第9話
「ケン、こんなところにいたんだね。」
健のことをケンと呼ぶ人など一人しかいない。
ゆっくりと顔を上げ、声が聞こえた方向を確認すると、予感していた通り明莉がいた。
眉を下げ、唇をきつく結んでおり、その表情には怒りが垣間見える。
「な……なんで明莉がここに?」
色々とあったが、結局明莉には旧校舎で昼食を取っていることを教えなかったはずだ。なのになぜ、彼女がここにいるのか。
明莉は少し肩を上下させ、肌寒い季節にもかかわらず少し汗をかいているように見えた。まさかとは思うが、健のことを走って探し回っていたのだろうか。
明莉は健の質問を無視して、ズンズンと大股で健達の前まで歩いて来ると、じろりと知聖の事をみる。
「……知聖ちゃん……だったんだね、健の新しくできた友達って」
名前を呼ばれた知聖は、表情を変えずに返答をした。
「お久しぶりです、佐藤先輩」
健の理解が追い付かない。
突然の明莉の登場。そして、健が紹介していないにもかかわらず、お互いに面識があったように見える二人の態度から見るに、元々知り合いだったように思える。
健は何か二人に接点があったのだろうかと考えるが、共通点が全く浮かばない。
健が情報を整理していると、明莉の視線が健へと戻ってきた。
「まぁ、それは一旦いい。ケン、色々聞きたいんだけど、ちょっと顔貸してくんない?」
明莉は親指で学校の校舎を指し、ドスを利かせた声でそういった。呼び出し方もヤンキーのそれになっている。
断ったら余計に怒らせることになりそうだったため、健が大人しく腰をあげようとすると、知聖が声をあげた。
「ちょっと待ってください、今健は私と一緒に昼食を食べているんです。それが終わった後じゃダメですか?」
知聖の言葉に、明莉には眉をピクリと動かす。
そして、片頬をひくひくと引きつらせながら、引きつった笑顔を知聖に目を向ける。
「た、たけるって……知聖ちゃん、一応私たちは先輩だよ? 塩野先輩、とか呼んだ方がいいんじゃないかな?」
明莉の様子は得も言われぬ迫力があり、健は背筋が凍るようだったが、知聖は憮然とした態度で言い返す。
「『健』は私と佐藤先輩のように同じサークルだったってわけでもありませんし、特に上下関係とか意識する必要はないかと。『健』からそう呼んでほしいって言われましたし」
知聖は、やけに健の名前を強調しながらそう言った。
知聖と明莉と同じテニスサークルに入っていたのか。本が好きで運動のイメージは全くなかったため意外だ。
同じサークルだった、という事なら二人が知り合いなのも納得ではあるが、この二人を取り巻く殺伐とした雰囲気は何だろうか。
知聖の言葉に、明莉が真偽を確認するように健のことを睨んできた。
健は彼女の迫力に気圧されつつも、何とか答える。
「う、うん、確かに俺から知聖さんにそう呼んでくれるように頼んだんだ。別に、俺が気にしなきゃ呼び方なんてどうでもいいんじゃない……?」
すると明莉は頭を抱え、頭を左右に振って困惑するようにつぶやく。
「ケンの方が知聖ちゃんを『さん』づけ……いったいどんな関係なんだよこの二人は……」
明莉は、健と知聖の関係に困惑しているようだ。
考えてみればそれも当然かもしれない。
健と知聖では接点が全くない。
それこそ偶然塩野食堂の前でお腹を空かした知聖にいなければ……明莉に受け取り拒否されて余ったお弁当がなければ、この奇妙なお弁当お届けサービスの契約関係は生まれなかっただろう。
明莉はしばらく迷っているような様子を見せていたが、諦めたようにため息をついた。
「じゃあ分かった、ここで聞くよ」明莉は覚悟を決めたようにそう言うと、健と知聖を交互に見て、少し不安そうに口を開く。「その……もしかして、二人は付き合って……たり?」
健は思わず吹き出してしまった。確かに昼食をこんな人気のないところで二人きりで食べていれば、そう勘違いされてもしょうがない。
すぐに否定しようと口を開きかけたところ、知聖が健の前に手を置いて制し、代わりに明莉の質問に答えた。
「もし、私と健が付き合ってたとしたら、それを佐藤先輩に言う必要はあるのでしょうか?」
「「なっ……!!」」
健と明莉は同時に驚愕に目を見開く。
突然何を言い出すのか。健が否定しようとするが、それよりも先に知聖は言葉を続ける。
「だって佐藤先輩も健に言ってなかったじゃないですか、八坂先輩と付き合ったこと」
健は知聖の言葉が理解できずに困惑する。
八坂先輩と付き合い始めたことを、健に言っていなかった……?
知聖は何を言っているのだろうか。間違いなく健は明莉の口から聞いており、その一件については知聖にも説明したはずだ。
健は知聖の言葉を訂正するために口を開く。
「知聖さん、明莉と八坂先輩が付き合い始めたことについては先月話した通り、明莉の口から直接聞いたよ?」
「あのね健、佐藤先輩と八坂先輩が付き合い始めたのって私が入学してから間もない頃よ。佐藤先輩はあなたに訊かれるまでずっとそのことを黙っていたの」
知聖の言葉に、健は明莉の表情を見ると、明莉は痛いところを突かれたように顔を歪ませていた。
健が明莉と八坂先輩が付き合っていることを知ったのは、つい先月のことである。もし知聖の言うことが本当のことであれば、半年近くもの間明莉はそのことを健に黙っていたということだ。
「そ、そうなのか明莉?」
「そ…それは……!」
明莉は、健の問いにも俯いたまま答えてくれない。
もしこれが本当のことだとしたら、明莉の行動に違和感を覚える。彼女の性格であれば、彼氏ができたとしたらすぐに自慢してきそうなものだ。半年も黙っているなんて考えられない。
数秒の沈黙の後、知聖が目を細めて鋭く言い放つ。
「保険、ってところかしら?」
「ち、違う!!!」
明莉は、急に大声を出して知聖の言葉を否定した。
保険……健にはなんのこと言っているのか分からなかったが、明莉はその言葉に強く反応したように見えた。
明莉は、自分の服の裾を強く掴みながら、知聖を睨んで言葉を続ける。
「……酷いよ知聖ちゃん、そんなこと言うなんて……!」
「……」
しかし知聖も負けておらず、無言で睨み返している。
地獄のような空気になってしまったが、『保険』という言葉の意味が分からず、なぜ明莉がそこまで怒っているのかも理解できない健には、どう仲裁に入ったらよいかもわからない。
ピピピピ、ピピピピ
その時、健のスマホが鳴った。三限が始まる十分前にセットしているアラームだ。楽しい昼食の終わりを告げる忌々しいアラームだが、今日だけは救いの鐘の音に聞こえた。
知聖は無言で明莉から目を話すと、いつの間にか平らげていたお弁当を健に渡し、荷物をまとめて腰を上げる。
「じゃ、私は三限があるからもう行くわ。健、今日もご馳走様。」
「は、はい……。お粗末様です……」
知聖は何事もなかったようにそれだけ言って立ち去って行った。
知聖が立ち去った後、明莉は俯いたままぶつぶつと何かを呟きだした。健は心配になって声をかける。
「……えっと、明莉? 大丈夫か?」
しかし健の言葉が届いていないのか、明莉は俯いたまま遠い目をして何かを呟いている。
「……知聖ちゃんはダメだよ……絶対ダメ……だって知聖ちゃんは……。」
だめだ、健の言葉は何も聞こえていないようだ。
健はため息をつき、明莉に声をかけるのを諦め、食べかけのお弁当をしまい、荷物をまとめて腰を上げる。
そして明莉とすれ違い際に、重要なことを思い出し、明莉に声をかける。
「あ、そうだ。知聖さんとは付き合ってないから、変な噂とか流さないでね」
これだけは言っておかないと、知聖さんに迷惑をかけてしまう可能性があった。
すると、この言葉は届いたようで、明莉は健の両肩を掴んで揺らしてきた。
「ほ、本当に!? それ嘘じゃないよね!?」
鬼気迫る彼女の迫力に健はたじろぎながら答える。
「あ、あぁ本当だよ。だからこれ以上知聖さんに迷惑をかけるのだけはやめて欲しい。それと……もうここには来ないで。今日は本当に……嫌だった。」
後半は怒気を含んだ声で言った。そして明莉の顔を見ないようにして彼女の手を振り払い、三限の授業へと駆け足で向かった。
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