第8話

 ひんやりと冷たい風が、薄手の長袖シャツを貫通してくる。

 時刻は朝の7時半過ぎ、普段通りであれば、朝食を食べている時間だ。健はこんな朝早くに外に出ることもないため、もっと厚着すればよかったと後悔する。

 校門は空いていたが、大学の校舎の中にはまだ入れないようで、健は適当なベンチに腰を下ろし、本を読んで授業までの時間を潰していた。

 早く家を出たのには理由がある。


『明莉、もう……うちには来ないでほしい。』


 昨日、健は意を決し、明莉との関係を変えるために一歩を踏み出した。

 しかし、明莉の反応を見る限り、健の言葉を本気にしていないように見えた。おそらくあの調子では今日、また家に来るように思えた。

 そのため、いつもより一時間早起きし、彼女が家に来るよりも先に、学校に来たというわけだ。これで彼女も健が本気であると気付くはずである。

 朝早すぎて校舎も空いていないため、この寒空の下、知聖に勧められた本を読みながら授業までの時間を潰していた。


 健は普段あまり本を読まないが、知聖に勧められた本『すれ違い』は存外に面白く、いつの間にか寒さと時間を忘れ読み耽っていた。

 本の中の設定、主人公とメインヒロインの子は幼馴染という設定で、なんとなく自己投影できてしまうのが熱中してしまう理由かもしれない。

 まぁ、実はお互いに想い合っているという設定もあり、そこは健達とかけ離れているのだが。

 半分ほど読み終えたところで、突然近くから男性の声がした。


「ケン君、だよね?」


 本に集中していた健は人が近づいてきていることにも気付かず、驚いて顔をあげると、ジャージの上にウィンドブレーカーを着ている八坂が立っていた。テニスラケットのケースを担いでおり、サークルの朝練できているのが窺えた。

 数秒間をおいて、『ケン』というのは自分のことを指していることに気付き、慌てて挨拶をする。


「…あ、ケン、っていうのはあいつが勝手につけた愛称みたいなもので、たけるって言います。塩野健です」

「あ、そうなんだ、ごめんね。健君」八坂は軽く笑って、健の隣に腰を下ろした。「三浦幸喜の本かい?」


 三浦幸喜というのは、今読んでいる小説『すれ違い』の著者だ。


「知ってるんですか?」

「うん、その本は読んだことないけど、三浦幸喜の本は僕も昔友達に勧められて読んだよ。ま、半分くらいで挫折しちゃったけどね。あはは」


 八坂の眩しいくらいの笑顔に、思わず背筋が伸びる。

 健は今まで八坂の様な体育会系の友達はできたことがないため、彼のようなタイプの人と話すのは正直得意ではない。何故か緊張してしまう。

 そんな気持ちが健の顔に出ていたのか、八坂は申し訳なさそうな表情をする。


「邪魔してごめんね。でも健君と話したいことがあるんだ。すぐ終わるからさ」


 健と八坂の共通の話題など、明莉のことしかない。もしかして、先日の明莉と一緒に登校したことも含めて、健と明莉の距離が近すぎることについての話だろうか。

 やはり彼氏からすると、幼馴染とはいえ他の男と一緒にいるのは面白くないはずだ。

 健は怒られるのを覚悟で身構える。


「明莉がさ、最近元気ないんだ。君は何か知らないか?」

「……元気がない……ですか?」

「ああ、正確に言うと一、二週間前からなんだけどさ、ボーとしてることが増えたというか……表情が暗いというか……ほら、健君の方が付き合い長いだろう? もし原因が分かれば、何か力になってあげられるかもしれないし、何か知ってたら教えてほしいんだけど……」


 てっきり返答次第では殴られたりするような内容かも、と身構えていたため、健は拍子抜けした。

 二週間前と言うと、丁度健と明莉が喧嘩した日だ。

 明莉自身も、健と喧嘩していた期間は寂しかったと昨日言っていたため、十中八九彼女が落ち込んでいた原因は健との喧嘩であろう。

 しかし、果たしてそれを健の口から八坂に伝えても良いのだろうか。少し想像してみる。


 明莉のやつ、俺と喧嘩して落ち込んでたみたいっすけど、もう仲直りしたんで大丈夫っすよ。心配かけてすんません。


 ……いやいやいや! 言えるわけがない!

 そんなことを口にしたら、本当に殴られてしまっても文句は言えない。


「……あいつに直接聞いてみたらどうです?」


 少し考えた結果、健は明莉に任せることにした。

 明莉は気に入らないことがあると、遠慮なく口にするタイプである。

 直接聞けば答えてくれると思ったのだ。健がそう聞くと、八坂は悲しそうに微笑んだ。


「明莉はさ、こういう時自分一人で抱え込むだろ? きっと僕には何も言ってくれないよ……。」


 健から見る明莉は、そんな印象は一切なかった。

 彼女は言いたいことはズバズバいうし、嫌なことがあれば愚痴をこぼすように何でも健に話してくる。

 それはおそらく、健には見せない……本当に好きな相手だからこそ見せる一面なのだろう。きっと、八坂には余計な心配かけたくないという気持ちがあるのだ。


「すみません、心当たりはありません……」


 健は沈んだ気持ちが顔に出ないようにしてそう返した。

 健の言葉に、「そうか…」といって八坂は残念そうに視線を落とす。

 その表情から、八坂は明莉のことを本気で心配しているように見えた。

 健は頭をフル回転させ、言えないなりにも何か答えてあげられないかを考える。


 今回の事に限らず、明莉だったらどう対応してあげるのが正解なのか。もし自分が明莉の彼氏だったとして、八坂の立場だったらどうするのかーーー


「……やっぱりそういった疑問は、あいつに直接聞いてあげたほうがいい……と思います。八坂先輩は彼女に気を使ってあげて深入りしないようにしてると思うんですが、そういった気づかいは逆に嫌がるかと。変なところで我慢せず、お互いに意見をぶつかり合える関係……きっとそういう関係を望むと思います……あいつなら。」


 健の言葉に、八坂は顔をあげて目を見開く。

 そして、ゆっくりと納得するように頷いた。


「そう……そうだな。うん、確かに明莉なら考えそうだ。」八坂は立ち上がり、手を差し出してくる。「ありがとう。君に相談してよかった。」


 健はためらいつつもその手を取ると、八坂はニカっと笑いかけてくれた。


「あ、そうだ」八坂は何かに気付いたようにそう言って、ポケットからスマホを取り出すと、二次元コードを健に見せる。「連絡先、交換しないか? 相談に乗ってくれたお礼に、今度は僕の方が何かするよ。困ったことがあったら何でも言ってほしい」


 絶対的なヒエラルキーを誇る八坂にそう言われて断れる人などいないだろう。

 健は、慌ててスマホを取り出し、八坂と連絡先を交換した。

 八坂は満足そうに頷き、ベンチから立ち上がると、自分が羽織っているウィンドブレーカーを脱ぎ、健の肩にかけてくれた。柔軟剤のいい香りがふわりと香る。


「その格好、今の時期寒いだろう?」

「いやいや、悪いですよ」

「大丈夫だよ、今から運動して暑くなるんだから丁度いい。返すときは明莉にでも渡してくれればいいからさ」


 八坂のそう言うと、健が言い返す前にきれいなフォームで走り去っていった。

 八坂先輩、信じられない程いい人だった。顔も、性格も、何もかも健とは比べ物にならない。

 本当に、明莉とお似合いだ。

 健がウィンドブレーカーの袖に腕を通すと、八坂のぬくもりが残っており、冷えた体に心地よい。

 危うく健まで惚れてしまいそうだった。

 



 そのまま本を読み耽り、気が付くと時間が十二時前になっていた。本に夢中になって、二限の開始時間をいつの間にか過ぎていたようだ。というかもう授業が終わりかけている時間だ。


「あー、これでこの授業はツーアウトだ……」


 大学の授業は五回以上欠席すると単位を落とす。一応まだセーフではあるが、補講などは行われないため、欠席したらそれだけ授業に遅れることになってしまう。

 自己嫌悪に陥りながらスマホを確認すると、四件メッセージが来ていた。


 一件は佐古から『サボりか?』と一言だけ。宮野からも一件来ており、『大丈夫? いつでも相談乗るから、何かあったら連絡してね。』と来ていた。

 佐古には、宮野さんの優しさを見習ってほしいものだ。たった一回休んだだけで、こんなにも心配してくれるなんて、宮野は本当に優しい子だ。

 健は佐古には適当なスタンプを一つ返し、宮野にはお礼と心配いらない旨を丁寧に返す。


 あとの二通は明莉からで、朝早くに『なんでいないの?』『やっぱり、まだ怒ってるの?』と来ていた。

 やはり明莉は、今朝はうちに寄っていたようだ。今日は朝早く出たのは正解だった。

 健は少し考えた後、明莉へ返信する。


『怒ってるわけじゃなくて、八坂先輩のためにもウチにはもう来ないほうがいい。』


 メッセージを送ると同時にすぐに既読が付いた。おそらくメッセージアプリを丁度開いていたのだろう。

 健は返信が来る前にスマホをしまい、知聖が待っている旧校舎へと走って向かった。




「ふふふふ」


 そう微笑みながら、弁当を食べてくれる知聖を見て、健も自然と頬が緩む。

 普段のしかめっ面とは違い、頬に手を当て、幸せそうな表情をする彼女は、デフォルメ化したらきっと頭の上にお花がポワポワと飛んでいることだろう。

 最近は知聖の好みの味を研究し、全体的にレシピを調整している。

 知聖はお弁当の感想をあまり口にしてくれないが、食べた後の彼女の反応を見れば一目瞭然で、あまり好きでなければ眉間シワが深くなり、好みであれば今のように頭上に花を飛ばす。彼女は口よりも表情の方が素直なのだ。


 彼女は甘めの味付けが好きなようで、砂糖やはちみつといった甘味料を多く入れると反応が良く、彼女のリアクションを見ながら味を調整していた。

 今日のお弁当の反応が上々だったことにほっとした健が、自分の弁当を食べ始めると、知聖は適当な話題を探すようにして話しかけてきた。


「そういえば、私が貸した小説、読んでくれたかしら?」


 健は口の中のものを飲み込んでから答える。


「うん、今は主人公がサブヒロインの子とくっつきそうになっているシーンに、精神的なダメージを負っているところ」


 元々主人公と幼馴染のメインヒロインは両想いなのだが、メインヒロインの子が自分の気持ちに気付いておらず、サブヒロインの子に取られてしまいそうな展開となっている。

 健がそういうと、知聖は眉を上げ、意外そうな顔をする。


「え? もうそこまで読んだの? もう終盤じゃない。」

「うん、普段小説なんて読まないんだけど、読んでみたら面白いものなんだね。読んでる途中に時計を確認する度にタイムスリップしたように時間が過ぎてて、びっくりしたよ」

「あー、それは分かるわ。気が付いたら予定してた時間を過ぎてて、スケジュールが崩れちゃう、みたいなね」

「そうそうそう、おかげ様でまた今日の二限もすっぽかして……」


 健がそこまで口にしたところで、知聖から漂ってくる空気が不穏なものへと変わった。

 恐る恐る彼女の顔色を窺うと、その表情は笑顔だったが、細められた目の奥が笑っていなかった。


「健、あなたまた授業をサボったのね?」


 怖い。彼女の口調は怒気を含んだものでは無かったが、鋭い眼光が健に刺さる。


「わ、わざとじゃなくてね…? ついうっかりというか……」


 先日も授業をさぼったことで怒られた時にも思ったが、知聖はこういった規則規律に厳しいところがある。

 健の言い訳にもなっていない言葉に、知聖は呆れたように目を伏せながら、ため息をついた。


「大丈夫、これは本を貸した私の責任でもあるわ。貸した本を出してちょうだい。」


 健は、何をされるのだろうと疑問に思いながらも、知聖に言われた通り恐る恐るカバンから本を取り出す。

 すると知聖は健の手から本をひったくるようにして奪い取った。

 そして、不思議そうな表情をしている健に、知聖は意地の悪い笑みを浮かべた。


「しばらく返してもらうわ。次貸し出すのはいつにしようかしら?」

「え、ちょ、ちょっとまって……! 今クライマックス目前なんだけど?」


 今は丁度別のヒロインとくっついてしまいそうな場面……お預けを食らうにも最悪のタイミングである。

 知聖は、健の言葉を無視して言葉を続ける。


「う~ん、一週間後とかにしようかしら……?」


 知聖の慈悲なき言葉に、健は顔をしかめる。

 一週間もこのもやもやした気分でいないといけないということか……。

 知聖は健の表情を見ながら、罰を与える期間を模索するように言葉を続ける。


「いえ、やっぱり一か月かしら?」


 健の表情が更に暗くなる。一か月は本当に勘弁してほしい。

 いや、待てよ、文庫本なんて千円もかかからず買えるし、自腹で買ってしまえばいいのではないだろうか。


「ちなみに、この本絶版してるから、買おうと思ってもそう簡単には手に入らないわよ?」


 まるで健の思考を読んだかのような言葉に、健の表情が絶望に染まった。

 すると知聖は、いきなりお腹を抱えて笑いだした。


「ふふっ……あはははは。健、あなた凄い顔してるわよ?」


 健は珍しく快活に笑う彼女に、思わず目を奪われてしまう。やはり笑った時の知聖は、とても魅力的だ。

 いつもはややきつい印象を与える釣り目がちな瞳も、笑っているときは柔和でかわいい印象に変わる。大きく開けた口元を隠すように手で押さえる姿は、上品さも忘れてはいない。

 笑われているのは自分だというのに、そんなことも忘れて見惚てしまう。


 しばらくして我に返った健は、思い出したかのように口を引き結び、悔し気な表情を作った。


「……そう思うなら、もう少し期間にご容赦をいただけないでしょうか……?」


 正直、もう小説のこと等どうでもよくなっていたが、健はあえて食い下がった。

 できるだけ長く、彼女のこの笑顔を見たかった。あわよくば、もっと笑ってほしい。

 そのために道化を演じることなど安いものだ。


「ふふふ、ま、期間については検討しておくわ」


 彼女は珍しくテンション高く、ウィンクとともにそういった。

 健はその素敵なウィンクに脳天を貫かれ、一瞬頭が真っ白になった。

 知聖はそんな健の様子にも気付かず、会話が一段落したように食事を再開する。

 すると今度は、ポンと人が変わったように幸せそうな表情で頭の上に花を飛ばし始めた。

 初めて会ったときは、鉄仮面のようなイメージがあった彼女だが、今は表情が豊かで素直な印象に変わった。

 それだけ、仲良くなれたという事だろうか。

 そんなことを考えつつ、健も自分の弁当に手を付け始めると、突然聞きなれた声が前方から聞こえてきた。


「ケン、こんなところにいたんだね。」

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