ep23.「鎖骨の下のフタコブラクダがでかい女子は……」
喜屋武照沙の世界は玖珠璃瑠葉で染まった。
彼女を好きになった途端に人生が楽しくなり、色彩が何倍にも膨れ上がった。
誰にも興味のなさそうな眼鏡の奥のその瞳が全ての人を見ていたと知ってから、喜屋武は自分の振る舞いにより厳しく、志が高くなった。
高校進学は弓道部の推薦による大学の附属高校をやめて、彼女と同じ公立学校を受験し入学した。
一年生ではクラスが分かれてしまい、同じ校舎で彼女を見つめるだけの日々を過ごした。玖珠はいつ見ても明朗快活で魅力的な人だった。すでに隣のクラスでは男女を問わず、多くの生徒と気兼ねなく会話している場面をよく見た。
喜屋武はそれを隣のクラスから見つめているだけで、上手く接触する機会はなく、やがて見つめるだけでは足りなくなった。
――彼女を自分の人生に取り込んで、自分が救われていると信じられるようにするためには、体育の授業で置き去りにされていた彼女の制服から体臭を吸い上げ、筆箱から愛用のペンを同じものと入れ替えて所持し、放課後にその上履きに忠誠のキスをすることが最も効果的だった。
やがて二年生に進級した。やっと同じクラスになれて心底嬉しかった。喜屋武、玖珠……出席番号順に並ぶ度、背後に彼女がいる事実に心底興奮した。
しかしクラスメイトになって初めて、玖珠が頻繁に視線を送る相手がいることに気づいてしまった。……いや、すでに一年生のときから、たまに見掛ける玖珠の視線が誰かに向いていたことはすでに悟っていた。
――男の名前は石橋磐眞。これまで気にも留めていなかった、いつも一人で過ごしている、陰湿な雰囲気の変わり者。
どこか人の輪から一歩引いたところで全員を見渡すような彼の視線は、しかし玖珠のような全能の神にすべてを預ける心地よさとは違う、悪魔に監視されるような不快さを帯びていた。喜屋武が玖珠に視線を送るとき、同時に喜屋武は石橋に見られているような気がして落ち着かなかった。
この秘めた恋心を――社会的に少数派と指を指されてしまう、異質とも言える同性への憧れを、不躾に暴かれる気がしてならなかった。
ついに喜屋武は玖珠を視線で追い、その玖珠の視線を追って石橋のことまで多く見つめるようになってしまった。石橋は周りの人間とそつなく会話はするが、基本的には一人で過ごしていた。休み時間も昼食も放課後も、いつも誰ともつるまない。自分からは決して近づこうとしない。
そして玖珠の視線は、いつもそんな石橋に向いていた。玖珠はよく機会を狙って彼に話しかけていた。
「ああ、玖珠さん? 一年の頃からずっとああだよ。石橋君のことほんとに好きなんだねぇ」
一年生の頃から二人を知っているクラスメイトは、玖珠が石橋に猛アタックしていると語っていた。
――――ありえない、あってはならない、こんなこと!
喜屋武は失望に似た強い怒りを覚えた。玖珠璃瑠葉は救世主でなくてはならない。喜屋武にとっての宗教。一筋の光。人生の碇。その崇高な存在を、石橋のような特定の一人が占有して良い道理などあるはずもないのだ!
「まあ石橋君は落ち着いてますものね。他の男子と比べると、何て言うか清潔というか……」
去年から同じクラスの安斎がそんなことを話すのを、罵詈雑言で反論したくなって、唇を噛んで曖昧に笑って流した。
清潔な男など、この世に一人だっていやしないのだ。喜屋武は痛いほど身に染みてそれを熟知していた。
***
カラスの濡れ羽色をした艶のある黒髪に、健康的で血色の良い滑らかな肌。目尻のつり上がった切れ長の黒目は長い睫毛に縁取られ、整った顔立ちをより一層際立たせる。極めつけに、すらりと長い手足とメリハリのある魅惑的なボディライン――。
人からはよく誉めそやされる自分のこの容姿が、喜屋武照沙本人は大嫌いだった。
しかしそれ以上に、喜屋武は男が嫌いだった。男は喜屋武が自分の容姿を嫌う元凶だ。薄気味悪く、下卑た視線でしか人を見ることができない。
「今日のプールさ、見た? 早いやつはもう胸が出てきてんの。――例えば喜屋武とか」
小学四年生の夏の体育の授業後、そう語る男子の声。
「中学からみんな同じ制服になるだろ。そうするとさ、やっぱ見た目のスペック丸わかりなわけよ。喜屋武さんとか特に」
中学一年生の入学式後、そう語る男子の声。
「喜屋武さん、高校でも弓道部らしいよ。――でも弓道って確かああいう人は不向きなんだろ? ほら、だから、鎖骨の下のフタコブラクダがでかい女子は……」
高校の入学式後、そう語る男子の、声!
石橋だって所詮は男だ。オスだ。汚らわしいXY染色体だ。
卑屈な性格が災いして人の輪に入れないからと孤独を持て余し、人を盗み見ずにはいられないだけだ。清潔などという言葉とはほど遠い。きっと頭の中は誰にも言えないほど下品な妄想で埋め尽くされ、醜悪な思考を漏らさないためにああやって口を堅く閉ざしているに違いない。
「おはよ石橋君。今日も放課後、図書館行くからよろしくね……」
明るい声で眩い笑顔を、玖珠が石橋に向けている。高校二年になってから同じクラスになり、そんな光景をもう幾度となく見てきた。その度に喉からせり上がる嫉妬をかみ砕くように、奥歯を強く噛み締める。
一年生の頃よりもずっと距離は近づいたはずなのに、あの頃よりも喜屋武の思慕はもっと大きく重たくなった。
もっと玖珠という存在を自分の人生に取り入れなければ気が済まなかった。自分が誰よりも玖珠璃瑠葉を理解している、そう思い込むために。
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