第16話

「行ってきます」


 知聖は、いつも通り誰もいない玄関に向けてぽつりと呟く。家具もなく無機質な廊下に、知聖の声が虚しく反響する。

 返ってくることは無い挨拶に、毎日沈んだ気持ちになっていたが、今の知聖の心境は今までとは違っていた。


 月に一回、家族と食事することになった。

 正直、大学生となった今、家族で食事というのも少し気恥しい気がするが、今まですれ違っていた時間を埋めるように語り合う時間を知聖は気に入っていた。


 それも、健達があの場を用意してくれたおかげ。

 知聖は、塩野食堂の脇を通り過ぎながら、彼の事を思い出す。ふと足を止め、塩野食堂の勝手口を見て彼がひょっこりと顔を出してくれるのを期待してしまうが、そんなことは起きず、しばらく待った後再び歩みを進める。


 最近自分がおかしい。

 勉強の休憩中、お風呂に入っている時、寝る前、ふとした時に彼の事を思い出してしまうのだ。今何をして、何を思っているのか、勝手な想像をしては、ほんの少し罪悪感に苛まれる。そんなことを繰り返していた。


「知聖」


 校門まで着くと男性の声に突然声をかけられる。知聖は先程まで考えていた彼を想像し、勢いよく振り返った。


「おっと、ごめん驚かせちゃったかな?」


 しかしそこに居たのは彼ではなく、苦笑を浮かべる八坂であった。


「なんだ、あなたね……」


 ほっとした様な、ガッカリしたような、複雑な気持ち。

 思わず出てしまった知聖の落胆したような声色に、八坂は意外そうに眉を上げる。


「うん? 誰と勘違いしたんだ?」

「……いいえ、何でもないわ」


 八坂は一瞬不思議そうな顔をしたが、特に気にせず話を進める。


「聞いたよ、ご両親と仲直りしたんだってな?」


 八坂の言葉に、知聖は顔をしかめる。

 一体誰から聞いたのかと口を開きかけるが、考えるまでもなく彼女の佐藤からであろう。

 知聖はワザとため息をつき、気怠げに返す。


「元々喧嘩もしてないわ。会話がなかっただけ」


 知聖の言葉に、八坂は困ったような表情をして苦笑する。


「はは、喧嘩よりよっぽどじゃないか」八坂はそう言った後、目を伏せて言葉を続ける。「でも、良かったな。僕にもどうにも出来ない問題だったからな……本当に、健君には適わないね」

「………別に、あなたに解決を頼んだ覚えはないわ」

「そういう所も含めてだよ。君は僕じゃなくて健君を頼った。そう、みんな、彼を選ぶんだ……。」


 みんな、というのが誰を指しているのかは聞くまでもない。 


「あなたには同情するわ。でも彼氏として、佐藤先輩の暴走は止めて欲しかったと思うけれどね」


 知聖がそう言うと、八坂が苦笑する。


「どうか明莉を悪く思わないでやってほしい。明莉は知聖が僕に気があると疑っていたからね。明莉が僕と付き合いだした腹いせに、明莉の幼馴染である健君にちょっかいをかけてるんじゃないかって、考えてたみたいだったからさ。」

「……まぁ、そんなところだろうと思っていたわ。佐藤先輩がやたらと私に対して攻撃的だったからね」


 どうやら佐藤は、知聖が八坂のことを好きで、八坂と付き合いだした佐藤に恨みを持っていると勘違いしていたようだ。そのため、佐藤の幼馴染である健を奪うことによって、意趣返しをしようと企んでいると思いこまれていたようだ。


 八坂は苦笑いして言葉を続ける。


「僕と知聖の関係はそんなんじゃないって説明はしたんだけど、全然納得してくれなくてね」


 八坂の言葉を、知聖は鼻で笑う。


「そんなの納得するわけがないわ。佐藤先輩の深層心理としては、健から女の子を遠ざけたい、その想いが強かったはずだからね。」


 八坂の前では言わないが、佐藤はどう見ても健のことが好きであろう。健との距離が急に近くなった知聖に対して嫉妬の感情を抱いていたのは火を見るより明らかだった。


「佐藤先輩は、好きな男を奪われた腹いせに寄ってくる性悪女から健を守っている、という建前がほしかっただけ。つまり、私があなたのことをどう思ってようが関係ない、健から私を引き離したかっただけなのよ。」


 知聖の言葉に、八坂が佐藤を庇おうと口を開こうとするのが見えたため、先んじて言葉を付け足す。「もちろん、深層心理の話だから、佐藤先輩自身がどう思っていたか知らないけれどね」


 知聖も、佐藤が悪意で知聖を悪者にして責めてきたとまでは考えていない。

 その証拠に、健に知聖と八坂の関係のことを伝えたりはしなかった。

 おそらく、彼女自身も心のどこかで知聖が意趣返しなどしていないことを分かっていたのだ。

 自分でも気付いていなかった健への恋心が引き起こした暴走といったところだろう。


「でも、佐藤先輩は健への想いに気付いてしまった……これからどうするつもりなのかしら? まだあなたと付き合っているのでしょう?」


 そう聞くと、八坂は複雑な表情をした。


「……実はつい先日、明莉から別れを切り出されたよ」


「ふふふ、それはまた、行動が早いこと……あっ」


 知聖は八坂をからかう様に笑った後、あることに思い至り、表情をこわばらせる。

 八坂と別れたということは、佐藤は健に告白してしまうのではないか、と思い至ったのだ。

 そして健は元々佐藤のことが好きであったため、告白されて断るわけがない。


 知聖はスマホを取り出し、メッセージアプリで健の名前を探す。しかし、健のアカウントが見つからない。


「あ……」


 健とはまだ連絡先の交換もしていなかったことを思い出した。

 落ち着け、どうにかして佐藤が告白するよりも早く健に連絡を取らなければならないのだ。

 どうすればいいどうすればいいどうすればいい……。

 何も良い考えが浮かばない知聖は、頭を抱えてうろうろと意味もなく左右に行ったり来たりする。


 すると、スマホ片手に挙動不審になっている知聖の様子を見て、八坂は噴き出した。


「ぷっ…あははははははは! もしかして君、明莉が健君に告白してしまうと思って、彼に連絡を取ろうとしているのかい? 」


 ズバリ言い当て笑い転げる八坂を、知聖は唖然とした表情でしばらく見つめた後、思い切り彼を睨みつける。


「……あなた、もしかして嘘、ついた?」


 意地の悪いところがある彼ならやりかねないことだ。

 八坂は知聖の表情を見ると、慌てた様に背筋を伸ばして咳ばらいをし、両手を横に振って知聖の言葉を否定する。


「いやいや、嘘じゃない。別れを切り出されたのは本当だよ」八坂はそう言った後、記憶を思い起こすように遠くを眺めて言葉を続ける。「でも、別れないでいてくれるように僕が頼み込んだんだ。それはもう、情けなくね。何とか保留という形にはした。条件は色々出されたけど……」

「なんだ、良かった……。」


 知聖は条件という言葉が少し気になったが、今はそれよりもほっとしたことが大きく、肩の力を抜いた。

 そんな知聖の様子を疑問に思ったのか、八坂は興味深そうに知聖の顔をのぞき込んできた。


「しっかし、どうしたんだ? 君がそこまで取り乱すところなんて初めて見たよ。らしくないじゃないか」


 らしくない、そう言われ、知聖は先ほどの自分の心境を分析する。

 自分でも、考えるよりも先に体が動いてしまったことに驚いていた。健と佐藤が付き合いだすことを考えたら、焦燥感に駆られ、それをどうすれば止められるか、それしか考えられなくなっていたのだ。

 なぜそうなったのか、自分でも分からない。もし二人が付き合いだしたら、お弁当を作ってくれなくなるかもしれないから? 昼食を一緒に食べてくれる友達がいなくなるから? それとも……。  


 知聖は思い浮かんだ考えを否定するように頭を左右に振り、ニヤニヤと楽しそうにこちらを見ている八坂を睨みつける。


「らしくない、その言葉はそっくりそのまま返すわ。佐藤先輩にそこまで入れ込むなんてらしくない」


 八坂だって、別れないでほしいとなんて頼み込むなんて今までの彼ならばしなかったことだろう。彼はいつも振る側だったはずだ。

 八坂は痛いところを突かれたように顔をしかめると、自嘲するように笑った。


「はは、それはそうかもね。正直、僕がここまで粘着質な奴だなんて、自分でも驚いたよ」

「……その言葉も、そっくりそのまま返すわ」


 八坂はキョトンとした表情で知聖の言葉の意味を少し考えるように黙った後、今日一番の笑い声をあげた。




「おっはよー!」


 玄関を開けると元気いっぱいな明莉の姿に、健は頭を抱える。


「はぁ……明莉、ウチには来るなって何回も…」


 言ってるだろう、そう言おうとしたのだが、明莉はビシッとに敬礼をして、言葉を続けた。


「その点はダイジョーブです! ちゃんと許可もらってきたから!」


 健は彼女の言っている意味が理解出来ず、健は首を傾げる。


「うん? 誰になんの許可を貰ったって?」 

「だから、毎朝ケンの家に朝ごはん食べに来ることの許可をもらったの! 八坂先輩にちゃあんと説明して、行ってもいいって言われたの!」


 なるほど、彼氏である八坂に、他の男の家に通う事を許可を得たということか。であれば、こちらとしても何も言うことは無い。前と同じように朝ごはんは明莉の分も準備して……


「ってそんなわけあるかぁ!!」


 健の大声に、明莉はギュッと目をつむって耳を塞ぐ。


「いきなりなにー? 声大きいよ」

「いや、大きくもなるよ! 八坂先輩にちゃんと説明したのか!? もし仮に八坂先輩がOKを出していたとしても、それはただの優しさで、本心では絶対に嫌がってるぞ!」


 健の言葉に、明莉は嫌そうな顔をしてひらひらと手を振って答える。


「その辺も話はついてるよー」

「適当な嘘をついたって無駄だぞ。俺は八坂先輩と連絡先を交換してるんだ。ちょっとまって、今本人に確認するから」


 そう言いつつ八坂にメッセージで確認を取るためにスマホを開くと、八坂から既にメッセージが届いていることに気付く。


『最近明莉が元気なかった理由が分かったんだ。健君と疎遠になりかけてることが原因だったらしいんだ。僕の事を考えて遠ざけてくれていたのかもしれないけど、どうか僕のことは気にせず今まで通り明莉と接してあげてほしい。』


 ……八坂先輩、心が広すぎる。


 自分の感情よりも、相手の気持ちを優先するなど簡単にできることではない。


 今まで彼氏である八坂に気を使い、明莉が家に来ることを拒んでいたが、その八坂が気にしないと言っているのであれば、明莉を家に入れてあげた方が良いのだろうか。

 健がどう対応すべきか考えこんでいると、明莉が健のスマホを覗き込んで、驚いたような声をあげる。


「え? ケンいつの間に八坂先輩と連絡先交換するほど仲良くなったの!?」

「おい、人のスマホ勝手に覗くんじゃない。まぁ、ちょっと色々あったんだよ」


 健は、明莉から八坂からのメッセージが見えない様にスマホの画面の角度を調整しながら曖昧に答えた。八坂から明莉のことについて相談されていたことは特に話す必要もないだろう。

 すると明莉はムッツリとした表情を浮かべ、一歩引いて距離を取った。


「んー、というかさ……ケンは八坂先輩に、思うこととか、ないの?」

「思うこと? うーん……完璧な人だなぁ…とか?」


 見た目よし、頭よし、運動神経もよし、性格も自分よりも恋人のことを優先して考えられる程優しい。よくよく考えると本当に欠点の一つもない。男として嫉妬してしまいそうだ。

 しかし明莉は健の回答に不満があったようで、前かがみになって身を乗り出し健を睨みつける。


「そうじゃなくて!」明莉はそう強く言った後、言おうかどうか迷っているようにもじもじとした様子で健を上目遣いで見てくる。「だってさ、私の…彼氏、なんだよ?」


 明莉の彼氏……少し前だったらその言葉は、健の心に重くのしかかっていただろう。


 しかし今は不思議と、すんなりと受け入れることができた。時間が解決してくれた、ということなのだろうか。それともその言葉を聞いた時、一瞬脳裏に浮かんだ彼女のおかげだろうか。

 健は明莉の頭に手をぽんと乗せ、数か月前に言えなかったことを笑顔で伝える。


「明莉、おめでとう。いい彼氏見つけたね」


 この言葉に嘘はなかった。やっと友達の幸せを心から祝うことできたのだ。健はずっと心の中につっかえていたものが取れたような感覚を覚える。


 数か月もかけて苦労して伝えた言葉だったが、なぜか明莉はムスッと納得いってなさそうな表情で「…ふん、ありがとね!」と言うと、健を押しのけて家の中へと上がっていく。


 「お、おい」健は反射的に止めようと手を伸ばしかけるが、先ほどの八坂からのメッセージを思い出し、その手を引っ込める。健が明莉を拒み、彼女を落ち込ませていることによって、八坂をより心配させてしまっているのかもしれない。そう考えたのだ。


「まぁ、俺も明莉のいない朝食は寂しかったし、別にいいか」


 健はそう呟いて、いつも通り適当に脱ぎ散らかされた明莉の靴を揃えてあげる。

 そして顔をあげると、明莉がリビングへとつながるドアノブに手をかけたところで、首だけ振り返り健をじっと見つめていた。明莉は目を丸くして、嬉しそうににんまりと口角が上げていた。驚きと嬉しさが半々といった感情だろうか。


 どうやら、今の呟きを聞かれてしまったようだ。

 明莉は健の近くに素早く寄ってくると、爛々とした瞳で健に質問をぶつける。


「えー? 何何? 私がいなくてケン寂しかったの?」

「あーもーうるさいうるさい! 戻ってこなくていいから早く中に入ってくれ!」


 健のそういうと、明莉は楽しそうに「あはは」と笑い、再びリビングの方へ走っていく。

 そして、ドアの手前でくるりと勢いよく振り返り、満面の笑みとともに高らかに言葉を続ける。


「健はまだ気づいてないみたいだけど、絶対に私と同じ目に……じゃなくて、絶対にもっと早く気付くべきだったと後悔することになるよ! ……後悔したら早めに教えてね、私もそれまでに色々と準備しておくから!」


 そんな謎の宣言と、意味が理解できずに首を傾げる健を残して、明莉はリビングへ元気な挨拶とともに入っていった。


 


「こんにちは」

 昼下がり、健はもう見慣れた旧校舎のベンチで、優雅に腰を掛けて読書をしている知聖に声をかける。

 知聖は、健に気付くといつも通り本を閉じ、横に小さくずれ、健が座れるスペースを作ってくれる。

 健が腰を下ろすと、触れ合っている彼女の肩に、健は少し緊張する。最近距離が近いこと、知聖は気づいているのだろうか。傍から見ればカップルの距離感だろう。しかし、彼女が作ってくれるスペースが心なしか小さいため、触れざるを得ない。

 指摘すると離れてしまいそうなので、健は気付かないふりをしていた。


「こんにちは、今日は何かしら?」


 既に常套句になっているその言葉に、健はお弁当を渡しながら答える。


「今日は唐揚げだよ。ご飯に近い位置にあるのが塩麴、遠い方が醤油味」


 メインの唐揚げ四つに、レタスとプチトマトのサラダ、卵焼きの王道のラインナップだ。

 知聖はお弁当箱を開けると、早速塩麴の唐揚げを口に入れる。お弁当の唐揚げであるため、揚げたての様なサクサク感ではなく、柔らかい鶏のもも肉と皮の食感とうまみを閉じ込めるために片栗粉より小麦粉を多めに使用している。知聖は軽く頷きながら咀嚼し、ご飯も一緒に口に運ぶ。


 知聖は、次に醤油味の唐揚げの方に手を付ける。

 瞬間、知聖の頬が緩み、ぱぁっと頭の上にお花が飛ぶ。

 一つ、二つ……九つといったところか。

 すぐさま健はメモを取り出し、急いでメモを取る。


 『知聖さん 〇唐揚げ(塩麴):悪くはないが微妙。花ゼロ、六十五点。〇唐揚げ(醤油):こっちの方が好き。花九つ、九十点』


 塩麴より醤油味の方がお気に召したようだ。やはりみりん等の甘味を混ぜたからだろうか。

 メモを書いた後、書いたメモを分析していると、不審な動きをしている健に気付いた知聖にメモをかすめ取られてしまった。

 健は慌てて手を伸ばすが、知聖は届かない様に健から遠ざけるように手を伸ばしながらメモを読み、眉を顰めた。


「健、あなたこんなものつけてたの? しかもこの点数……あなた、人の心でも読めるのかしら?」


 おそらく、健の書いた点数が的を射ていたのであろう、知聖は少し気味悪そうに健を見てきた。


「いやー、あははやだな……これは俺が個人的に採点したものだよ」


 健は苦笑いして誤魔化す。

 知聖の表情が読み取りやすい、とは言わないでおきたい。もしかしたら今後注意して表情を隠す様になってしまうかもしれない。そうなっては点数をつけられなくなってしまう。


「メモの冒頭に私の名前が書いてあるけれど?」


 しまった。言い逃れできない証拠が出てきてしまった。

 健が必死になって言い訳を考えていると、知聖が畳みかけるように質問を投げかけてくる。


「というか、この花って何かしら? ゼロとか九つとか書いてあるけれど……」

「あー、いや、な、なんだろうねー? 感覚的な指標……? ほら、星五つ……みたいな感じ?」

「なら星九つでいいじゃない……なんで花なの?」

 

 あなたの頭上に飛んでいるからです、とは言えない。

 遂に追いつめられてしまった。何も言い訳が思いつかない。

 知聖は、目を泳がせている健に呆れたような視線を向けた後、ため息をついてメモを健の膝にポンと置いて返した。


「ま、いいわ。それだけお弁当の内容を考えてくれてたってことだしね。仕事熱心なのはいいことだわ。」


 どうやら健のやる気に免じてそれ以上の追及を諦めてくれるようだ。

 健は、今まで通りニコニコと食べ進める知聖の姿を横目で確認し、安心したようにホッと息をついた後、自分のお弁当へと意識を戻した。



 お弁当を食べ終わると、知聖は思い出したかのように口を開いた。


「そういえば、卵焼きの味、最初の頃と比べて変わったわよね?」


 知聖に言われて、気付く。そう言えば前は明莉の好みに合わせるために塩で味付けをしていたが、今は砂糖で甘めに作っている。


「うん、実はそうなんだ。知聖さんは甘い方が好きかなって思って。もしかして……今の味付け苦手? 前の塩味の方がよかった…?」


 恐る恐るそう聞くと、知聖は嬉しそうにニコッと笑い、健の目を真っすぐに見据えて口を開く。


「ううん、好きよ」


 その瞬間、健の脳のCPUが振りきれた。


「え……あ……その…」


 何を言っていいのか分からず、言葉にならない声を漏らしてしまう

 真っ白になる頭に反して、顔が真っ赤になって熱を帯びていく。

 分かっている、ただ主語が抜けただけ。彼女は卵焼きの話をしているだけだ。

 しかし、その頬をやや染めた嬉しそうな微笑みと、瞳の奥に窺える真剣さによって、それはとんでもない破壊力を持った言葉になってしまっていた。

 知聖は、急に挙動不審になった健の様子にぽかんとした表情を浮かべた後、すぐに自分の犯したミスに気付いたのか、慌てたように言葉を付け足した。


「い、今のは甘い味つけの方が好きってことよ? 卵焼きの話!」

「分かってる、分かってるよ」


 健は顔を合わせていられず、そっぽを向く。

 知聖は、なにかを閃いたような顔をすると、グイグイと肩を寄せてきて、からかう様に追い打ちをかけてくる。


「あれー? 一体健は何のことだと思ったのか、教えてくれないかしら? 卵焼き話以外になにがあるのかしら?」


 う……俺のことを好きだと聞こえたなど口が裂けても言えない……。

 横目でチラリと知聖の表情を伺うと、ニヨニヨと意地の悪い笑みを浮かべ、いじめっ子モードに入っているようだ。

 いつもいつもやられっぱなしでちょっと悔しい……ちょっとやり返してみるか。

 そう思った健は、知聖の両肩を掴み、正面から彼女の目を見つめる。


「……へ……な、何急に?」


 驚く知聖をよそに、健は間髪を入れずに言葉を続ける。


「俺も、好きだったから!」


 その言葉に知聖は目を丸くして、口をポカンと半開きにした。世にも珍しい知聖のアホ面だ。

 知聖はそのまま数秒動かなくなり、健が失敗したかと不安になってきた頃、瞬間湯沸かし器のごとく顔が真っ赤になり、目を泳がせる。

 掴んでいる肩もガッチガチにこわばったため、彼女の動揺が文字通り手に取るようにわかった。


「な…何をいきなり…急に、そ、そんなこと言われても……」


 健は知聖の耳もとに顔を寄せると、知聖は「あっ」と短い悲鳴をあげる。

 そして、耳元にそっと呟いた。


「甘い卵焼きの方がね」


 健がそう言った瞬間、知聖の肩から力がふっと抜けたのが分かった。

 健は彼女の肩から手を放し、堪えきれずお腹を抱えて笑い出す。


「ははは、知聖さんがこんなに取り乱すところなんて初めて見たよ。あははははは」


 健が笑っていると、ひゅっと知聖の手が伸びてきて、健の胸倉を掴んできた。

 ぐいと引き寄せられ、健の胸の位置に知聖の顔が来た。知聖はじとーっと健を睨んでいる。


「あは……は……」


 健の笑いは知聖の表情を見て、引きつった笑みへと変わっていく。

 知聖が口を開きかけたところを見て、健は罵倒が飛んでくると身構える。


「私も、好き!」


 彼女が更にやり返してくるとは思わなかった。

 想定外の追撃に健の心臓は爆発しそうなほど鳴り響き、顔から火が出そうなほど熱くなる。

 というか、追撃を仕掛けてきている知聖自身まで顔を真っ赤になっている。そこまでしてやり返してくるなんて、知聖はどれだけ負けず嫌いなんだ。


 この遊びは本当に良くない。こういうのは友達ではなく、恋人同士でやるものだ。

 やり返した自分も悪かったが、今度知聖にはこういった悪ノリは辞めようと進言しよう。

 そう考えつつも、いつかそう言われるのが、卵焼きだけじゃなくて自分になればいいなと、そう思ってしまった。












 ――――――

お読みいただきありがとうございました。

ここまでで第一部が終了となります。


第二部は現在作成中で、2024年中には投稿を再開できるように動いております。

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幼馴染に彼氏ができたため、別の娘にお弁当を作ってあげていたら、幼馴染の様子がおかしくなった くりきんとん @kurikinton123

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