第8話 図書館の猫、伍由

 劉安りゅうあんは少年の頃から書や音楽に惑溺する一方、騎馬や狩猟はあまり好まなかった。典型的な屋内棲息インドア型なのである。

 基本的に穏やかな日常を愛し、怒りを面に表す事も少なかった。


 その劉安が、今朝は額に青筋を立てている。原因は彼の執務机を占領している少女だった。

「そこで何をしている、伍由ごゆう」 

 竹簡を拡げて読み耽っていた少女は、面倒くさそうに顔を上げた。

「にゃあ、淮南王。おはよう」

 猫のような声で返事をすると、また顔を伏せる。

 

「にゃあ、おはよう、じゃない。何をしている、と訊いているんだ」

 じゃら、と竹簡を置いた伍由は見下すように劉安を見る。

「何をしている? それは書など読んでいないで、早くこの机の上で服を脱いで、その発育の良い身体を露出しろと、そういう事か」

 言いながら伍由は薄い胸を両側から寄せる。

 劉安は怒りを抑え、息をついた。


「どうすればそんな解釈に至る。伍被ごひに言いつけて郷里へ送り返すぞ」

「それは困る。まだここで探している本がある」

 ほう。と劉安は顎をあげた。そして、ふふん、と笑う。自分が優位に立てそうなときに、よく見せる仕草である。

「どんな本だ。聞かせてみなさい」


 伍由はそれを胡散臭そうな目で見ながら言った。

「ここは古くから楚の都だっただろ。『楚辞そじ』とか『離騒りそう』とかの原書が伝わってる位だから、もっと希少な書もあるんじゃないのか」

 なるほど、と劉安は頷いた。

「だが、それは……お前の年齢で読めるのか?」


 劉安が困惑したのには理由がある。

 楚を中心とした南方の文章は特に装飾が多く、非常に抽象的な言辞が並んでいる。これは帝都長安の学者でも読みこなすのに難渋すると云われるのだ。


「でも淮南王は読んでたんだろ。そう、わたしくらいの時には」

 確かにそうだった。

「よく知ってるな。伍被に訊いたのか」

「え?!」

 途端に伍由は狼狽えた。真っ赤になって目が泳いでいる。


「ち、違う。別にお前のことを一生懸命に調べたとか、そういうんじゃないから、誤解するなっ。ほ……本当に、馬鹿じゃないの!」


「分かったよ。そんなに怒るな」

 肩をすくめた劉安は、書棚から一本の竹簡を取り上げた。

「ほら」

 伍由に向けて差し出す。


「何、これ。あ……そうか、この薄さはきっとイヤらしい本だな。これをわたしに声に出して読ませるのか。そんな方法で乙女を辱めようとは、なんて恐ろしい奴」

 伍由は後ずさった。


「おれをどんな性癖だと思ってる。違うよ、うちの書庫の目録の一部だ」

 ふむ、と伍由は受け取って拡げる。

 しばらく無言でそれを見詰めていた伍由はぽつり、と言った。

「淮南王

「はい?」


 伍由は、がばっと顔を上げた。

「一生、あなたさまに附いて行きます。淮南王さまっ!」

 すごい態度の変わりようだった。


「これが書物の力、言霊ことだまというものか」

 劉安は複雑な表情で、伍由を書庫に案内するのだった。

「いや。きっと、こいつが変態バカなだけだな」

 おれも他人の事はあまり言えないが、劉安は頭を振る。


「さあさあ、早く行きましょう、淮南王さま」

 伍由は、餌をくれる飼い主にまとわりつく猫のように、劉安の後を軽やかな足取りで追った。


 ☆


「それは由が失礼しました。あの子は昔から引っ込み思案で、人との距離を測るのが苦手なのです」

「そんな可愛いものでは無い気がするが……」

 劉安は朝の挨拶に来た伍被に愚痴をこぼしていた。


「ちょっと淮南王さま。また朝ご飯をこんなに残して。身体を壊しますよ」

 伍由はた食膳を見て眉を吊り上げる。劉安と伍被は顔を見合わせて苦笑した。


「お前はおれの母親か。いや、今では母親もここまで心配してくれないが」

 当然です、と伍由は腰に手を当て胸を反らした。


「あなたに何かあったら、あの貴重な書籍が漢に没収されるかもしれないじゃないですか。もしかしたら全部焼き払われるかもしれないんですよ」

「やはり、おれの心配をしてくれてる訳じゃないんだな」


「聞きましたか、今度の皇帝陛下って書籍に全然関心が無いんですって。そんな野蛮人なら焚書ふんしょくらい平気でやりますよ、きっと」

 それは劉安も聞いたことがある。とにかく今の皇帝、景帝は自分の権力を強化すること以外に興味がないらしい。


 太子時代からの側近、晁錯ちょうそを三公のひとつ御史大夫ぎょしたいふに任じ、ひたすらに諸侯国の持つ権力を削減することに努めているのだ。

 先頃も淮南国に対し言い掛りとしか思えない難癖をつけ、領土の削減を仄めかして来た。

 それは淮南国の丞相、張釈之ちょうしゃくしによる一分の隙も無い強硬かつ理路整然とした反論によって、どうにか立ち消えになっていたのだが。


「本当に、いやな奴だな」

 劉安は呟き、はっとしたように周囲を見回す。幸い、その言葉は伍由にも届いていないようだった。

 ん? と見返す伍由に、何でもないと手を振った。


「ですから、御身体を大事にしてくださいね」

 ああ、と劉安は生返事を返す。


(おれはこんなに、あの男を嫌っていたのか)

 初めて文帝に謁見した際の事だ。傍に居た景帝に罵倒され、それ以来、普段は心の奥底に秘めていた感情が湧き上がった瞬間だった。


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淮南王(わいなんおう)の叛乱 杉浦ヒナタ @gallia-3

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