ep22.「玖珠さん」
いいですか、と言いながらも後ろ手に扉を閉め、彼女は教室に体を滑り込ませた。まるで喜屋武になど目もくれていなかったが、その一連の動作は、まるで羽鳥の視界から喜屋武を遮るためのようにも思えた。
「あれ、玖珠さんじゃん珍しい。どったの?」
扉越しにあっけらかんと言う羽鳥の声で、喜屋武は彼女が玖珠という苗字だったことを思い出した。
――そうだ、玖珠璃瑠葉。細くて、地味で、どんな空間にも溶け込んでしまえるような印象の薄い子だ。
玖珠はそんな喜屋武の印象からはほど遠い、はきはきとした聞き取りやすい声で羽鳥に詰め寄った。
「ああーできれば二人きり……いやもういいか、ライバル多いみたいだし。――これ! 受け取ってください!」
「えっ……まさか、ラブレターだったりする?」
「だったり……しますね……はは……」
その言葉に喜屋武は扉窓に張り付いた。自嘲気味に笑いながら、玖珠は馴れ馴れしく羽鳥の手を握って語りだした。
「だって羽鳥さんめちゃかっこよかったもん! もしかして知らない? 男子だけじゃなくって、女子からも憧れっていうか、恋に恋するっていうか……とにかく羽鳥さん今、人気爆発中なんだよ。だから卒業式の第二ボタン的な、思い出作り的な感じでさ、羽鳥さんにラブレター渡したりアプローチしたがる子増えてるんだ。あたしもその一人。この湧き上がってくる情熱をさ、あっつあつの内に本人にぜひっ! 手渡したかったんだ!」
ぽかんと口を開けて玖珠の言葉に圧倒されていた女子たちの沈黙を、視線を逸らし気味の羽鳥の声が打ち破った。
「へえーマジ……知らん間にそんななってんの。やべ、満更でもないかも……」
熱心なファンからの熱いラブレターを手に、羽鳥は赤い頬を手の甲で覆った。
その様子を見て他の女子たちも口々に、そして少し残念そうに呟く。
「羽鳥すげーじゃん、スターだよあんた」
「まあ確かにかっこよかったもんね、あの演劇。羽鳥もだけど、まああたしは演出とか脚本の方に圧倒されてたわけだけどさ」
「やっぱファン増えるよなー。じゃあさっきの喜屋武さんのもそういうのかー」
「喜屋武さん?」
首をかしげる玖珠を羽鳥が急いで遮る。
「あーいや! なんでもない、こっちの話!」
「へえー……。まいいや、とりあえず思いの丈をぶつけられて満足しました! 羽鳥さん、ほんっとかっこよかったし綺麗だったよ。男女とか関係なく焦がれちゃうほどそう思ってるやつがいたってこと、覚えておいてね。それじゃあ!」
玖珠が口早にそう言い放ったのを聴いて、喜屋武は心底焦った。それじゃあ、ということは、玖珠はもうこの扉を出てくるということだ。
玖珠が教室から出てきて、ここで立ち聞きと盗み聞きをしている自分は、一体どんな顔をして彼女を出迎えれば良いというのだろう――。
――喜屋武は知っていた。文化祭のあった日、体育館でステージ上の羽鳥達の演劇中、玖珠は心底どうでも良さそうにしていたことを。ステージの上になど目もくれず、暗い照明を利用するようにひっそりと文庫本に目を落としていたことを。
つまり今、玖珠が言ったのは全て嘘なのだ。ではなぜ興味もない女の演劇を、わざとらしい言葉で派手に褒めたたえたのか――。
まるでゴミ箱から粉々の破片をかき集めてグラスを再現するように、喜屋武の記憶の中から玖珠璃瑠葉という女子生徒の姿が再構成されていった。
玖珠はいつも、誰かを助けていなかっただろうか。
人知れず、目立たない場所で、間接的にひっそりと。
例えば忘れ物をして困っている女子に、そっと声をかけ隣のクラスの友人から教科書を取り寄せていた。
例えば人の席に勝手に座って談笑している女子グループを「その前歯のやつ、青のり?」の一言で蹴散らし、自席につけず困っていた男子を助けていた。
玖珠璃瑠葉はいつも人のことをよく見ていて、先回りして誰かが傷つくのを防いでいたのだ。
きっと今回もそれと同じようにして、喜屋武のことを助けてくれたに違いない!
「玖珠さん」
教室へ入ったときと同じように、颯爽と喜屋武の目の前を通り過ぎようとした玖珠を、必死になって呼び止めた。振り返った玖珠がわざとらしく目をぱちくりと瞬かせ、驚いたような声を上げた。
「うえっ? あれ、喜屋武さんだ。どうしたのこんなとこで?」
「あのね、あの……ありがとう、玖珠さん。取り返しのつかないことになる前に助けてくれて。それとごめんなさい、私が馬鹿な思い込みで暴走して、あんなことして、それで大事故になる前に玖珠さんに余計な嘘をつかせることになってしまって……」
「ええー? ちょっとなんの事かよくわかんないな。……まあ、でも……」
玖珠は言いながら少し考えた様子を見せ、やがて小さく苦笑した。
「そうね。惚れる相手はもっと、慎重に選んだ方が良いかもね」
それじゃ、と手を振って玖珠は去って行った。その姿が廊下の突き当りを曲がって見えなくなるまでずっと見つめて、喜屋武は誰に聞かせるでもなく、一人呟く。
「……うん。もう絶対に間違わないよ……」
今しがた酷い失恋を果たしたばかりだというのに、もうそれを塗り替える勢いの高揚が喜屋武の心を支配していた。頬が熱くなるのが自分でも分かった。
――玖珠璃瑠葉。私の救世主。あなたこそが、世界で誰より美しい。
あなたこそが、私の恋を捧げるにふさわしい相手。
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