ep18.「大人をなめるんじゃねえよクソガキがッ」
「石橋君さ、今すぐ帰った方が良いよ」
先に自分の分の会計を済ませて待っていた己斐西が、石橋の会計が終わるや否やそう告げた。真面目な顔で声を潜め、本心から石橋のことを案じているようだった。
「あんたの言った通り、向かいの銀行にウチのクライアント――パパが勤めてる。ちょっと粘着質な人でさ……だから今日は彼と石橋君を鉢合わせさせて、ボコってもらって、痛い目に合わせて二度とこんなことしませんって懺悔させるつもりだったの。そのために彼には石橋君のこと匂わせて、散々ヘイト向けさせてきたんだよね」
「そんな物騒で人任せな計画してたんだ」
「ほんと人任せだよね。それに運任せ。結局パパは来なかったんだしさ……」
話しながら店を出て、すっかり暗くなった駐車場を歩いて歩道に出る。多くのテナントが閉業時間を迎えた商業ビルの間を歩きながら、己斐西があっけらかんと笑った。
「……でもま、石橋君と一緒にいるとこ万が一にも見られたら――」
「――見られたらなんだって言うんだ?」
背後から、石橋ではない男の声。己斐西が血相を変えて振り返った。その視線の先に、スーツ姿の小綺麗な容姿の男が立っていた。
その顔は悲痛を訴え、まるで残虐な加害者を見るような視線を石橋に突き刺している。
「浮気かい? 思春期だもんな、珍しいことじゃあない。だけど安心して、悪いのは唯恋じゃないよ。誑かす奴が悪いんだから――」
「――ッ!」
瞬間、頬骨に固い物が振ってきた。大きくよろけると同時に自覚する。自分はこの男に殴られたのだ。
石橋君、と己斐西が悲鳴混じりに叫ぶ。男は再び拳を振りかざして怒号を飛ばす。
「このクソ野郎ふざけやがって! 大人をなめるんじゃねえよクソガキがッ、去勢してやるッッ!!」
もう一度殴られて、今度こそ石橋は転倒した。尻餅をつきながらもごもごと弁明する。
「いやちょっと待って誤解……」
「やめて真柴さん! あんた何やってんの、これ傷害罪だよ。ていうか浮気も何もないでしょ、ウチとあんたは――」
「唯恋も唯恋だ! 誑かされたとはいえ、フィアンセがいながら、なんて、はしたないッ」
「フィアンセじゃないでしょ。ただ契約しただけの」
「ああああああ違う違う違う違う君は間違ってるんだ! 僕と君は――」
危うい呂律で捲し立てながら、真柴がスーツの内ポケットに手を伸ばした。その中にちらりと見えた物に、石橋は流石に恐怖する。金属的なシルバーの、二つ折りの、細長い――なぜ銀行員がナイフなど持ち歩くんだ!
「聞いておじさん、マジで誤解だから――」
情けなく命乞いをしようとする石橋の声を、
「――こっちです早く来て!」
聞きなれた女子の声が遮った。この緊迫感の似合わない妙にふざけた声は――走ってきた声の主を見て石橋はつい笑った。
即席出来立てほやほやの大親友、今なら女神にすらひけをとらない神々しい女性、玖珠璃瑠葉その人ではないか!
近場のビル警備員を先導して走ってきた玖珠は、さも善良な一般市民といった口ぶりで警備員にわざとらしく泣きついていた。
「なんかよくわかんないけど男の人が喧嘩してるんです。もうあたしったら怖くて怖くてそこ通れなくって……」
厳めしい顔付きの警備員が近づいてきて、石橋と真柴の間に割って入る。
「ひとまず二人とも離れて。君、大丈夫?」
「あ、大丈夫です慣れてますんで……」
警備員に手を引かれて石橋は立ち上がった。頬は痛むが、中学時代に同級生から殴られたことは一度や二度ではないので本当に慣れていた。
青ざめる己斐西が心配そうに見つめる隣で、真柴がばつの悪そうな顔で自分の肩を睨み付けている。警備員がピッチを片手に訊ねた。
「で、何があったの。君まだ高校生だよね? それで、そっちの人は……」
「ぼっ、僕がからかいすぎたんです! 明らかに非があるのは僕だ!」
石橋は慌てて声を上げた。
「ええと、そこの彼女にいいとこ見せたくって、あのお兄さんからかいすぎちゃったんです。明らかに度が過ぎた。殴られて当然です。ほんとすみません、でも大したことじゃないんです……」
己斐西が信じられないというような顔でこちらを見ていた。そんな石橋の話を聞き、怪訝な顔をして警備員が真柴を見る。
「……って言ってるけど、本当ですか?」
「え、あ、ええ……すみません、ついカッとなってしまった。私も大人げなかった……」
乗らない手はないだろう。真柴も押されるようにして、慣れた風にスラスラと口から出任せを並べた。
警備員は肩をすくめて溜め息を吐き、順番に石橋と真柴を指差し言う。
「あのね、大人には礼儀を持って接しなさいね。痛い目見た後じゃ何もかも遅いんだから。――それからあなたも、子どもの言うことにムキになりすぎないで。いくら相手が原因を作ったとしても、手を出したんじゃ、後から被害届なんて出されたら加害者は120%あなたになるんですよ。……君、本当に大丈夫? 自業自得とはいえ、何なら今からでも警察に来てもらって……」
「ほんと大丈夫なので! 多分見た目ほどには痛くないですから」
にこっとわざとらしく笑って見せる。
警備員はもう一度だけ二人に念を押してから、気がかりそうに持ち場へと戻っていった。その後ろ姿が見えなくなったのを確認してから、石橋は真柴に近づいてそっと呟く。
「彼女とは清いお付き合いをしてくださいね。でないと僕、本当に被害届出しちゃうから。――分かった、シアンファネリ銀行の真柴さん?」
***
――ばこんっ、と缶ジュースが落ちる音が響く。
繁華街から少し奥まった場所にあるバス停。ベンチに座っていた石橋の頬に、己斐西は冷えたサイダー缶を押し付けて言った。
「ありがと、石橋君。ウチのこと庇って嘘言ってくれたんでしょ? 警察沙汰になんてなったら、ウチの秘密がバレちゃうから……」
炎症に疼く殴られた頬に、冷たい缶の感触が心地よかった。殴られた箇所はまだ痛むが、致命傷ではない。もし石橋が己斐西を怒らせたとして、真柴が内ポケットからあの物騒な携行品を取り出したとしたら――頬の内出血程度ではすまなかっただろう。
詫びの印で差し出された保冷剤代わりのサイダーを受け取り、お礼を言うのも何だか違う気がして、石橋は開きづらい口をもぞもぞと動かした。
「……まあ、僕も警察沙汰はシンプルに面倒だったしね。それに僕の秘密を知ってる己斐西さんには、貸しをつくっておきたかったし……」
「ふふ、あんた結構照れ屋よね。素直にどういたしましてって言えないもんか……」
くだびれたような苦笑を浮かべながら、己斐西はすぐ隣に腰かけた。膝の上で少し両手の先をすり合わせながら、やがてぽつりと彼女は切り出した。
「……合計で、八キロ。ダイエットじゃなくて痩せたの」
石橋は隣の声の主を見た。いつも教室の中で見る自信満々な己斐西唯恋からは想像もできない、疲れ切った、頼りなく情けない顔つきで眉を寄せ、まるで神に告解でもするような口ぶりで語りだした。
「前半の五キロはこの仕事――パパ活を始めてから。こちとら世間知らずのクソガキなもんだからさ。話がつまらないだの、可愛くないだの、マナーがないだの……つまりニーズを満たせなかったのね。ボロクソ言われたこともあったし、金が欲しいんなら手っ取り早く――ってホテルに連行されかけて、死に物狂いで走って逃げ帰ったこともあった。真柴さんはウチの初めての常連さんで、普通にデートをするだけで満足してくれた。あの人に会うまでの間に、一気に五キロ痩せたの。バカだよねホント、危ないって知ってるのに簡単に稼げるからって軽率にこんな仕事始めてさ。実際は簡単じゃなかったし、学校との両立にかなり気を使ったし、ほんと心身共に死にかけた……」
「……後半は?」
「ん?」
「後半の三キロ」
「あー……うん。……つい最近の、ことなんだけどさ……」
「……クラスメイトのクソ野郎に勘付かれでもした?」
「……そう……その通り。あはは、マジ、密告されて学校生活終わりかと思った。せっかく内申点のためにクソめんどい学級委員までやって、仕事も順調だと思ってた矢先だからさ。食事が喉を通んなくなって、たった数日で三キロ痩せた……」
どのくらい時間が経ったか分からないが、頬に当てていた缶が少しぬるくなっている気がした。そろそろ本来の消費方法を試すべきかもしれない。下ろした缶のタブに指をかけようとした瞬間、隣から白いものが視界に割り込んできた。
己斐西が利き手の小指を付きだし、睨むように石橋を覗き込んでいた。
「約束しよ。ウチもする。もうお互い、こんなことはやめる。ウチはこれを最後にパパ活やめる。アプリも連絡先も全部消す。目標額まではもうちょっとだけど……そのくらいは夏休みにでもバイトして貯めるよ。ちゃんと履歴書出して、税金引かれて時給で頑張んの」
「じゃあ、僕は覗き趣味をやめるってわけだ」
「そう。クラスメイトとは普通に接して。むやみに粗探しなんてして他の子をビビらせないで。もし誰かの秘密を知ったとしても、脅迫になんか使わずに胸の内にとどめてあげて」
「じゃあその人から意地悪されそうになったときには、僕は無抵抗でやられなきゃいけないわけだ?」
「そんときはウチを呼んで。学級委員長としてクラス内の治安はちゃんと守るよ。あんたの平穏な学校生活ってやつも、本気で守ったげるから」
聞いているこっちがむず痒くなるほどに、終始ずっと彼女は真剣な声だった。茶化して笑いたくなるほどの真心だと石橋は思った。
休み時間に友人とメイクを楽しみ、大きな声で談笑していた己斐西唯恋。派手好きでギャル系の、自分のような日陰者からはほど遠い存在の彼女だが、いつも丁寧な字で学級日誌を書いていることや、教室の花瓶をまめに世話していること、クラスメイト全員のフルネームと顔を誰より先に覚えていたことを、石橋は教室内を観察しながら知っていた。
それでも観察だけでは分からない、彼女の強く大切な意思があることを思い知らされた。見ているだけでは分からない、対話しないと知ることのない人の一面というのは、必ずあるのだ。
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