ep17.「検索してみて。“F市南中学”、スペース、“いじめ”」

 己斐西の頼んだカルボナーラに少し遅れて、石橋のオムライスが運ばれてくる。石橋の視線に気を使いながらも、ちらちら窓を盗み見る己斐西。彼女の手がカトラリーケースからフォークを取り上げた瞬間、石橋は切り出した。


「誰か待ってる?」

「えっ……は? いや別に、なんで――」

「もしかしてパパはあちらの銀行にお勤めなのかな?」

「っ!」


 瞬時に己斐西の目の色が変わった。口を開かれる前に、やり慣れた手口で石橋は早口に続ける。


「単刀直入に言うよ。これは交渉だ、取引をしてほしい。君が自覚してるように、僕は己斐西さんの秘密を知ってる。君はきっと僕の口封じをしようとして今日のデートを取り付けたんだろうけど、僕は今ここで、これを絶対に誰にも他言しないと約束する。だから己斐西さんも今日みたいに僕に危害を加えようとせず、高校を卒業するまで僕のことを放っておいてほしいんだ」

「っざけん、なよっ――そんなこと誰が信じるかってのッ!!」


 怒号と共に己斐西は立ち上がった。彼女の声と、テーブルを叩きつける音を聞き付け、周囲の客がこちらを見た。店内がざわつき視線が集まる。

 店員がこちらに声をかけようかどうか迷っている様子を察し、己斐西は舌を打って気まずそうに座る。今度は声量を落として話を続けた。


「……ねえ、あんたなんでウチの……ううん、いろんな人の粗探しなんてしてんの? 知ってるよ、ウチだけじゃない。喜屋武さんのことだって嗅ぎまわって怒らせてんでしょ? 正直キモイし陰湿だしぶちのめしたい気持ちでいっぱいだよ。恨み買って当然でしょ?」

「その通りだね。でも車にはねられたり不良にボコられたり薬を盛られたりするほどのことじゃない。過剰防衛だよ己斐西さん。僕らおあいこじゃない?」

「このっ――」


 フォークを振りかぶる己斐西を手で制する。


「うそうそごめん。……スマホ出してよ、検索してみて。“F市南中学”、スペース、“いじめ”」


 唐突に出てきた言葉に、己斐西は怪訝な顔でこちらを睨み付けた。睨みながらもスマホを取りだし、言われた通りに検索するあたり、やはり彼女は根が律儀で話し合いの通じる人間なのだろう。

 その己斐西の斜め後方の席で、一人でパフェをつついていた玖珠が同じようにスマホを触っている。おそらく盗み聞きしたワードを同じように検索しているに違いない。


 己斐西には、フェアな話し合いをするために。

 玖珠には、高校生活で初めて友人になってくれたそのお返しに。


 初めて自分の秘密を打ち明けたことに対して激しい動悸を覚えながら、なるべく声が震えないように意識して石橋は説明した。


「……きっと匿名掲示板なんか覗いたら、被害者生徒の名前も顔も、何ならそのいじめに使われた恥ずかしい写真もいっぱい出てくるだろうね。だけどそれらはほんの一部で、本当はもっといろんなことがあった。例えばネットで一番に出てくる、腹に下品な落書きを油性ペンで自分で書かされた挙句、パンツ一枚になった写真を撮られた後には、最後のそれも自ら脱げと命令されて、雑巾を口に咥えて校舎を四つん這いで歩けとか命令されてね……」


 おそらく検索結果を見たのだろう。手の中の液晶を見ながら己斐西が、口元を押さえて顔をしかめる。


「なん、て、もんを見せてんのあんた……胸糞悪い……。それに一体これが何の関係があるってーのよ」

「その哀れな被害者H君の本名は加害者生徒のおまけで晒されてるけど見た? いや、ごめんね。胸糞悪いって言ってんのにそんなもん探したくないよね。そいつの名前――」

「――弱井、磐眞」


 どごん、と一際強く心臓が高鳴る。耳の奥で血潮の流れる音が聞こえた。

 今すぐ走って逃げだしたい欲望を理性で押さえつけ、石橋はゆっくりと声を吐き出した。


「……そう。弱井。僕が母に引き取られて苗字が変わる前の、父と暮らしてた頃の名前だ」


 己斐西との間に重苦しい沈黙が落ちた。店内にはすでに平穏な喧騒が戻ってきていた。もう誰も己斐西や石橋になど目もくれていない。この会話も、意識しないと喧噪の中から拾い出すことはできないだろう。

 己斐西が何も言わずに俯いているので、石橋は一人で話を続けた。


「僕がこうやって人の弱みを覗いてるのは、二度といじめになんか遭わないための、僕なりの我ながらひねくれた自衛手段だ。人の弱みを知るたびに安心したよ、だってそれは僕の切り札となり、お守りとなる。そいつが僕にもし意地悪をしようとしたら、僕はそれを突き付けて二度と意地悪をしないでくれと交渉できるんだから。君だけじゃない、できる限りの人間に僕はそうしてきた。……だけど結局それは僕だけの都合の話で、お仕事に勤しむ君を脅かしたという事実は変わらない。盗み見と、脅迫。やってることは人をいじめる奴らと根本は変わらないだろう。――ごめんなさい、で全てが許されるわけでないことは僕が一番よくわかってるんだけど、それでも――ごめん。己斐西さんを怖がらせて申し訳なかった」


 スマホを消灯して伏せて置き、片手で目を覆って己斐西は長く細いため息を吐いた。石橋は己斐西の返事を待てずに喋り続けた。


「僕が母に引き取られてこの高校に入ったのは、中学時代の僕を知る人がこの街にはいないからだ。その事件で僕は地元じゃ腫れもの扱いだったから。――だけど己斐西さんはそれを知った。今やそいつは君だけが知る、僕の弱みになる。これで僕たちフェアだろ? 脅迫も優位性もない。だから――」

「あんたさ、頭悪すぎでしょ」


 手を下ろした己斐西が涙目になっているのを見て、石橋は少し驚いた。不愉快そうに己斐西はもう一度深く大きなため息をついて、右手にずっと握っていたままのフォークを石橋に突きつける。


「そんだけ人のこと冷静に観察できるんなら、無駄に警戒する必要のないやつだっているってこと、わかんない? 裏を探る必要がないやつとか、敵意を向けてきそうにないやつとか。――いや、実際殺そうとしたウチに言われても説得力ねーと思うけどさ。でもなんていうか……こんなことしなくたって、信頼できる友だちの一人くらいは作れると思うんだ。困ったとき必ず悩みを受け入れてくれるよーな、そんな子。そうしたらあんた、こんな、怯えながら他人の顔色だけ窺うような生活しなくて済むと思う」


 かなり痛いところを突かれてしまい、つい笑ってしまった。完全に図星だ。


「……そう、だね。自分でもそう思うよ。そろそろこんなやり方、見直すべきなんだろうなって思ってる。今回みたいなトラブルが良いきっかけになりそう」

「絶対見直した方が良いよ。まあ手段を選ばないのは、ウチも同じだけどさ。……あのさ、あんたの経緯は分かったし、ウチだって結局後ろめたいことしてたことには変わりはない。だからその――乗るよ。あんたの交渉ってやつに」


 言いづらそうにしながらも、真摯に向き合ってその決断を下してくれた己斐西に、石橋は無意識に頭を下げていた。


「ありがとう」


 ふん、と鼻を鳴らして己斐西は目をそらした。

 すっかり湯気の消えた食事にやっと手をつけながら、己斐西は咀嚼のついでとばかりにぼそぼそ言う。


「それとさ、交渉とか脅迫とかそんなん関係なしに、ウチで良かったらあんたの友だちになるよ。もうあんたに意地悪なんてしないし、困ったときは相談乗ってあげてもいいし」

「え、己斐西さんと友だち……?」


 聞き返してから、スプーンにすくったままのオムライスを口に運ぶ。

 クラスの学級委員長で、派手な見た目の、明るく元気な人気者の己斐西唯恋が、あろうことか石橋磐眞と友だちに――?

 口の中のものを飲み込むまでの間にたっぷり考えてから、石橋は怪訝な顔で首を傾げた。


「別に無理して僕のこと監視なんてしなくても、己斐西さんのことは他言しないよ?」


 石橋の言葉を聞いた瞬間、己斐西が声を上げて吹き出した。


「ぷっ……あはははははは!」

「え何……こわ……」

「いや、だってあんたさ……ウチの友だちと全く同じ反応するから……」


 今日見た中で最も楽しそうに腹を抱えて笑ってから、勝手に納得した様子で己斐西は一人うなずいて話題を切り上げた。


「ほら、ご飯だいぶ冷めちゃってっから。とっとと食べよ」


 置いてけぼりになっている石橋に食事を促し、己斐西はまだ少し含み笑いを見せつつ、少し固まったカルボナーラにフォークを入れる。

 自分と同じ発言をしたという己斐西の友人のことが気になったが、石橋はあえて聞かずにおいた。これ以上己斐西と仲良くなれるとは思わなかったし、何より己斐西が上機嫌な様子になっているので、それを邪魔したくはなかった。

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