第9話 晁錯の陰謀

 漢の御史大夫ぎょしたいふ晁錯ちょうそは机に拡げた書簡を眺め、口元を歪めた。そこには明らかな軽侮と、くらい喜びがあった。

 それは諸侯王の行状についての報告である。晁錯は各地の宮廷へ腹心の部下を送り込んでおり、彼らからの密告がひっきりなしに送られて来るのだ。


 晁錯は新たな竹簡に、それらをまとめた訴状を作成していた。

 曰く、不義密通の罪で楚王は死罪とすべし。官位を金で売買した膠西こうせい王は庶民へおとし、趙王は宮廷内の混乱を放置した罪で国を没収するのが妥当、などである。


 強硬な意見のようだが、みことのりが下りる際にはおそらく罪は軽減され、領土の一部没収くらいに落ち着くだろう。

「それでいい。奴らを追い詰めるには十分だ」

 このように、各諸侯の勢力を削いでいくのが晁錯の日課になっていた。


 しかし、と晁錯は苦い顔になった。彼にも手に負えない国が二つあった。

 ひとつは淮南わいなんであり、もうひとつはである。

 当代屈指の法令マニアと云うべき張釈之ちょうしゃくしが丞相を務める淮南からは、他国のような不法行為の報告がほとんど上がって来ないのだ。


「あそこは無理です。それに既に四分割され小国に成り下がっておりますから、放っておいても良いのでは。それよりも呉です」

 かつて、些細な過失を見咎みとがめて領土削減を図ろうとし、逆に張釈之によって返り討ちにあった部下の言葉に、晁錯は不機嫌を隠さなかった。


「分かっている」

 呉王劉濞による漢の朝廷を無視した不法行為を数え上げれば、きりが無い。

 他国の犯罪者が逃げ込めばそれをかくまい、塩の専売によって巨利を博し、勝手に銅銭を鋳造したうえ堂々と武器の製造まで行っているのだ。

「先帝からのお墨付きさえ無ければ、即刻取り潰してやるのだが」


 決して呉と事を起こさないように、というのが文帝の方針だった。現在の景帝もそれを無碍むげには出来ないらしい。呉に対してはどうにも及び腰なのだ。いっそ呉が反乱を起こしてくれれば、と思う。


「だが、なぜだ」

 呉王劉濞は皇太子時代の景帝によって世子を殺害されている。朝廷に対し強い恨みを持っていてもおかしくない。

 実際これまでも、朝廷と呉王の間に不穏な空気が流れた事は何度もある。だが不思議と、具体的な反乱の噂までは無かった。

 晁錯は天井を仰いだ。


袁盎えんおうか。やはり」

 吐き捨てるように言う。呉の丞相、袁盎は晁錯の仇敵と言っていい。

 もとは両者の政策の違いによる対立だったのだが、次第にそれが人格攻撃に及び、互いに憎しみが高じると、ついには公的な場ですらお互いに忌避し合い、顔を合わせなくなったのである。


「奴が呉王を抑えているのだな」

 もはや名を口にするのも忌まわしいといった風に晁錯は首を振る。

「ならば方法はある」

 そう言って晁錯は景帝の許へ向かった。



「臣が聞き及びますに、袁盎は呉王をそそのかし更なる悪事を企てようとしております。是非とも今のうちに袁盎を解任し、長安にて監視下に置くべきと存じます」

 景帝は一瞬、困惑の表情を浮かべた。

「袁盎がそんな事をするかな」


「証拠ならございます。ここで披露いたしますか?」

 晁錯は顔をあげ、鋭い目で景帝を伺った。


「わかった。晁錯の思う通りにせよ」

 景帝は決して袁盎に悪い印象を持っている訳ではない。むしろ父、文帝が重用しただけの事はある有能な男、という印象である。

 だが目の前にいる晁錯はずっと景帝の教育係だった。皇帝に即位したとはいえ、やはり長年の師に対しては景帝も頭が上がらなかった。

 それでなくとも煙たい存在の晁錯に対し、たかが他国の人事でわざわざ以後の面倒事の種を作ろうとは思わなかった。


「感謝いたします、陛下」

 晁錯は薄く笑って一礼した。


 間もなく呉の丞相、袁盎はその職を解かれ、長安へ召喚される事になった。


 ☆


「淮南王さま、淮南王さま。これすごいよ、一体どうやって作るんだろう。知ってましたか、大豆から……」

「うるさい、おれは仕事中なんだぞ!」

 執務室に駆け込んで来た伍由を劉安は怒鳴りつける。


 最近、伍由は劉安にすっかり懐いていて、事有る毎に執務室までやって来るのだ。劉安はそんな伍由を可愛いとは思いつつ、邪魔なものは邪魔なのだった。


「ええ? 淮南王さまだって趣味の文献蒐集でしょ。全然、仕事してないじゃないか」

「う、うう」

 痛いところを突かれた


「なんだ。話だけは聞いてやろう」

 気を取り直し、椅子にふんぞり返る劉安には目もくれず、伍由はその竹簡を机に叩きつけるように置いた。

「これです!!」


「豆腐、という事か?」

 中国の言葉では、ぶよぶよと柔らかく、半ば固まっているような状態を『腐』という。逆に言えば腐って溶けかかっている状態である、とも云える。

 この竹簡の記載では、意図的に豆をそんな状態にするというのだ。それを説明している文章を簡略化して、劉安はそういう言葉を紡ぎ出した。


 伍由は目をみはり、そして頷いた。

「そう、まさに豆腐」

 

「うむ。大豆はある。すり潰すのも問題ない。だが……」

 そこで劉安は考え込んだ。

「海水から採った汁を混ぜて固めるだと?」

「そう。意味が分からないでしょ」

 確かに劉安にも分からなかった。


 すり潰した大豆に精製したを加えて固めるのが現代の豆腐の製造方法である。そして、にがりの主成分は塩化マグネシウムで、これは海水にも多く含まれる。今でも沖縄の一部などの清浄な海水が採れる地域では、汲んだ海水を使って豆腐を作っているらしい。


「そうだ、呉王から貰った海塩があるから、それで作ってみるか」

 思い出したように劉安は手を打った。


「呉王さまから?」

 伍由は、ふと嫌な予感に襲われた。




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