第4話 鋼鉄の宰相

「あ、あの。張丞相」

 劉安は呼びかけた。くつ音すら立てず後ろを歩いていた張釈之ちょうしゃくしが無表情のまま顔をあげる。


「何でしょうか、淮南王さま」

 声にもまったく抑揚がない。これは本当に生身の人間なのか、劉安は不安になった。


「いや、その……あなたは司馬門(宮廷へ繫がる門)事件の時の、衛尉えいい、張釈之どのではありませんか?」


 皇太子の劉啓とその弟であるりょう王が、馬車に乗ったままで司馬門を通過するという事があった。

 それは法で禁じられている行為だったため、二人は皇帝からきつく叱責される事になった。世にこれを司馬門事件という。


 その時、頑として二人の通過を許さず、最後は皇帝や太后までも巻き込む大問題に発展させたのが、司馬門を護る責任者(衛尉)だったというのだ。


「いえ。それは違います」

 張釈之は軽く首を振った。あ、別人だったか、と劉安がほっとしたのも束の間。

「その時、わたしは衛尉ではなく、公車令こうしゃれいでした」

「もっと下っ端役人じゃないですか?!」

 役職が誤って伝わっていたらしい。公車令は衛尉の、さらにその属官である。


 恐ろしい。一介の下級役人の立場で皇族をけん責したというのだ。とても常人に出来ることではない。


「怖くはなかったのですか。後悔とか、しませんでしたか」

 自然と口調が丁寧になる。


 張釈之の無表情が、少し思いを馳せる風の顔になった。

「……後悔はありませんが、怖かったですね、もちろん」

 ぽつりと言う。

「そうですか。やはりそうでしょう」

 下手をすればその場で斬首されても不思議じゃない状況なのだから。よかった、張釈之もやはり人間だったらしい。


「ええ。皇太子ともあろうものが、宮城きゅうじょう内で国法を無視した行いをするなど、これでは漢帝国も終わる、と思い、背筋が寒くなりました」

 ちょっと憤慨しているように見える。 

「いや、違いますよ。わたしが言ったのは、そういう意味じゃなくて」


「なぜです。その当時のわたしの役目は司馬門に於ける法を守る事です。わたしに、もっと大きな権限があれば、皇族や大臣の子息であろうとも、国費で私的な買い物をしたり無許可で宮廷内で新年会をするような輩など、片っ端からひっ捕らえて投獄したいくらいです」

「た、確かに」


 劉安が一見して、張釈之のことを儒者だろうと思ったのは、まったくの的外れだった。まさに生ける法家思想。これが、劉安が治めることになる淮南国の丞相なのだった。


「でもこれは……政界では長生き出来そうにない人だ」

 劉安は心の中で思った。


 ☆


「淮南王、ですか?!」

 伍被ごひはへなへな、とその場に座り込んだ。そのまま号泣し始める。

「お。おい、伍被」


「よかった。本当によかった。これで故郷に錦を飾ることができるのですね。おめでとうございます、劉安さま」

「あ、ああ」

 劉安もつられて涙をこぼした。二人は抱き合うようにして泣き続ける。



「劉安さまなら、きっと良い王になられるでしょう。平穏な治世を遠くからお祈り申し上げます」

 伍被は涙を拭いて鼻声で言う。


「それなんだが、伍被」

 劉安はその場で座ったまま姿勢を正した。

「わたしと一緒に来てくれないか」


 え、と伍被は劉安を見た。混乱して目が泳いでいる。

「劉安さま。それはまさか、わたしへの結婚の申し込みでしょうか。でしたら、わたしには心に決めた女性がいますので、それはちょっと」

「違うよ!」

 心に決めた女性というのは気になるが。


「そうではなく、きゃくとして、わたしの傍に居てほしいんだ」

 劉安は伍被の手をとり、ぐっと強く握った。


 客は別名、食客しょっかくともいう。有力者のもとに身を寄せ、知識や技能を提供する存在の事である。

 過去の例を見ると、ほとんど一国の宰相が務まるほどの人材から、犬や鶏の鳴きまねが上手だというような者まで種々雑多ではあったが、多くは主人と同格か、もしくはそれ以上の敬意をもって迎えられた。

 あくまでも厳然とした上下関係に縛られる家臣とは、その点が異なる。


 だが伍被はそっと手を離した。

「伍被?」

 唇をかたく引き結んだ伍被は、劉安の目をしっかりと見据えたあと、頷いた。


「わかりました。ですが、あと十年、いや五年待って下さい。こちらでなすべき事を終えたなら、必ず陛下の許へ駆けつけますから」

 静かに言う伍被に劉安も頷いた。

「わかった。わたしも淮南国をしっかりと治め、お前を待っている」



 後に生涯をともにする二人の少年は、こうして暫しの間、別れることになった。


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