母上③

 夕方になる前に王城の俺の私室までお師匠様に送ってもらって、その日の授業は終了。

 私室では俺の専属侍女のマイラと妹のネレアとヌリア母様が待っている。

 マイラはともかく、ネレアとヌリア母様も毎日、俺の帰りを俺の私室で待っていた。


 事の発端はネレアがはいはいを始めたころに遡る。

 俺はいつものごとく、遠く離れたお師匠様の私邸で授業を受けていたときのこと。

 ある日の昼間。

 白の魔女、こと、ブラン・ジャスマインが講師の俺は彼女の送迎で、貴族街にある彼女の家で勉強をしている──ということになっていた。

 実際は、貴族街の彼女の家は別邸で、本邸は遠く離れた場所にあるのだが。

 はいはいを覚えて行動範囲が広がったネレアが忽然と姿を消すという事件が起きた。

 最初はヌリア母様の部屋を隅々まで探したのだが、なかなか見つからない。

 小さな子だしはいはいを覚えたばかりだから三階から下りたりしないだろうと考えた使用人や近衛騎士たち。

 捜索範囲を広げヌリア母様の私室から三階の全室をくまなく調べる。

 これが大掛かりな捜索となった。

 ネレア捜索に割かれた人員なんど五百人。

 だと言うのに、三階からは見つからない。


──もしや窓から落ちたのでは?


 誰かの一言で更に騒然。

 なんと王城の三階と城の敷地内での捜索が始まった。

 王国兵二千人が動員されて城の敷地をしらみつぶしに捜査。

 しかし、落ちた形跡はどこにもなく、三階でもネレアがいた形跡がなく、捜査は難航を極めた。

 午後を過ぎ夕方になろうという時間まで続いた捜索に誰もが諦めかけたその時……。


「もうすぐサクヤ殿下が帰ってくると思いまして、殿下の部屋に入ったら、殿下のタンスが開いていて辺り一面に殿下のパンツが散らかってました」


 これはマイラの証言だった。

 よだれ塗れの俺のパンツ。

 何故かパンツだけが器用に取り出されてどれもが涎で湿っていたのだ。


「おかしいと思ってベッドを見てみたら、サクヤ殿下の枕を抱えてスヤスヤと幸せそうに眠るネレア王女殿下のお姿があったんです」


 これもマイラの証言。

 どうやって俺の部屋まで来たのかも、どうやって扉を開けてタンスから俺のパンツを出して、どうやってベッドに上がったのかも分かっていない。

 ただ、その日からネレアはつかまり立ちをしていたことだけはその後に分かった。

 こうして述べ二千五百人の人員を動員したネレア王女殿下行方不明事件は解決。

 しかし、話はこれだけでは終わらない。

 その日の夜。

 ネレアはいつもどおりヌリア母様と一緒に眠った。

 ヌリア母様は母乳を与えて眠っており、しばらく起きないだろうと深い眠りについていたらしい。

 いつもなら、夜中に何度か授乳のために起きるのに、その日は朝までぐっすりと眠れた。


「あの時はとっても気持ち良く眠れて朝起きたらすっきり目が覚めたの。でも、なにかおかしいと思ったらネレアが居なかったの」


 ヌリア母様の証言である。

 しかし、この日は大事になることはなかった。

 俺を起こしにきたマイラがネレアを発見したからだ。


「殿下! 殿下! 起きられますか?」


 その日はそんな声で起こされた。

 いつもなら「殿下、朝食の時間ですよ」などと言うのに、珍しく「起きられますか?」という声。

 その声で目を開けた俺はいつもより布団が重く生温かい。

 何かと思って触ってみたらネレアである。

 起きようとしてネレアを抱っこすると、俺の首に腕を回してガッチリとくっついて離れない。

 六歳になったばかりの俺と言えどまだまだ小さな男児である。

 ネレアの力は強かった。

 ネレアを離すのを諦めた俺はそのままネレアを抱いて一階の食堂に下りる。

 食堂に現れた俺の姿を見た父上は──


「何事なのだそれは」


 と、聞いてきた。

 俺が聞きたいくらいですよ──とは言えず。


「朝、起きたらネレアが居て……」


 その場には体調がよくなったお陰で朝食をご一緒できる母上も居て、


「あらあら、あなた、また、小さい子に好かれちゃって」


 最初から分かってますみたいな言い方をする。

 そんな感じで俺が事情を説明してるうちにマイラがヌリア母様を連れて食堂に来てくれた。


「ああ、良かった。また、居なくなっちゃったかと思って心配だったの」


 そう言ってヌリア母様がネレアを抱きかかえようとしたら、ネレアは俺をギュッと抱いて泣いてしまう。


「んふふふ、やっぱりサクヤお兄ちゃんが大好きなのね」


 と、ヌリア母様がニヤニヤしだす。


「サクヤ、申し訳ないけどネレアの気が済むまでお願いね」


 早々と諦めやがった。

 俺の左に座る母上までもがニヤニヤしてる。

 くっそ。なんでや。

 でも、まあ、ネレアは可愛いから良いか──と、俺はネレアを抱きかかえて食事をとった。

 淋しそうにしていたのはスタンリーで、俺の妹でもあるけど彼と同じ母親から生まれた妹だと言うのに──いや、スタンリーに懐いてはいるけれど、それ以上にネレアは俺に付き纏う。


「今だけよ」


 ヌリア母様がスタンリーを慰めているが、果たしてどうなることやら──。

 ちなみにこの行方不明事件でヌリア母様の部屋の扉を開けにくくしたり三階から二階に下りる階段に扉をつけてみたが、ネレアが手から血が出ても扉を叩き揺すり何としてでも開けようとするので、数日もしない間に元の状態に戻っている。

 そう、俺はあれから一人で寝ていないのだ。

 夜はいつもネレアと一緒。

 そしてネレアが唯一、俺を手放すのはお師匠様が部屋に来たときだけ。

 何故か、お師匠様がいるときは俺から離れてマイラに抱っこされに行く。

 で、俺が帰る頃に俺の部屋に行きたがって俺を待ってる──というのがネレアの日常となっている。

 ネレアは一歳の誕生日を迎える直前に乳離れしてからというもの、ヌリア母様に縛られること無く俺に付き纏っている。

 俺が居ない昼間だけ、ヌリア母様と過ごしているという状況。

 それをブランはヌリア母様にこう伝えた。


「この子はこの子の行動原理で動いている。だからそれが悪いことだと止めずに彼女の思う存分にさせてあげて、貴女が彼女を見守っていてくれるなら、サクヤ殿下の次にネレア殿下の講師を私が行わせていただきましょう」


 お師匠様は俺が初等部に入学するまでの間、俺の講師と決まっている。

 その後も見てくれるとは言っているものの俺にも学園があるのでお師匠様と過ごす時間が激減するのだ。

 その空いた時間をネレアに使ってくれると言っていた。

 母上の治療に協力した鑑定士。それに加えて俺の教育係を名乗りを上げて父上に採用された白の魔女。

 そんな経緯があってか、すっかり白の魔女と顔見知りになってしまった我が王家。

 ラスボスですよ? ラスボス。良いんですかね。

 そんな俺もラスボスだって分かっているというのにすっかり彼女に絆されてしまって、どうにかして彼女が死なない未来に繋ぎたいと思うようになった。

 ゲームの画面からしか見られなかった世界に転生して、ゲームに登場しないキャラクターがいる。

 それはとても大切な人たちで、だから、誰一人として失わない──そんな未来を紡ぎたい。

 まず、目下のところは母上。

 [呪われた永遠のエレジー]の舞台であるピオニア王国。

 この国はナサニエル・ピオニアが治める国。

 王妃は一人しか出てこない。愛人は何人かいるし王位継承権を持っているのは三人の男子。

 その中に名前がないのが俺の母上だ。

 ネレアの名前も物語には出てこなかった。

 このピオニア王国の王都ラクティフローラ。

 その王城は陰謀詭計が渦巻く伏魔殿。

 タイトルどおり、本当の意味でのハッピーエンドはサクヤ攻略ルートのトゥルーエンドしかない。

 でも、それは、逆ハーレムエンドで俺にとっては絶対にハッピーな幕引きではない。

 それに白の魔女と過ごしてから、ときおり見せる彼女の物憂げな表情や言葉が、本当にハッピーな終わり方じゃないような気がしてやまない。

 情が移って悪いことから目を遠ざけているだけなのかも知れない。

 俺はお師匠様に情があるから、彼女のことを知りたい。

 だから、俺の講師を終えてもネレアの講師になってくれるなら繋がりが途絶えることはない。


「その時はお願いしますね」


 ヌリア母様がそう答えてくれたから、俺の心は躍ったね。

 六歳児なりに。


 とまあ、そんなようなことがあって今に至る。


「ニルダ様のところに行かれるんでしょう? 私もご一緒するわ」


 お師匠様が帰ってから家族総出で──厳密には父上とシミオンとスタンリー以外で、母上の居室に行く。

 俺が城に帰ってきたことを報せるために。

 ちなみに父上は公務だし、シミオンとスタンリーはどろんこ遊びをして今頃は風呂場で洗浄されてることだろう。

 母上は心配性で寂しがり屋。

 普段はシミオンが近くに居るけれど、俺も居ないとダメなんだって母上は訴える。

 俺が顔を見せなければ心配で不安になるし、病弱な母上だから心が弱まると身体のどこかしらに影響する。

 母上の部屋に行けばヒーラーのライラが母上を診ていてくれて、いつもどおりに挨拶をして、俺は母上に甘えさせられた。


「母上。ただいま戻りました」

「おかえりなさい。サクヤ。無事に帰ってきくれて嬉しく思うわ。さあ、こっちにおいで」


 母上に誘われてベッドに上がった。

 最近は俺にくっついてるネレアも一緒にベッドに上がる。


「ネレアはサクヤが本当に好きなのね」


 母上はネレアの頭を撫でながら言う。

 ネレアは言葉がよく分かるのか、母上の言葉に満面の笑みで頷いて返す。


「大きくなったらサクヤのことお願いするわね」


 まるでそこまで生きられないと悟ったかのように母上はネレアに語りかけた。


「いつも、他人の世話ばっかりで自分のことを後回しにしちゃうのよ。だから、誰か一人でもサクヤのことを気にかけて守ってくれる人がいたらっていつも思ってるわ」


 母上の言葉にネレアは首を横に振る。

 ネレアは何かを見るかのように目の奥を煌めかせた。

 いつぞやか、お師匠様が俺を視た時に放った光。

 俺はネレアが鑑定を使えるのではないかとその時に疑った。

 今聞いたって言葉を返せないネレアだからわからないけれど──。

 だから──か。

 お師匠様が俺の次はネレアという意味を知った気がした。

 ネレアは母上を視てから母上に抱き着く。

 自分がされたことを母上に返したのだ。

 頭をぽんぽんと撫でてハグをする。

 そしたら、母上がポロポロと涙を流し始めた。

 泣き声を我慢して呻き声が漏れる。


「私、もっと生きたい……。サクヤのことも、シミオンのことも、もっともっと見ていたい。私だって自分の子どもが大人になった姿を見たって良いじゃない……なのに、どうして……」


 母上がネレアを抱き返して彼女の小さな肩に縋って泣く。

 この子、どこまで分かってるんだ?

 ネレアが俺を見てまるで『あなたがニルダを抱くんだよ』と言わんばかりの言葉を込めた目線。


「母上……。ボクも母上ともっとお話したりお茶をしたり、いろんなところに行ったりしたいです」


 俺は母上に抱き着いた。

 そしたら母上も抱き返してくれて、とても強く──。


「私、死にたくないよぉ……まだ、死にたくないの……」


 母上はもう泣くことを我慢しなくなっていた。

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