第35話 八百屋さん


 それから帰ると、時島が起きていた。


「紫野の家か……」

「う、うん」


 なんだか気まずさが漂った気がしたが、理由は分からなかった。

 その時ギュッと、時島に抱きしめられた。

 瞬間、限界だった俺の体が反応した。


「……は、離せ!」

「嫌だ」

「や、あの、違う、違うんだ、色々とあって」

「紫野とか?」

「全く違うから!」


 するとさらに腕に力がこもった。全身の力が抜け始めて、俺はその腕に体重を預けそうになる。あと少し……あと少しでも触られたら、俺は多分、勃起してしまう。


「お願いだから、頼むから、今はちょっと、離してくれ……そ、その、すごくトイレに行きたいんだよ!」

「……じゃあ後でなら良いのか?」


 良くはないが……良くはないのだが……とにかく今は限界だった。

 必死で頷くと、時島が手を離してくれた。俺はそのままトイレに駆け込む。本当に危ない所だった。しかしあまり長々と入っていても怪しまれるだろうと思い、俺は必死に『鎮まれ、体』と念じた。結果、無理で……俺はその場で一人、ヌいてしまったのだった……。


 トイレから出ると、時島に聞かれた。


「それで紫野とはどんな話をしたんだ?」

「そうだな、怖い話なんだけど、一番気味が悪かった話は――」


 色々と話したので、俺は考えた。

 そういえば、紫野のバイト先(居酒屋)の方の話があった。


 なんでも、バイト先には女の先輩フリーターがいたそうで、年齢は二十代後半だったという。そしてその先輩は、自炊をしていた。まぁ別に自炊は珍しくはない。いつも近所の八百屋さんで買い物をしていたそうだ。スーパーよりも安く、漬け物なども売っているお店だったらしい。


 その八百屋さんは、奥さんと旦那さんが二人で経営していて、どちらとも顔馴染みになったそうだった。よくおまけをして安くしてくれたらしいのだが――後になって思えば、金銭管理にだらしのないお店だったのではないかと、先輩は目を細くしていたという。


 話はこうだった――帰り道にあるその八百屋さんへと出向いた彼女は、ニンジンと大根を購入した。合計で九百五十円だと言われたのだという。いつもより高い。……値上がりしたとは思えなかったが、その日は支払ったらしい。しかし翌日、百円と表示されている漬け物を購入したら、千円を要求され、ゼロが一桁間違っていたのだろうかと眉を顰めた。しかしその翌日からはやはり安価になり、自分の間違いだったのだろうかと首を傾げていたのだが、その後再び、以前と同じニンジンと大根を買ったら、三百五十円、さらにその次の週同じものを買ったら二千五百円を請求されたのだという。さすがに先輩は、奥さんに詰め寄った。


「どういう事ですか!? 明らかに金額、おかしいですよね!!」

「どうしてそんな事を言うの?」

「もう良いです!!」


 そのまま苛立ち、彼女は帰宅したそうだ。以来八百屋さんからは足が遠のき、一ヶ月ほどは、その店の前を通る時、足早になったらしい。だが、ある日どうしても必要なショウガが無い事に気がついた。買いに行くとすれば、近所の例の八百屋さんしかない。嫌だなと思いつつも、仕方が無いからと思って出かけると、そこにはニコニコと笑っている奥さんがいたそうだ。


 少しだけ気が緩んだ。ショウガの他、キャベツやレタス、トマトなどを購入して先輩は帰宅したらしい。そうして料理を再開した瞬間、息を呑んだ。


 ショウガの中に、長い縫い針が突き刺さっていたからだ。

 目を見開き、それから他の野菜を確認すると、全ての野菜に長い針が突き刺さっていた。『クレームを言ったからって、こんなに酷い嫌がらせは許せない』と思い、即座に八百屋へと品を持って引きかえしたという。すると今度は、旦那さんが売り子をしていた。


「針が入っていたんですけど!! 奥さんはどこですか!? こんな嫌がらせ――」

「妻なら……先月亡くなりました」

「は? さっき接客してもらったんですけど!! ほら、この針見て下さい!! 入ってました!!」


 怒り心頭で彼女がそれらの野菜を見せると、旦那さんの顔色が変わった。


「――妻が自殺した部屋に、ばらまかれていた針と同じだ。妻は少々認知症が入っていて……よく値段を間違える事があって、ある日クレームを苦にして、自殺してしまったんです……」


 彼女は何も言えなくなってしまったそうだ。

 その後、常連客を捕まえて話を聞くと、本当に自殺していたと分かったそうだ。


 針の話も噂になっているようだった。何故ばらまかれていたのかは不明だったから、恐らく首を吊る時に、裁縫箱に体が当たってしまったのだろうと推測されていたらしいが、皆……不気味がっているとの話だった。


 以来先輩は、野菜が食べられなくなってしまったそうだ。




「――って、言う話しが印象に残ってる」

「そうか」


 時島は、塩の瓶を片手で弄びながら、小さく笑った。

 しかし俺の話に興味があるのか無いのか、反応は薄い。その後、こちらへと向き直った。

 この時、時島は、真剣な顔をしていた。塩を机の上に置くと、俺の真横から腕を伸ばしてきた。


「もう抱きしめても良いか」


 そう言った瞬間には、抱きしめられていた。

 先ほどヌいたばかりだというのに……なのに、なのに俺の鼓動は騒ぎ始め、ドクンドクンと警鐘を鳴らし始める。体が再び熱くなり始めた。まずい。そのまま、顎に手を添えられ、上を向かせられる。


 そうして唇が降ってきた。時島とキスをする事には慣れてしまった。そう思ったが、する事には慣れても、感じ方が弱くなるわけではない。寧ろ次第に、俺の体は、キスをするだけで感じるようになっていく気がする。舌を絡め取られ吸われる内に、じんじんと熱が這い上がってきた。やはり内部が熱くなってきたのだ。こんなのはおかしいはずなのに。時島家での出来事が甦る――強い悦楽を想起し、俺の体は震えた。


 漸く唇が離れた時、俺は自分の瞳が滲んでいる事に気がついた。


「時島……その……」

「嫌だったか?」


 ――その時の俺の体はもう限界だったのだと思う。


 俺は自分から時島に抱きついていた。


「もっと……して欲しいんだ……なんて、ハハハ」


 空笑いしてみたが、虚しくて、時島の胸に顔を預けて俺は自分の表情を隠す。時島の反応が怖かった。その表情を見たくなかった。


「良いのか?」

「……あ、その……」


 何か言おうとした時、その場で押し倒された。軽く頭を座布団にぶつける。


「そんな事を言われたら、止められない」


 時島はそう言ってから、俺の首筋を撫で上げる。


 そのまま俺が求めるようにして、時島と交わった。俺の体は熱いというのに、散々時島は俺を焦らした。


 気がつくと俺は、ぐったりと裸のまま、座布団に頭を預けていた。

 何も考えられなくて、体が気怠い。横には、ゴムの袋が落ちている。


 体の熱は消えていて、久方ぶりに開放感を味わっていた。


「大丈夫か?」


 そこへシャワーを浴びた様子の時島が戻ってきた。おずおずと俺は頷いた。ああ……俺は、また時島と体を繋げてしまった。心が苦しくなってくる。男同士なのに。なのに、なんで――俺の体は、こんなにも気持ち良くなってしまうのだろう。絶望的な気分になりつつも、きっと時島が上手いんだと思う事にした。それしか自分の中での言い訳が思いつかなかったのだ。


 ――体の熱は収まったかに見えた。こんな風にすぐに解放されるのであれば、もっと早く頼んでいれば……などとすら、思ってしまった。ただ、俺もシャワーを浴びた後、急激に羞恥が募ってきて、まともに時島の顔が見られない。もうこの事には触れたくなかった。しかし服を着替えた時島が、触れてきた。


「ここ一ヶ月、ずっとこうしたくて、たまらなかった」

「……そうなのか?」


 時島も体が熱かったのだろうか。俯いて真っ赤になったまま、俺は呟いた。


「ああ。日増しに、潤んでいく左鳥の顔を見ていると、不思議とそんな感覚になった」

「え?」

「蛇のせいだと分かってる。なのに、俺はそれでも良いから、どうしても左鳥と寝たかった」


 その言葉に、俺はもう、どうして良いのか分からなくなって、ちらりと一瞬時島を見てから、またすぐに顔を下へと向けた。頬が熱い。――しかし、蛇のせい?


「蛇のせいって……?」

「産子になると、定期的に自然と体がその……――蛇を求めると聞いている」

「蛇を求めるって……今蛇は時島に憑いてるんだっけ……?」

「……ああ。ただ求めているのは蛇じゃなく、産子になった体だ。こんな事を俺に言う権利は無いかも知れないが――他の誰かの所に行かないで欲しい」

「っ」

「今の左鳥は多分、俺じゃなくても良いはずなんだ……寧ろ辛くて仕方が無いんだろうな……だから昨日、紫野の家にいると聞いても不安で仕方が無かった」

「時島……」


 俺は、どう答えれば良いのか分からなかった。確かに思い返してみれば、俺はずっと体が熱くて、そして誰かに――時島に限らず、誰かに貫かれたかったのだ。そんな自分が悍ましく思えた。何せ俺は多分、時島の事を今でも友人だと思っているからだ。だが普通、男友達同士で体を繋げるなどあり得ない。続ける言葉を思案した。その内に、重大な事実に気がついた。


「――ちょっと待って。定期的にって、じゃあ……」


 俺の体は、これからも熱くなると言う事なのだろうか……?

 それに時島は、何も言わずに僅かに目を細めただけだった。

 そこで会話は終わった。




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