ep20.「ひとごろし」

<今、いつものお店のそばにいます。まだ近くにいたら、さっきのことも含めてこれからのこと、ちゃんとお話ししませんか?>


 石橋には電車を使うと言ったが、己斐西は駅を通り抜け、ロータリーを繁華街の方へ向かって歩いていた。ただし用があるのは繁華街の脇道を通り抜けた、少し奥まった場所だ。

 消すと断言した匿名性の高いアプリも、消さずにこうしてまだ使っている。

 だが、先ほどの石橋との会話に嘘はない。本気で己斐西は真柴との関係を終わらせるつもりだった。


 ――彼と会うのも、このアプリを使うのも、これが最後だ。


 駅から少し離れた場所に、いつも真柴との待ち合わせに使う、ルピナスの花が軒先に飾られた喫茶店がある。すでに閉店された暗い玄関口に、己斐西は心細さを感じながら一人佇んでいた。


 送ったメッセージに真柴の返事はない。


 粘着的で扱いに困る男ではあったが、多くの援助を受けた相手である。たくさんの時間を一緒に過ごし、長所も数少ないが知っている。先ほど石橋に向けた敵意には心底恐怖したが、それでもあのような終わり方は己斐西の本意ではなかった。

 できるなら円満に話し合いをして、すっきりとした形で終わらせたかった。――子どものわがままだと、思われるに違いないが。


「……冷た……」


 鼻先に冷たいものを感じて視線を上げる。小雨が降りだしていた。このまま本降りになりそうなほど、雲は暗く濃い。

 メッセージを送ってから十五分が経った。返事はない。

 アプリから通話機能を使い、発信するが応答はなかった。


 いよいよ雨が本降りになってきた。

 駅からも離れているし、繁華街の逆側のその場所に人はあまりいなかった。まばらに通りがかる人がいても、ほとんどが駅の方面へと吸い寄せられていく。


「円満解決とか、さすがに虫が良すぎるか……」


 自嘲気味に呟いて己斐西は折り畳み傘を開いた。――ドサッ、という音がかすかに聞こえた。傘からこんな音がするわけがない。

 振り返った先に、廃ビルも商業ビルも区別がつかなくなった、暗い建物の群れ。その群れを二つに切り裂き、さらに深い影を落とす高架。

 頭上を電車が通った。レールを打ち付ける激しい音。本能が鼓動を跳ねさせ、己斐西の足を動かした。


 ビルとビルの間――薄暗く狭い路地の中に、人影が二つ。

 握っていた手から滑り落ち、折り畳み傘が地面に倒れた。


「――――うそ、でしょ。なんであんたが……?」


 呂律はしっかり回っていただろうか――。


 薄紫色のカーディガンを着た少女の姿が、ゆっくりとこちらを振り返り、見開かれたままの瞳で茫然と手で空を握っていた。

 その向こうで、壁にもたれて座り込む男がいた。腹から何かが飛び出ていた。それが何かを、己斐西はつい先ほど見たからすぐに分かった。彼が石橋に使おうとしていた、細身の折り畳みナイフだ。


 真柴だった。腹にナイフを刺され、立ち尽くす安斎の向こう側でぐったりと身をかがめていた。


「ちがっ……ちが、うんですッ!」


 振り返り掠れた声で叫んだ少女の声は、聴き違えるはずもない安斎小蓮のものだった。彼女は自分で自分の発言にはっとしたような表情を浮かべ、まるで子どもが弁明するように拙い口調で続ける。


「……だってこのひとっ人が急に、掴みかかってきて、お前でもいいって、制服が同じだからって、わけわかんないことを、言って、それでっ……」


 初めて聞いた、しゃくり上げるような取り乱した声だった。


「大人しくしないと殺すぞって……」


 泣き出しそうに歪められるその顔も、初めて見た。この子はこんなに感情をむき出しにする人だったのか、とやけに冷静に思う自分がいた。

 己斐西の沈黙をどう受け取ったのか、すぐに眉を下げて安斎は下を向いた。


「ああ、いや、違う、言い訳です。だってわたしが刺したんです。この手で、感触が……っ今さらこんなこと……」


 ――あんたのせいじゃない。


 そう言って彼女を抱きしめるべきだと思った。

 実際に心ではそう叫んでいた。今起きたこの悲劇が間違いなく自分のせいだと、痛いほどに己斐西は理解していた。


 自分がくだらない謀略に真柴を巻き込んだ挙句、彼を追い詰めた。追い詰められた真柴が、たまたまここを通りかかった安斎に目をつけて、己斐西と同じ制服の女子だというだけで詰め寄った。怯える無関係の少女に男はスーツの内ポケットからナイフを取り出し、迫った。――簡単すぎるほど、鮮明に想像できた。


 地面に落ちたままの傘など放っておいて、駈け寄って震える華奢な体を抱きしめてやりたかった。

 早くそうしないと、安斎は己斐西に軽蔑されたと思うだろう。沈黙は長いほど良くない。本音を、真実を教えて本当に悪いのが誰なのか知らせてやらなければ――。



 ………………しかし人間には心とは違う、本能が働くことがある。

 無意識にそれは、理性をねじ伏せて、勝手に口を開かせ喉を震わせる。


「ひとごろし」


 自分の放った声がまるで他人のもののように聞こえた。

 現に、安斎が見放されたような寂しい目を見開いて自分を見るまで、己斐西にはそれが自分の発言だと分からなかった。


 ――せっかく面倒事が一つ片付いたのに、次から次へと、どうして!


 心からそう思う自分もいたのだ。その自分が発言した言葉だった。


「まっ、まって唯恋さ、ちが――」

「あー。今日はほんっと暗いな。雨だもんね、暗い。暗い……」


 拾い上げた傘で顔を隠し、踵を返して心細そうな声に背を向ける。


「……暗すぎて視界が悪すぎ。何も見えない……」


 泥の撥ねるような汚い声だと自分でも思った。

 後ろから聞こえる安斎の何か言う声が聞こえないよう、ポケットからイヤホンを取り出して両耳をふさいだ。音楽プレイヤーを使いたくてスマートフォンを取り出そうとしたが、手が震えて使い物にならず、結局無音のイヤホンをポーズだけではめてその場を立ち去った。

 


 バスも使わず、電車も乗らず、なるべく防犯カメラのなさそうな道を選んで徒歩で帰宅した。普段なら歩いても二十分ほどの距離を、一時間弱もかけてのろのろと歩いた。

 恐ろしい吐き気に襲われた。結局、家に着いてから真っ先に便器を抱え込んで嘔吐した。


 自分は安斎小蓮を見捨てたのだ。

 自分の愚かな行いのせいで妙な男に絡まれて、トラブルに巻き込まれただけの被害者を、助けもせず見て見ぬふりをして逃げ帰ってきた。

 安斎の行為は明らかに正当防衛だった。彼女と一緒に通報してそう証言してやるべきだった。

 だがそれをやると、自分と真柴の関係が明るみに出る。学校にもバレて、近所の人にも後ろ指を指されて、積み上げてきた進路への道が崩れ去る。それが何より恐ろしかった。

 友情を失うよりも、正義に蓋をするよりも。


「良かったんだ……これで……やったのがウチじゃなくって……」


 洗面所で口をすすぎながら、生理的なものか精神的な物かわからない涙をたくさん流しながら、三面鏡に移る三人の薄汚れた女に対してそう懺悔した。



 ――待って、とか細い声で自分にすがる安斎を無視した。

 あの子は今頃どうしているのだろう。

 通報して、怯えながら事の顛末を話すのだろうか。

 彼女を見捨てて逃げた己斐西のことは警察に話すだろうか。警察が調べれば、きっとすぐに同級生の己斐西唯恋が、加害男性と金銭をやり取りする不純な仲だったと判明するだろう。それが判明したとき、あの子は己斐西が逃げた理由を知り、軽蔑するだろう……。


 きっと怖い思いをしたに違いない。見知らぬ男に凶器を持って迫られて、あのおっとりとした植物好きの少女はどれほど恐怖しただろう。

 それを見捨てた自分を恨んでいるだろうか。親友だと言ってくれたあの子を見捨てた自分を、裏切り者だと恨んで……明日学校で、みんなに秘密をバラすだろうか。


「こんなときまで、自分の心配しかできない……」


 しゃくり上げて、酸欠で震える指先で洗面台のふちに縋りついた。

 ドライヤーの隣にある棚に、散髪ばさみの鋭利な刃先がいやに光って見えた。



 ***




 己斐西唯恋は安斎小蓮を見捨てて逃げた。

 家に帰って自分の行いを恥じ、彼女の人生で最も大きな罪悪の念に押しつぶされそうだった。



 ――だから、己斐西は知らない。




「……俺じゃないって? あはは、あなたですよ。――――を裏切ったのはあなたです」


 己斐西唯恋が家で嗚咽しているのとほぼ同刻。

 無感動な声で語りかけながら、安斎小蓮が男の死を見下ろしていたことを、己斐西も誰も知らない。

 

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