第12話 居酒屋
こうして、春を迎えた。
大学四年生になってすぐ、俺は紫野と二人で、居酒屋に行った。
サークルで、よく行く居酒屋だ。先輩がバイトをしていたから、予約も取りやすかった。勿論、二人で行く時は、予約なんかしない。俺はたまに幹事をしていたので、その時だ。
さて、俺は麦酒を頼み、紫野は生グレープフルーツサワーを頼んだ。品が届くと、紫野がグレープフルーツを搾り始める。つまみはサラダと焼き鳥、厚焼き卵だ。
紫野はサラダが好きで、俺は卵が好きなのだ。
「ホラーのネタの収集は進んでるのか?」
その時不意に、紫野に聞かれた。
俺は皿にサラダを取りながら、最近ではめっきり収集しなくなっていたなと思い出した。何故なら、時島といると、あるいは紫野といてもなのだろうが、オカルトな現象に遭遇する頻度が増えていたからだ。話を集めるまでも無かった。向こうからやって来る。だから俺は、時折振り返ってノートパソコンにその記録をまとめるだけの日々を送っていた。
「まぁまぁ、かな」
そう答えると、紫野が喉で笑いながら、果汁をグラスに入れた。
そして二人で乾杯する。
「時島と、どう?」
結局、俺は……少し前にアパートを解約して、時島のマンションに引っ越した。『どう』と言うのは、その事だろう。
「時島って結構マメだな。料理も掃除も気合い入ってる。なんかお世話になりっぱなし」
グイとジョッキを煽りながら俺が言うと、紫野が神妙な顔をした。
「そうじゃなくて――……付き合ってるんじゃないのか?」
「は?」
そりゃあ一緒に暮らしているのだから、相応の付き合いはある。紫野の言葉の意味が分からず、首を傾げるしかない。
「だから、だーかーらー」
紫野は何か言いたそうに、ジョッキを傾け、グイグイと半分ほど飲んだ。そして真剣な顔で俺を見た。
「ヤったりって意味」
「は!?」
俺は唖然とするしかなかった。確かにまだ引っ越す前の、泊めてもらっていただけの頃に……俺は一度だけ、時島と寝たのかもしれない。ただしアレは、合意でも何でもなくて、俺が憑かれて襲ってしまっただけなのだ。今では、俺も時島も、その事には全く触れない。
そもそも、そもそもだ。俺は男が怖いのだ。こういう――周囲に大勢の客や店員がいる居酒屋などであれば別だが……。
そうだ、紫野には俺が、強姦された事件について、話をした事が無い。だからただのネタとして話しているのかもしれない。そもそも、俺も時島も男だ。
――この当時は、LGBTといった風潮は、あまり無く、『男同士』といえば、会話のネタの一つだったのだ。
「何言ってんだよ……男同士だぞ。飲んで早々ホモネタって」
「ネタじゃなくて、真面目に聞いてる」
「それこそ何でだよ」
「何でかって? 言ったら左鳥が引くから絶対に言わない」
「もう既に引いてるから。言えよ」
再びジョッキを傾けながら、俺は頑張って笑った。まさか時島が、俺と体を重ねた事や、俺が強姦に遭ったという話を、紫野にしたのだろうか? あの時島が? 何となくそれは無いような気がする。
「……俺な、好きな相手がいるんだよ」
紫野がポツリと続けた。そうしながら二杯目を頼む。次は生キウイサワーだった。
「そいつ、男なんだよ」
俺は思わず目を見開いた。なんと返せば良いのか分からない。同性愛者がいる事は、勿論俺にも分かっていた。けれどこんなに身近にいて、しかもそれが紫野だとは思いもしなかったのだ。紫野は正直モテる。無論女子に、だ。俺の記憶が正しければ、カノジョがいた覚えもある。少なくとも大学に入ってから二人はいた。
「いつから好きなんだ?」
「三年の終わり」
そう言えば確かにその頃から、紫野にはカノジョがいた様子は無い。空いている時間は、ほぼずっと時島の家に遊びに来ているようだった。そこで俺は、ハッとした。もしや紫野が好きなのは――時島なんじゃ……?
「別に……その、引いたりしないよ」
「本当か? 正直に言ってくれて良いから」
紫野が苦笑するように言った時、二杯目が運ばれてきた。俺も二杯目の麦酒を頼む。飲まずには聞いていられない。失礼かもしれないが……正直、俺は動揺していた。確実に動揺していた。
「本当。本当に引いてない。えっと……あのさ、さっきの話だけど、俺と時島は本当に何でも無いよ」
「そっか」
紫野は頷いてから、ゆっくりと酒を飲んだ。俺はそれを見守る。
「左鳥ってさ、色っぽいよな」
「何だよそれ」
「色気がある。だから――心配してるんだよ」
これは、いよいよ時島の事が好きなのだろうと、俺は確信した。俺が色っぽいと心配するなんて、それしかあり得ない。断言して、俺は色っぽくなど無いのだから。
「お前見てると、男でもクラッとくる」
「馬鹿にしてるだろ」
「してねぇよ……なぁ、お前男と経験あったりする?」
続いた言葉に俺は硬直した。
タクシーに乗っている自分が脳裏を過ぎった。思わずジョッキを置き、両手で体を抱く。
「なぁ紫野――俺こそ、引かれる話をしても良い?」
「何だ?」
俺は、その時勇気を出した。以前までよりも仲良くなった紫野に、聞いてもらいたかったのだと思う。酔っていたわけではない。そこで――男に強姦された話をしたのだ。紫野は最初こそ息を飲んだものの、眉間に皺を寄せながら静かに聞いてくれた。それから、俺に言った。
「お前は悪くない」
「あはは」
思わず空笑いをしてしまった。実際には新宿で飲んだくれていたのだから、俺だって悪いと思う。だが、紫野の言葉に、気が楽になった。
「取り敢えず、これからは、一人で飲みに行くなよ」
「あれ以来一度も行ってないよ」
「飲みたい時は俺が付き合うから」
「有難うな」
「それに……俺に出来るなら、俺がお前の事を守るから」
紫野はそう言うと、なんだか悲しそうな顔で笑った。何故悲しそうに見えたのかは、分からない。ただ俺は、紫野の優しさにも救われたと思った。
その時不意に俺は、時島にいつか、『守ってやるとは言えない』と告げられた事を思い出した。急に頭に浮かんできたのだ。俺はその時島の言葉を打ち消すように、小さく頭を振る。それから紫野を見た。
「助かる。嬉しいよ。さ、飲もう!」
そして話を変えて、俺は紫野と酒を飲んだ。紫野の事を、本当に大切な友達だと再認識したのはこの時だったような気がする。
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