては殴られることが幸せだったのだ。彼女だけのイカれた正義だった。それを奪った玖珠璃瑠葉に女は激怒していた。

 このとき玖珠はどうしようもない快感を得て、きっと不気味な子どもの笑い方をしていたに違いない。

 

「なんで余計なことすんのよぉ、なんで……っ」


 膝をつき項垂れる女に玖珠は笑って言う。今度はちゃんと、気持ち悪くない笑い方を目指して。


「だってお父さんは悪いことをしてたでしょ? 人を叩いちゃだめだよ。あなたはケガをしてた。人にケガさせたら悪いんだよ……」


 世間一般で言われる“正義”を貫いたからこそ、玖珠が“余計なこと”をして得たスリルは正当化された。

 

 女はそれ以上玖珠を責めることもなく、乱暴に頭を一度だけ撫でて、泣きながら実家に帰っていった。

 玖珠は母と一緒に母方の実家で、高校生二年生になる今まで健康的に育てられてきた。

 

 正義という最高のスパイスを得ることで、スリルが極上に至ると知った幼少から、玖珠はもうその味を忘れることなどできはしなかった。

 スリルがなければ生きている実感がわかない。何をしても無為にしか感じられなかった。


 もちろん玖珠は狂っているわけではない。彼女自身が自覚していないだけで、本当はスリルを快感と思い込むことで、幼少期の柔らかな心を凄惨な暴力の光景から守ろうとしていただけかもしれない。


 玖珠はスリルを求める度、同時に正義を求めた。

 怒り、悲しみ、挫折、執着――あらゆるスリルには人の激情が伴う。この激情こそが正義だ。

 そもそも正義とは、人が個人的に持つ宗教のようなものだ。誰かが自分の正義のために感情をむき出しにして演じるスリルは、極上の味だった。



 正義を欲するスリルジャンキーと化した玖珠が、最も煙たがったのがただのトラブルだった。味わうべき正義もなく、ただ対応を迫られるだけのトラブル。激情と名乗るには図々しい迷惑行為。

 喜屋武照沙がまさにそれだった。


「ありがとう、玖珠さん。取り返しのつかないことになる前に助けてくれて――」


 愚直な喜屋武の純愛を守るという正義を建前に、玖珠は女子同士の修羅場を堪能した。ただその後で、喜屋武が自分に執着し始めたことに気づいた。

 最初は良かった。執着気質な女に付きまとわれるのはなかなかのスリルだった。だが次第にそれも面倒に感じるようになった。

 喜屋武はまるで玖珠に執着する自分に心酔しているように思えた。なぜなら喜屋武は玖珠の本質を知らない癖に、勝手に執着しているからだ。

 恋に恋をしているだけに過ぎない。


 だから高校に入学して出会った石橋は――本当に、都合の良い存在だった。


 彼が察していたように、玖珠は面倒になった喜屋武の後始末を丸投げしたくて石橋に近づいただけだった。

 もちろん何らかの事情を抱えていそうな石橋からスリルの気配を感じ取ったのは本当だが、彼に近づくたびに喜屋武のヘイトが石橋へ向くのを感じ、喜屋武の自分への執着を石橋に擦り付けようとした。

 上手くいけば、喜屋武が石橋と一触即発になるかもしれない――その光景さえ堪能させてもらえたら、喜屋武にはきっぱりと気がないことを告げて振るつもりだった。


 事実、高校一年生から始めたその目論見は二年生の梅雨――今になって、成功した。

 喜屋武は今日――六月十四日の放課後、玖珠から離れて石橋を追いかけまわし、彼女の言うところの“鉄槌”でも加えるのだろう。


 ――石橋が玖珠と本心での会話を繰り返して、彼のスリルと正義にまみれた生い立ちとトラウマを知った後に、だ。


「…………情けないな。くそ……」


 後腐れない、と言い残して石橋が去った図書準備室に一人座り込み、玖珠は誰に聞かせるでもなく呟いた。


 ――繰り返すが、玖珠璃瑠葉は狂ってなどいない。


 わがままにスリルを食い散らかし、その後始末を人に擦り付けた。

 擦り付けた相手は酷いトラウマに今も苦しみながら、自分の正義と向き合おうとしている。


 都合が良いと決めつけた彼こそが、皮肉にも、玖珠の求める真のスリルと正義を持っていたのだ。


「あたしは後腐れたいんだよ、あんたと……ッ!」


 こんな打算的な自分を友人だと言って危険を心配してくれた。その石橋との友情のため、玖珠は膝を叩いて立ち上がった。


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