第10話
三限が終わり、健はいつもより少し遅い時間に帰路に着く。
いつもより遅くなってしまったのには理由がある。昼間の一件が頭から離れず、授業を呆然と過ごしてしまったからだ。
授業が終わる直前にふと我に返り、教授に黒板を消さないように頭を下げ、慌てて板書をしていたのだ。
もしこのことが知聖にバレたら、また怒られてしまいそうだ。
そんなことを考えながら、帰路の途中にある公園の横を通り過ぎようとした時、公園から子供の泣き声が聞こえてきた。
健は気になって公園の中を覗いてみると、砂場でしゃがみ込んで泣いている四~五歳くらいの女の子がいた。
健は心配になり、公園の中へと足を踏み入れるが、すぐに女性が駆け寄り、その女の子に声をかけた。
一人いれば十分だろう。
そう思い、引き返そうとしたところで、その見覚えのある女性の後姿に足を止めた。
健はぐるりとサイドに回り、女性の横顔を見ると、考えていた通りその女性は知聖だった。
知聖は珍しく慌てている様子で、ワタワタと手をこまねいている。
「な、泣かないで頂戴。ちょ、ちょっと待ってて、今絆創膏買ってくるから」
そう言って知聖は腰を上げかけるが、女の子に服の裾を掴まれ、「行かないでぇ」とさらに泣かれてしまう。
「わ、分かったわ、どこにもいかないから。はぁ……ええと……どうしようかしら」
知聖は女の子の頭を撫でながら、困った表情を浮かべている。
健は近づき声をかけた。
「知聖さん、どうかしましたか?」
すると知聖は健を見て、ギョッと大きく目を見開く。
「た、健!? こ、これはちがうの、誘拐とかじゃないのよ!? たしかに、かわいいなと思って眺めていたのだけれど、本当にこれはそういうのじゃなくてね!?」
「落ち着いて知聖さん、そんな勘違いはしてない。寧ろその言い訳で疑いの目を向けてしまいそうだよ」
「え、えぇ…?」
健は、困惑して目をぐるぐるとさせている知聖は放っておき、女の子の方に目を向けると、膝から脛にかけて血が滴っているのが見えた。おそらく転んだか何かして足をすりむいてしまったのだろう。
健は女の子をお姫様抱っこで女の子を抱えると、水道まで連れて行き、擦りむいた膝に水を流して洗ってあげる。女の子は染みて痛いだろうが、下唇を噛んでプルプルと震えて耐えていた。
健は「よく耐えた、偉いぞ」と言って頭を撫でてあげ、湿らせたハンカチで彼女の患部をポンポンと拭う。
そして、財布から絆創膏を取り出し、それを貼ってあげた。
簡単な応急処置を終えると、女の子は安心したようにパァと顔をほころばせた。
「わぁ! ありがとう、お兄ちゃんお姉ちゃん!」
女の子は感謝を表すように、知聖の足にギュッとしがみつく。
すると知聖は頬を掻いて「私は何もできなかったけれどね…」と苦笑いをした。
女の子と別れ、知聖と一緒に帰路に戻ったところで、知聖が感心したように口を開いた。
「絆創膏なんてよく持ってたわね? 処置も小慣れてるし……」
「……昔よく怪我をする奴と遊んでた名残だね」
健は、ガキ大将だったころの幼馴染のことを思い出しながらそう答える。
明莉は小学生のころは男勝りで、走り回ったり、木登りしたりと怪我の多い遊びを良くしていた。
中学に入った辺りからは一気に女の子らしくなったため、絆創膏の役目もなくなっていたが、常に財布の中に入れておくようにしていたことが功を奏したようだ。
「ありがとう、助かったわ。正直、泣いているところに声をかけたのはいいものの、小さい子の相手はあまり得意じゃなくて……」
知聖は目を伏せながらそう言った。
責任感の強い知聖のことだ、自分一人でどうにかできなかったことを悔いているのかもしれない。
健はニヤリと笑い、わざと茶化すような口調で声をかける。
「知聖さんが声をかけてあげるなんて意外だね。知聖さんなら、『怪我くらいで泣くな、一人で何とかしろ』ってくらいのスタンスなのかと思ってた」
もちろん冗談だが、知聖のストイックさならありえなくはないと思ってしまう。
すると知聖は口をとがらせ、ムスッとした表情をした。
「失礼ね、私を何だと思っているのかしら。」そう言った後、いたずらを思い付いた子供の様な笑みを浮かべて言葉を続ける。「ついこの間、振られて泣いている男の子にも声をかけてあげたのよ?」
まさかのカウンターが飛んできた。
健は渋い顔をして、明後日の方向を向いて顔を逸らす。
「う……そのことは忘れて……」
今思い出しただけでも恥ずかしさで顔が熱くなる。好きな人に彼氏ができて泣いているところを慰めてもらう等、我が人生の中でも最たる汚点だ。
というかあの時知聖が慰めてくれたのは優しさではなく、お弁当という利益を求めた利害関係という事になっていたはずだ。なのに今更優しさとするのはずるいのではないか。
知聖は、顔を赤くして恥じている様子の健を見てクスクスと笑った。
健は顔を逸らしつつも、彼女の笑い声を聞いて、ホッと胸をなでおろす。
ひとしきり笑った知聖は、唐突に話題を切り替えてきた。
「昼間の事、ごめんなさいね。佐藤先輩を問い詰めるつもりはなかったのだけれど……あなたの涙を見ていた私からすると、彼女の行動が目に余るから、つい口を出してしまったわ」
昼間のことは健も気になっていた。
健は聞こうかどうか逡巡した後、三限の授業中ずっと頭に浮かんでいた疑問を意を決して質問してみる。
「なんで、俺と付き合ってるなんて嘘をついたんですか……?」
健の言葉に、知聖は両眉を上げる。
「だって、むかつくじゃない。」知聖はそうあっけらかんと答えた後、腕を組んで眉間にしわを寄せる。「自分は彼氏を作っておいて、健が他の女性と仲良くすると機嫌を悪くするなんて、都合が良すぎるわ。もし健が他の子と付き合ってたら、彼女がどんな反応をするのか見たかったのよ」
確かにあの時の明莉の様子はおかしかった。
もしかしたら明莉は、健と知聖が仲良くしてるのを見て、知聖に友達を取られたような気分になっていたのかもしれない。
だがそれにしても知聖の言う通り、健が友達と仲良くしているだけで怒るなんて理不尽極まりない。知聖は、そんな明莉の都合のいい考えに怒りを覚え、嘘をついて明莉の様子を見ていたようだ。
「なんだ、そういうことか」
健は、知聖らしいと納得すると同時に、少しがっかりしたような気分になってしまい、思わずそう呟いた。
少しドキドキしていた自分が馬鹿みたいだ。
すると、知聖が眉を顰めて怪訝な表情をしたため、健は慌てて話題を逸らす。
「そ、そういえば、『保険』っていうのはどういう意味だったの?」
明莉はその言葉を強く否定していた。
あれから何度も会話の流れを思い返して意味をよく考えたが、健にはさっぱりわからなかった。
知聖は少し考えるように顎に手を置きながら口を開く。
「……やっぱり、何も考えてない人だと、意味が分からないわよね?」
「知聖さん? 何も考えてないって……もしかして俺のことバカにしてる?」
「へ? ああ、違うわ。もちろんいい意味でよ? いい意味で。」
「『何も考えてない人』っていうのがいい意味になるわけないよね? いい意味って言えば何でも済むと思ったら大間違いだよ?」
「あら、そんなことないわ。例えば……そうね、人間関係とか複雑なものに悩んだ時、あまり複雑に物事を考えない単純な意見に助けられることとかあるじゃない?」
「……確かにそれはありますね。」
人間、複雑に考えすぎて行動に移せなくなってしまうことがある。
例えば電車で席を譲る時、老人扱いしていると思われるかもと考えてしまったり、周りの目を気にしたりして躊躇ってしまうものだ。だがそれは考えすぎで、ほとんどの人は受ける善意に悪い気はしないし、周りは気にも留めていない。何も考えずに行動してしまえる方が良い場合もあるだろう。
「そうそう、馬鹿の方が助かる時があるのよ」
「ついに馬鹿って言っちゃったね! やっぱり馬鹿にはしてたんだね!」
例え話を出してまで長々と擁護していた時間を返してほしい。
知聖は「冗談よ」といって楽しそうにクスクスと静かに笑った後、穏やかな口調で言葉を続ける。
「あなたが理解できないのは、佐藤先輩を穿った見方をしてないから。信頼しているからといってもいい。素直なのは健のいいところだと私は思うわ」
褒められているのか、それとも呆れられているのか微妙なラインで反応に困る。
「逆に、佐藤先輩が私の言った意図をすぐ理解してたところをみると、口では否定はしていても、きっと心のどこかで思っていたことだったってことだけれどね」
「え? それってどういう…?」
「いえ、なんでもないわ」
知聖はこれ以上答える気はない、という様にフイと顔を逸らした。
その後しばらく待っても返答はなかったため、健はそれ以上の質問は諦め、健はもう一つ気になっていたことを知聖に聞くことにした。
「そういえば、知聖さんってテニスサークル入ってたんだね。」
知聖は思い出したかのように答える。
「あぁ、一応中学生のころからやっていたからね」
「知聖さんがテニスしているところ、見てみたいなぁ。試合とかないの?」
イメージにはなかったが、綺麗な黒髪をなびかせてコートを駆ける知聖は、想像するだけで画になる気がしたため、是非お目にかかりたい。
「ないわね。もう退会したもの」
しかし知聖にそうそっけなく答えられる。
「え? どうして?」
「まぁ大した話じゃないのだけれどね。サークル内の人間関係で…ちょっとね」
「あー、なるほど」
健は得心がいったようにうんうんと頷く。
確かに知聖の性格じゃ、運動部特有の上下関係は厳しそうだと妙に納得してしまった。気が強く自分を曲げない彼女は、かわいがられる後輩にはなれないだろう。
すると知聖は不服そうに眉を顰めた。
「……健、あなた今失礼なこと考えなかったかしら?」
「い、いや、そんなことは…」
「言っておくけどね、私は目上の人には敬語は使えるし、中高でも部活の人間関係で困ったことは無かったわ」
そう言われ考えてみると、健の父に会った時は、つつがなく敬語を使えていた。昼の明莉相手でもそうだった。
「あれ、でもそしたらなんで俺の時はあんなに当たりが強かったんだ?」
知聖に初対面でガンつけられ、学食の生姜焼き定食を押し付けられたのが記憶に新しい。
考えてみれば、彼女が初対面から敬意を払っていなかったのは健に対してのみだ。
そう考えた健が微妙な表情を浮かべていると、知聖が面倒くさそうに口を開く。
「あの時はじろじろ見てくるからナンパかと思ったのよ、健が先輩だなんて知らなかったし」
知聖はそういった後、健の行く手を阻むように健の前に立ち、揶揄うのようにタケルを見上げた。
「それとも、今からでも呼び方変えましょうか? 健せ・ん・ぱ・い?」
そのあまりにも甘美な響きに、健の脳がフリーズした。
その声は本当に彼女の口から発せられているのかと疑わしくなるほど可愛いらしい声であり、そのような声で先輩呼びをされては、新しい扉を開きそうになる。
驚愕に口をパクパクとさせている健を見て、知聖は噴き出した。
「プッ…あははは、冗談よ。そんな奇妙なものを見るような顔はしないで頂戴。自分だってこういうのは似合わないってわかってるわ。うん、やっぱり健は健の方がしっくりくるわね」
知聖はそう言って、くるりと振り返って歩みを進める。
奇妙なもの? とんでもない。あまりの破壊力(かわいさ)に、頭がショートしていただけだ。
是非また先輩と呼んで欲しい。
とは思ったが、ここでわざわざ引き留めて呼び方を変えてもらうのも気持ち悪がられる恐れがあるため、我慢して彼女の後ろをついていく。
そうこうしているうちに、健の家が見えてきた。
楽しい知聖との時間もここまでかと少し残念な気持ちでいると、向かい側の道から麻由の姿が見えた。
「あ、知聖ちゃん、やっほーーー」
麻由は健達に気付くと、兄である健よりも先に知聖に反応し、駆け寄ってきた。
知聖は口角を軽く上げて麻由に答える。
「こんにちは、麻由ちゃん。少し早い様だけれど、今学校帰りなのかしら?」
「うん、そうそう。私帰宅部だから早いんだー」麻由はそう答えた後、知聖の腕を取ってぐいぐいと家の方に引っ張る。「そんな事より知聖ちゃん、うち寄っていきなよ。こないだ新しいコンボ見つけたから、相手が欲しかったんだ」
我が妹ながらナイスアシストだ。健は麻由の言葉に乗っかって知聖を誘う。
「是非そうしなよ知聖さん。今日は俺も参加させてもらおうかな」
先日は生姜焼きづくりに追われてゲーム参加できなかったから、健も知聖とゲームをしたいと思っていたのだ。
健の言葉に麻由が嫌そうな顔をする。
「えー、兄貴もやんの?」
「うん? どうした麻由? 負けるのが怖いのか?」
健の明らかな挑発に麻由は大きく舌打ちすると、健を無視して視線を知聖へと戻す。
「ま、兄貴は放っておいて、お願い知聖ちゃん! 少しだけでもいいからさ!」
両手をあわせ、深々と頭を下げる麻由に、知聖は困ったような笑みを浮かべる。
「えーっと…じゃ、じゃあ少しだけ、お邪魔しようかしら? ほんの少しだけね?」
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