友人に頼まれて、様子を見に行った鈴鹿の女性が俺の人生を変えた

春風秋雄

初めて鈴鹿へ行くことになった

俺は今、三重県の鈴鹿市の街を歩いている。F1の日本グランプリが開催される鈴鹿サーキットがあるところだ。ホテルにはチェックインしたので、荷物はショルダーバッグだけだが、初夏のこの季節は夜の8時を過ぎているというのに暑く、ましてや知らない街を歩き回っているので本当に疲れる。スマホの地図アプリを見ると、場所はこの辺りだと思うのだが、目的の店は一向に見つからない。ひょっとしたら、その店はもうつぶれているのではないかと思い、そろそろ諦めてホテルに帰ろうかと思ったときに、「スナック・まり」と書かれた看板をみつけた。


俺の名前は井原雅彦。34歳の独身だ。東京にある法律事務所でパラリーガルをしている。事務所が受けた案件で、依頼人の資産調査のため三重県の鈴鹿に来ていた。もう何年も空き家になっている実家だということだ。明るいうちに現地で物件の写真を撮り、周りの環境の調査も終了した。もともと出張の日は金曜日で、事務所は土日休みだったので、調査が終了すれば、そのまま東京へ帰り、事務所には寄らずに家に直帰する予定だった。ところが、鈴鹿へ行くのは初めてなので、大学時代からの友人である佐藤淳が鈴鹿出身だったのを思い出し、鈴鹿はどんな街だと聞いたのが間違いの元だった。

「鈴鹿に行くのか?だったら、行ってきてほしいところがある」

と言われて、「スナック・まり」の所在地を教えられた。そこで働いているママのまりさん、本名は辻本真理さんの様子を見てきて欲しいということだ。どういうことだと聞くと、高校時代の恋人だと言う。高校を卒業する時に、大学を卒業したら必ず鈴鹿に帰って、真理さんと結婚すると約束したのだが、そのまま東京で就職をしてしまい、そのうち、ちゃんと別れると言わないまま自然消滅してしまった仲らしい。その後何年も連絡をとっていないということだ。

「だから、真理が幸せに暮らしているのか、見てきて欲しいんだ」

「もうお前は結婚しているのだから、その真理さんが幸せかどうかなんて、関係ないじゃないか?」

「まあ、そうなんだけど、気になるじゃないか。だから頼むよ。宿泊代とそのスナックの飲み代は俺が出すから」

まるで、ペドロ&カプリシャスの「五番街のマリーへ」のような話だ。

「ひょっとして、その真理さんは、長い髪の女性じゃないだろうな?」

「何で知っているんだ?」

本当に歌の通りなのかと、俺はあきれた。しかし、興味がないわけではなかった。佐藤がそこまで気にしている女性がどのような女性なのか見てみたい気がしたので、宿泊費プラス飲み代で、2万円で手を打った。


スナックのドアを開ける。中はカウンターとボックス席が3つの、それほど広くない店だった。客はカウンターに一人と、ボックス席に2組のお客がいた。ボックス席に若い女の子がそれぞれ一人ずつ付いており、カウンターの中には俺と同年代と思われる女性がいた。おそらくこの女性が真理さんなのだろう。

カウンターから真理さんと思われる女性が出てきて、入り口に立っている俺に近づいてきた。

「ごめんなさい。うちはメンバーズなんですよ。誰かのご紹介ですか?」

一見さんはお断りということか。佐藤の名前を出すべきか、どうしようか俺は迷った。しかし、色々考えるのが面倒になった俺は咄嗟に口を開いた。

「真理さんは、今幸せですか?」

「はああ?」

「すみません。ある人に、真理さんの店に行き、どんな暮らししているのか見てきて欲しいと言われたもので」

「それで、私が嫁にいっていて、とても幸せなら、寄らずに帰って来いとでも言われたのですか?」

この女性も「五番街のマリーへ」の歌詞を良く知っているようだ。スナックのママであれば当然か。結構乗りの良い女性なのかもしれない。俺は調子に乗って話を続けた。

「真理さんは長い髪をしていたと聞きましたが、今はそれほど長くないですね」

「私が髪を伸ばしていたのは高校時代よ。一体誰があなたに頼んだの?」

「佐藤淳というやつです。佐藤を覚えていますか?」

「佐藤君?・・・へえ。じゃあ、とりあえず入りなさい」

真理さんは、そう言ってカウンターの奥に俺を座らせた。


「お客さんは東京の人?」

真理さんが聞いてきた。

「ええ、出張で来ました」

「じゃあ、ボトルはおろさないわよね。ハウスボトルを飲む?」

「とりあえずビールを下さい。のどが渇いたので」

真理さんは小瓶のビールを出し、グラスに注いでくれたあと、お通しをだしてくれた。ほうれん草とシメジのお浸しだった。

真理さんは、カウンターに座っている、もう一人のお客の相手をしばらくしていたが、そのお客が帰ると、俺の前に立った。

「佐藤君は元気にしているの?」

真理さんが聞いてきた。

「元気にしていますよ。大手企業の総務で係長になっています」

「東京で就職したところまでは知っているんだけどね。私は同窓会にも出ないし、高校時代の友達ともそれほど親しくしていないから、同級生の情報には疎くて」

「真理さんは、幸せですか?」

「幸せと言えば幸せなんでしょうね。結婚はしていないけど」

「結婚していないのは、佐藤のことがあるからですか?」

「そんなの関係ないわよ。確かに佐藤君は大学卒業したら地元に帰って来て、私と結婚するって言っていたけど、しょせん子供の恋人ごっこだったからね。深い関係ではなかったし」

「そうなんですか?」

「佐藤君って、けっこう奥手だったの。キスくらいはしたかな。でもそれ以上は何もなかった。だから、わざわざ様子を見に来させると言うのが、私にとっては、何で?って感じ」

そうだったんだ。

「佐藤君は結婚したのでしょ?」

「ええ。子供も二人います」

「そう。それなら良かった。私のことはもう気にしないでと言っておいて」

「わかりました。そう言っておきます」

12時近くになると、ボックス席に座っていたお客も帰り支度を始めた。真理さんと、若い女の子が2組のお客を送り出し、店内の客は俺だけになった。

「私もそろそろ帰りましょうか?」

送り出しから帰って来た真理さんにそう言うと、

「あなたはまだいていいよ」

と言って、女の子たちを先に上がらせた。


店内に俺と真理さん二人きりになると、真理さんはネオンを落として俺の隣に座った。

「この店はいつごろからやっているのですか?」

「もともとは母がやっていた店なの。高校を卒業してから、お店を手伝うようになった。私は父親がいなかったから、女手一つで育ててくれた母を何とか助けてあげたかったの」

「お父さんはご病気か何かで?」

「もともと父親はいないの。おそらくこの店のお客さんだったのじゃないかな。母は最期まで父親が誰なのか教えてくれなかった」

最期まで?

「お母さんは?」

「6年前に脳梗塞で逝っちゃった。あっけなかったな」

「そうなんですか」

「結婚を考えた相手もいないではなかったの。でも、その人も佐藤君と一緒で、大学を出て、良い会社で働いている人だったから、こんな水商売一家の娘なんか、釣り合わないでしょ?だからあなたとは結婚しないって、私の方から振っちゃった。このことも佐藤君に報告する?」

「いや、その話は佐藤にはしないでおきましょう」

「あなた、優しいのね。お名前教えてよ」

「井原雅彦です」

「井原さんは佐藤君とは大学で?」

「ええ。一番の親友です」

「じゃあ、私と同い年ね」

「そうなりますね」

「井原さんは結婚していないの?」

「独身です」

「どうして?」

「どうしてと言われても、縁がなかったとしか言いようがないですね」

「ねえ、井原さんは、明日はお休み?」

「ええ。明日は休みですので、いつまでに東京へ帰らなければならないということはないです」

「じゃあ、ボトル1本おろしちゃうね。これは私からのサービス」

真理さんはそう言って新しいボトルの封を開け、ふたつのグラスに注いだ。

「このボトル、全部空けるつもりですか?」

「残ったら残ったでいいじゃない。3か月はキープしておくわ。それを過ぎたらハウスボトルにするから」

真理さんは、そう言いながらボトルに俺の名前を書いたプレートを下げてくれた。

真理さんは、とても綺麗な人だ。佐藤が気にするのもわかる。おそらく高校時代より、大人になった真理さんの方が魅力的なのではないかと思う。そんな真理さんと、二人きりで並んで飲むシチュエーションが、俺を今までに経験したことがない世界に連れて行くようだった。

結局その日は、明け方まで飲んで、俺はホテルに帰った。


東京に戻り、佐藤に真理さんに会ったこと、それなりに幸せそうで、もう私のことは気にするなと言っていたことを伝えると、佐藤から素直にお礼を言われた。これでとりあえず、俺のミッションは終了したことになる。しかし、俺は東京に帰ってからも真理さんのことが気になっていた。もう一度あの店に行きたいという思いが、日に日に強くなってきた。東京から鈴鹿まで、2時間半くらいで着く。金額も片道12,000円程度だった。それほど大変なことではない。しかし、前回は佐藤の頼みで行ったという理由があったが、次に行くときはそんな理由はない。いきなり行ったら、真理さんは変に思わないだろうか。


俺が再び「スナック・まり」のドアを開けたのは、3週間後の金曜日だった。仕事を6時に終らせ、その足で東京駅へ行き、新幹線に飛び乗った。先にホテルでチェックインを済ませたので、店に着いたときは、10時を少し回っていた。入り口から顔を覗かせた俺を見て、真理さんは一瞬驚いたようだったが、すぐに笑顔になり、俺をカウンターに案内した。

「今日も出張?」

「いや、今日はプライベートで遊びにきました」

真理さんは驚いた眼で俺を見た。

「仕事が終わって、その足で来たの?」

俺のスーツ姿を見て真理さんが尋ねた。

「ええ」

真理さんは何か言いたそうだけど、何も言わずにこの前のボトルを出して、お酒を作ってくれた。

「まだ置いてあったんだ」

「3か月はキープって言ったじゃない」

今日のお客はカウンターに一人と、ボックス席に二人連れがいるだけだった。今日は若い女の子が一人しかいないということもあるのだろうが、真理さんは、俺の方には着かず、他のお客さんの方ばかり接客している。ひょっとすると、敢えてそうしているのかもしれないというくらい、俺は放置されていた。

12時近くになり、他のお客さんはすべて帰った。前回同様、若い女の子を先に上がらせ、真理さんは俺の隣に座った。

「今日はどうしたの?私に惚れてしまった?」

「そうかもしれない。東京へ帰ってから、ずっと真理さんのことを思っていた」

真理さんは照れたように笑みをこぼし、そして言った。

「また来てくれるんじゃないかと思ってた」

「本当に?」

「何となくね」

「もう佐藤の用はすませたのに、何しに来たのって言われるんじゃないかと思ってた」

「そんなこと言うわけないじゃない。今日はホテル取ったの?」

「ここにくる前にチェックインしてきた」

「じゃあ、今からホテルに行って、チェックアウトしてきなさい」

「え?」

「今日は私のところに泊ればいいから」

真理さんは俺を見ずに、そう言った。


真理さんの家は古い一軒家だった。お母さんが健在のときから借りている借家だということだ。真理さんの部屋は何の飾り気もない部屋だった。ただ寝るだけの部屋という感じだった。

部屋に入るなり、真理さんに抱きつかれ、そのままベッドに入って、俺たちは無言のまま交わった。どれくらいそうしていたのだろう。ひと息ついたところで、真理さんが水を飲みに冷蔵庫へ行った。時計を見ると夜中の3時だった。

「私、もう5年くらい男の人に触れていなかったの。本当に久しぶり」

「そういう相手は現れなかったのですか?」

「そりゃあ、こういう仕事をしていれば、言い寄ってくるお客はごまんといるけど、お客さんとそういう関係になったら、後々面倒だから」

「俺もお客さんですけど、俺とこういう関係になって良かったんですか?」

「井原さんは、お客さんという感じがしないの。店に来た理由が佐藤君に頼まれてというのもあるけど、初めて店に入って来た時から、ビビッてきてしまった。佐藤君の要件が終わったから、もう来ないだろうなとは思ったけど、もう一度来てくれないかな、来てくれたら嬉しいなって、そう思ってボトルをおろしたの」

「そうだったんだ。用もないのにまた来てしまったら、変に思われないかと心配していたのに」

「今日、店のドアを開けて入って来てくれたとき、嬉しくてうれしくて、どう接していいのかわからなかった」

そういう真理さんがとても可愛くて、俺はもう一度抱きしめた。


「定期的に鈴鹿に来ようと思わなくていいからね」

翌日、俺が真理さんの家を出るときに、真理さんはベッドの中で何度も言っていたことを、念を押すように繰り返した。俺はそれには何も答えず、笑顔で「じゃあ、また」と言って家を出た。


鈴鹿には、月に1度のペースで足を運んだ。金曜日の11時頃に店に入り、店を閉めると、真理さんと一緒に真理さんの家に行き一緒に過ごす。真理さんの店は日曜休みで、土曜も営業しているので、土曜日は俺一人で真理さんの家で一日過ごすか、遅い時間に店へ行く。そして日曜の最終で東京へ帰るというパターンが出来上がった。

ある時、俺は真理さんに聞いてみた。

「真理さんは、趣味とかないの?家にはそういうものが全然ないけど」

「趣味かぁ、毎日昼頃に起きて、店で出すお通しとかを作って、夕方に店に行って、店から帰ったら寝る。その毎日だからね。休みの日曜日は一日寝ているし」

「真理さんは、それで幸せですか?」

「幸せだよ。毎日、ちゃんとご飯を食べられて、健康でいられる。それで十分幸せだよ。それに、今は月に1回雅君が来てくれるから、これ以上のことを望んじゃダメでしょ」

幸せの尺度は人それぞれだが、俺は真理さんを、もっともっと幸せにしてあげたいと思わずにはいられなかった。


その年の11月に、俺は司法書士の試験に合格した。12月の中旬から1月にかけ、新人研修を受けなければならない。真理さんにはその旨を伝え、しばらく鈴鹿には行けないと言っておいた。

新人研修が終わってからは、司法書士会による配属研修、そして簡易裁判所で弁護士と同じように訴訟代理人になることができる資格をとるために特別研修を受けた。一通りの研修が終わったのは、7月だった。司法書士試験合格からこの7月までに、鈴鹿へ行けたのはたったの2回だった。真理さんは、「仕事だから仕方ないよ」と言ってくれたが、寂しそうだった。


ようやく落ち着いて、7月の終わりに鈴鹿へ行った。真理さんは、何故か言葉数が少なかった。ベッドではいつものように応じてくれるが、以前のようにお店のお客さんの楽しい話や、買い物に行ったときの出来事などを話してくれることもなかった。


「お世話になっていた法律事務所の先生が、共同事務所にしないかと言ってくれたんだ」

「共同事務所?」

「そう。もともと先生一人では仕事が回らないことが多くて、俺がかなり突っ込んだところまで手伝っていたのだけど、司法書士になったのだから、正式に登記関係や書面作成などは俺の名前で仕事が出来るわけだから、総合法律事務所にして、一緒にやらないかと言ってくれたんだ」

「そうなの?それはよかったね」

真理さんの反応はそっけない。

「だからさ、・・・」

俺が言いかけた時、真理さんが先に言った。

「私たち、そろそろ別れましょう」

まったく予想していなかった言葉が真理さんから発せられて、俺はフリーズして、言葉がでなかった。

「この1年弱、とても楽しかったわ。ありがとう。でも、もう終わりにしましょう」

「どうして?」

「井原さんは、司法書士になって、立派になられたのだから、いつまでもこんな私にかまっていたらダメだよ。これから良い人が見つかるから。その時にあれこれ考えるより、今のうちに別れましょ」

「そんな人、現れないよ」

「今すぐでなくても、そのうち現れるわよ」

「いや、現れないよ。だって、もういるもの。俺の目の前に」

真理さんが今日初めて俺の目を見た。

「真理さん、東京へ来てください。そして、俺と結婚してください」

真理さんは目を丸くして、俺を見続けた。

「ずっと考えていたんです。真理さんは、今の生活で十分幸せだというけど、俺は、もっともっと、真理さんに幸せになってもらいたい、こんな幸せがあったんだって、真理さんに言わせたいって。だから、東京へ来てください。俺が真理さんに、本当の幸せを経験させてあげますから」

「ダメよ。私なんか。こんな、高卒で父親も誰なのかもわからない水商売女なんか、雅君のご両親だって許さないわよ」

「言っていませんでしたけど、俺、両親いないんです。小さい時に両親を亡くして、親戚の家で育てられたので。だから、真理さんと結婚するのに、反対する人は誰もいません」

「本当に、私、東京へ行って良いの?」

「俺の方が頼んでいるのです。どうか、東京へ来てください」

真理さんが俺に抱きついてきた。そして、涙声で話し出した。

「雅君が、忙しいと言って、なかなか来なくなったから、もうそろそろ私と別れたいのかなと思ってた。司法書士の資格も取ったと言うし、今日は別れ話に来たのだと思っていた。でも、雅君の口から別れようと言われるのが嫌で、私の方から先に別れようと言ったの」

真理さんは、以前結婚を考えていた相手を自分の方から振ったと言っていたが、その時も相手から別れ話をされるのが怖くて、先に振ったのかもしれない。

「東京へ来てくれるのですね?」

真理さんは、ウンと頷きながらキスしてきた。


真理さんは、自分の生い立ちにコンプレックスを抱いていて、大学を出ている人や、良い会社に勤めている人は、皆自分とは結婚したがらないと諦めていたのだろう。ひょっとすると、その考えは、佐藤の時から始まったのかもしれない。

真理さんの背中を強く抱きしめながら、「五番街のマリーへ」のフレーズが俺の頭の中に浮かんだ。

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