第5話 呉王の城

 は長江の下流にある大国である。

 呉を含む中国南部は荊楚けいそ地方と呼ばれ、古くは中華の辺境、蕃夷ばんいの住む地域とされた。しかし戦国期、この地に起こった楚・呉・越といった強国が相次いで中華に覇を唱え、一躍世界の中心に躍り出た感がある。


 また屈原くつげんを筆頭に高名な文章家が現れた事により、文化の面でも決して中華に引けをとるものではないと証明された。

 遠隔の地である事は如何ともしがたいが、中原ちゅうげんに着かず離れず、この地方は独自の文化を育てていったのである。


 その後、始皇帝による秦の中華統一と崩壊を経て、再びこの地に呉という国が建てられた。その初代の王となったのは高祖劉邦の兄の子、劉濞りゅうびだった。

 劉濞は海からあがる塩を専売としたうえ、銅鉱山から採れる銅によって独自の貨幣を鋳造することまで行った。その結果、もはや経済的な実力では、本国の漢を凌ぐとさえ言われている。

 そして国民からは税を免除し、各地から才能のある人材を求めていた。


 これは漢の朝廷から警戒されたのも当然と云える。


 ☆


 呉王 劉濞りゅうびは杖を突き、ゆっくりとした動きで部屋に現れた。

「待たせたな、淮南わいなん。近頃あちこち痛くて、動くのも思うに任せなくてな」

 年は取りたくないものだ、と笑う。


 劉氏一族の最年長、劉濞は痩身を折り曲げるようにして椅子に座ると、深い皺の奥から劉安を興味深げに見た。

 老いたとはいえ、鋭い眼光に衰えは感じられない。建国の功臣でありながら後に叛いた猛将 黥布げいふを、戦場で打ち破った勇将としての名残りがある。

 劉安は体中に鳥肌が立つのを感じた。


「劉長どのは残念だったな」

 淮南王へ就任したことの報告で訪れた劉安に呉王は優しく言葉をかけた。

 劉安の父、劉長と、この劉濞は従兄弟の間柄なのである。


「いえ。呉王には感謝しています」

 心痛という点では太子を殺された呉王も同じだろう。それなのに、劉安が帝都に居る間、母や弟へ手厚い保護を与えてくれていたのもこの呉王だった。


「また、一族から王が誕生して、喜ばしい限りだ」

 だがその言葉には、どこか皮肉な響きがある。大国だった淮南が三つに分けられたことを言外に仄めかしているようだ。

 世代を経るごとに劉姓の諸侯国の規模は小さくなり、もはや単独で漢に対抗しうる国は存在しなかった。


「そうであろう、丞相じょうしょうどのよ」

 劉濞は後ろを振り返った。柔らかな笑みを浮かべた初老の男が黙って頷く。

 ん、と劉安は眉を顰めた。

 丞相と呼ばれたその男は赤ら顔で、あきらかに酒臭かった。どうやら昼日中から酩酊しているらしい。


「呉では酒を飲むくらいしか、することがありませんのでね」

 劉安の視線に気付いて、屈託なく笑っている。

「ああ、これは申し遅れました。丞相を仰せつかっている袁盎えんおうと申します」


「な、なんですって」

 劉安は慌てて立ち上がると拝するように一礼した。父の劉長が流刑と決まった際、ただ一人強硬に反対したのがこの袁盎だったのである。

「呉にいらっしゃるとは存じ上げず、失礼を致しました」


 袁盎は困ったように劉濞を見た。

「まあ、丞相とはいってもお飾りのようなものですが」

「そうでもあるまい。中央への報告は欠かしていないようではないか」 

 皮肉っぽく劉濞は言う。


「ありふれた事しか書いておりませんよ。それは王さまもよくご存じでは」

 しれっと応える袁盎に呉王劉濞は目を細めた。


「そうだったかな。だが、おかげで余計な事を考える暇もない」

「それは何よりです」

 はははは、と二人は声を揃えて笑う。


「そ、それではこの辺りで失礼します」

 呉王と丞相の間に流れる剣呑な雰囲気を感じ、劉安は席を立った。


「ところで淮南王さま」

 ふと思い出したように袁盎は劉安へ呼び掛けた。

「御国では張釈之ちょうしゃくしどのが丞相になられたとか」

 思いがけない言葉に劉安は首をかしげた。


「ええ。以前からの役人とは少し揉めているようですが、よくやって頂いています」

 劉安は苦笑しながら言った。

 前例踏襲を旨とする官僚集団が、法家思想の権化である張釈之ひとりに圧倒されている図ではあったが。


 袁盎は満足そうに頷いた。

「あの男であれば、国を間違った方向に向かわせる事はないでしょう。国政にあたっては、くれぐれも、張釈之と良くご相談になって下さい」

 そして、いたずらっぽく微笑む。

「まあ、かなり面倒くさい男で、大変でしょうけれどね」

 それには劉安も同感だった。


 後で張釈之に聞いた話では、うだつの上がらなかった彼を文帝に推薦したのが、この袁盎だったらしい。その話をした時、普段無表情な張釈之が少しだけ懐かしそうな表情を見せた気がした。


 ☆


「如何でしたか、呉は」

 張釈之は無表情のまま劉安に尋ねた。

「そうですね……」

 劉安は考え込んだ。

 単に城の規模でいえばここの方が大きいだろう。なんと言っても淮南国の都、寿春じゅしゅんは、かつて戦国の七雄のひとつ、楚国の都がおかれていた大都市なのだ。


「やたらと、人が多かったですね」

「ほう」

 どうやらその答えは張釈之を満足させなかったようだ。確かにこれでは子供の答えだった。劉安はあわてて言葉を加えた。

「人といっても呉国以外の、という意味です」


 交易のためだろうか、北方のせいえんの他、明らかに中華圏外の身なりをした者達も居た。

「刺青を施すのは、南越なんえつあたりの風俗ではなかったでしょうか」 

 その言葉に張釈之は、はっと顔を上げた。

 この男には珍しく、苦々しげな表情を浮かべている。


 「淮南王さま。これは、そろそろ猶予が無くなっているのかもしれません」

 「猶予、とは?」

 劉安には意味が分からない。しばらくの沈黙の後、張釈之は無表情に戻って言った。


「戦の支度を始めねばならないようです」

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