第34話 藁人形

 その日の午後、再び俺と紫野は、くだんの霊穴だという温泉へと向かった。


 ぼんやりと蝋燭のことを回想しながらお湯に浸かる。そして俺は、体を洗っている紫野を眺めた。その時、不意に、小さな音がしたから視線を向ける。すると窓に、何かがへばりついている事に気がついた。最初は虫が飛んできて、激突して死んでしまったのかと思った。何気なく視界に入った異物を、今度はまじまじと見る。そのまま息を飲んだ。


「紫野、紫野!」

「なんだ?」

「こ、これ!」


 俺は、窓に張り付いている小さな藁人形を見てしまった。シャワーで体を流しながら、紫野が目を細める。


「それ、実際に『見える』な……実物だ。本物。誰かが作った藁人形だな」

「だけど今、急に――」

「どこかから引き寄せられたんだろ」


 俺の隣に入ってきた紫野が、窓をじっくりと見る。

 藁人形の中からは、黒い髪の毛がはみ出している。何らかの紙もはみ出していた。今でも、藁人形による呪いなど、存在するのだろうか。


「この温泉に入ってる限りは、安全だから」

「あ、ああ」


 紫野の言葉を信じつつも、俺は温泉の中で震えてしまった。


 入浴を終えてから、藁人形の事をフロントで報告すると、「ああ、またですか」と言われた。そうして謝られた。俺はもうこの温泉に来るのは嫌だなと思った。ただし結局その後も、疲労が一気にとれる気がしたので、何度も紫野と共にこの温泉には来る事となるのだが。


 さて――その日は、俺は紫野の家に泊めてもらう事になっていた。

 いよいよ俺は、体が熱くなる事を、紫野に相談しようと決意していた。


「紫野、実はさ……時島の実家に行ってから、俺の体がおかしいんだ」

「――選ばれたのか? 選ばれたんだろうな……」

「紫野は何があったのか、知ってるのか?」

「詳細は知らない。ただし、その儀式の件で、昔から草壁家と時島家は、薬の取引があるんだよ。それで俺は最初から、時島の名前だけは知ってた」


 俺は椿さんに渡された、赤いツルツルした紙に包まれていた薬の事を思い出していた。

 しかしそれは取り置いた。


「あのさ、その、俺は……選ばれたみたいなんだけど……」

「分かってる。お前の後ろにグルグルととぐろを巻いた蛇が憑いてる」

「え?」


 自分に何か憑いているとしても、俺にはそれが視えない。鏡を見ても、何かが視えた事は無い。だから非常に、紫野の言葉が気になった。


「温泉に行っても取れないんだな。体、平気か?」


 紫野の側から聞かれたので、俺は安堵しつつも首を振った。


「平気じゃないんだ」

「どういう症状が出てる?」

「それは……あの……」


 そして実に言いづらい事に気がついた。なんと言えば良いのだろうか。


「ま、まぁちょっとな。それはそうとさ、溜まってる時に鎮める薬とかない?」


 俺は結局、誤魔化してしまった。


「は?」

「そ、その」

「誘ってんのか? それならいくらでも――」

「違うから!」

「じゃあ溜まってるんなら、俺が――」

「いや、大丈夫だから!」

「……時島に相手をしてもらうからか?」

「そういう意味じゃないからな!」


 俺は何度も何度も、大きく首を振った。髪が揺れる。そろそろ切りに行かなければ。


 大体だ。紫野は当然の事のように言うが、やはり男同士というのはおかしいじゃないか。何も当然じゃない。当たり前の事ではない。


 ――だけど俺の体が熱くなっているのは事実だ。正直、今も熱い。


 もしも紫野の言葉が本気で、俺に今紫野が触ったりしたら……例えば腕でも触られたら、俺はきっと拒め無いどころか、紫野に懇願する自信がある。貫いて欲しいと。そんな自信は欲しくなかった。


「……逆なら、いくらでも手持ちがあるんだけどな。元気にする方。鎮める方か……作らないと無いな」

「作ってくれ」

「良いけど、金がかかるぞ、結構。恋割は使えないからな、一応これは」

「……いくらかかる?」

「程度によるな。完全に不能にするのだと一千万って所か。だけどそれは、俺が困るから無理だ。左鳥に触りたい」

「……一番安いのは?」

「流すなよ……そうだな、ムラッとしたのを鎮めるくらいなら、五万くらいか」

「五万か……作るのって、時間がかかるか? あのさ、ローンきく?」

「十一か体で返してくれるんなら、ローン考える。ほぼ材料費だからな。左鳥の頼みだから最速で作るとして――一ヶ月だな。所で、もしかして俺か時島に盛る気じゃないだろうな? 時島には飲ませても良いけど、俺は嫌だぞ」

「詳細は聞かないでくれ」


 まぁ、一ヶ月あれば何とか、短期バイトをすれば五万円くらい用意できるだろうと、俺は判断した。しかし俺は、あと一ヶ月も我慢が出来るのだろうか。それが一番不安だった。


「なぁ左鳥」

「何?」

「もし本当に溜まってるんなら、俺の所に来いよ。時島じゃなくて、俺の所に」

「そんなんじゃないよ」


 俺は慌ててそう言ってから、曖昧に笑った。笑うしかなかった。

 その日は結局一睡も出来ず、紫野とは始発まで話し込んで過ごしたのだった。ずっと体は熱かった。

 ――ちなみに紫野と何を話していたかというと、勿論オカルト話だ。

 紫野が語ったのは、当時サークルの先輩だった長瀬(ながせ)さんという人の話だった。


「長瀬さん、引っ越ししたんだよ。内定貰ったから、早めに」

「ああ、あるよね」


 春になると部屋が埋まってしまうからだ。これまでは春に家の空きが埋まるのは、進学のせいだろうと漠然と思ってきたのだが、現在四年生の俺の周囲にも、新居を探している者は多い。サークルの友人の七原も引っ越したし、セージも二月に引っ越すというアパートを、既に決めている。この前、碧依君も含めて久方ぶりに会った時に聞いた。


「でさぁ、長瀬先輩って、結構決めた事はやり通す性格というか、神経質というか、なんて言うんだろうな……今回の話で例を挙げると、絶対に靴の踵を履き潰さないんだ。ほら、引っかけて歩いて、スニーカーの踵潰す奴いるだろう? それを見かけると、必ず注意するというか、それが許せない人なんだよ」


 俺なんかは、潰しまくっているので、会ったら怒られるだろう。


「なのに、引っ越した初日に帰ってきて、靴を玄関で脱いでさ、寝たら翌朝、踵が潰れてたんだって」

「急いでて潰しちゃったとか?」

「先輩もそう思ったらしくて、自分を戒めながら、新しい靴で出かけたらしいんだ。踵一つで、自分を戒めるって言うのもすごいけどな」


 俺は思わず笑ってしまった。確かにそうかも知れない。ただ、気になる人には絶対に気になるような事である気もする。俺の弟も、踵は絶対に潰さないからだ。俺とは違い食べるのもゆっくりだし、何というか右京には品がある(俺には無い)。


「だけど、次の日も、その次の日も、一週間も潰れ続けてたんだって。物が落ちた気配もないし、いよいよストーカーでもいるのかと思って、ある日、下駄箱に靴をしまって、何も出しておかない事にしたらしい。それで、何が起きてるのか、そばのトイレの扉をうっすら開けて見守ることにしたんだそうだ」

「それでそれで?」

「――白いワンピースの貞子みたいな女が現れて、ずるずる床を這いながら、靴をいつも置いている場所までやってきたんだってさ。それでポツリと言ったらしい――『私の足を返して』……って」


 ちょっとゾクッとした瞬間だった。




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