第4話
『…うん、実はね、ついこの間告白されて、付き合い始めたの。』
明莉は一度も見たこともない表情をしていた。頬を桜色に染めてはにかむ姿は、皮肉にも彼女と出会って十五年間の中で、一番彼女を魅力的だと感じてしまった。
女の子は恋をするとかわいくなる、とはよく聞く話だが、まさにそれを目の当たりにしてしまった。
皮肉にもその相手は自分ではないが。
『…そっか、先輩、すごくいい人そうだね。』
その言葉を口にした時、健は自分でもどんな表情をしていたのか分からなかった。震えそうな声を抑えるのに必死で、表情など気にしてられなかった。十年来の幼馴染が、親友が、幸せそうに微笑んでいるのにもかかわらず、『おめでとう』の一言もかけてあげることができなかった。
結局健は、『お腹痛いから先に授業にいってて』と言い残し、その場から走って逃げ出した。
八坂を想ってはにかむ彼女の姿を、健は見ていられなかった。最も魅力的な彼女の姿にも関わらず、見ていられなかったのだ。
「早く気持ちを伝えていれば……違ったのかな…?」
健は旧校舎裏のベンチに寝そべり、雲一つない青空を曇った表情で眺め、何度振り払っても浮かび上がってくるその考えを口に出してみる。今考えてもどうしようもないことは分かっているが、つい想像してしまうのだ。
今健がいるこの旧校舎は、十年前に今の新校舎が立てられてから、ほとんど立ち入る人がいなくなった場所である。実際今小一時間この旧校舎裏のベンチで過ごしているが、人っ子一人通らない。一人で考え事がしたい時にここをよく利用していた。
少し肌寒くなってきたそよ風に、太陽の暖かな陽気が心地よい。こんなにひどい精神状態でも、太陽の発する熱は心地よいと感じ、寝不足だった健は、ウトウトと眠ってしまいそうになる。
「やっと見つけたわよ……!!!」
意識を手放す直前に聞こえてきた声に、健の意識は一気に覚醒し、飛び起きた。
声のした方向を確認すると、般若の様な形相をした高槻が、大股でズンズンとこちらに近づいてきていた。
「あなたね、こんなところで何やってるのよ! 授業覗いてもいなかったし、食堂にも来ない! 授業をサボるなんてありえないわ!」
「す、すみません。」あまりの迫力に反射的に謝ってしまう。「というか、高槻…さん? こんなところで何を…?」
「それはこっちの台詞よ! 折角あなたのことを調べて授業にまで顔を出したのに、何サボってるのよ! 大学は義務教育じゃないのよ? 授業料金を払っているご両親に申し訳ないと思わないのかしら!?」
「す、すみません…」
高槻は早口でまくし立てられ、健は困惑しつつも二度目となる謝罪をする。
ベンチの目の前までやってきた高槻は、健の顔をキッと睨むと、急に目を丸くしてキョトンとした表情になった。
「なにあなた…泣いていたの?」
おそらく目元が赤くなっていたため気付かれたのだろう。健は慌てて目元をこすり、誤魔化す。
「そ、そんなことないですよ。眠くてあくびしてたからですかね? それより、高槻さんは俺に何か用ですか?」
高槻は、しばらく健を怪訝な表情で見た後、鞄からお弁当箱と、きれいに折りたたまれたオレンジ色の風呂敷を取り出す。
「これ、返しに来たのよ」高槻はお弁当箱を差し出すと、ツンとそっぽを向いて言葉を続ける。「…その、味は悪くはなかったわ。 あ、お婆様には遠く及ばなかったけれどね?」
健が手を伸ばすと、ポンとその上にお弁当箱がのせられた。
明莉のお弁当箱だ……このお弁当箱を買った時のことも、昨日のことのように思い出せる。このお弁当のサイズは男性用の大きさで、『ケンの料理だったらいくらでも食べられるから大丈夫!』といって健の忠告を無視して彼女が選んだものだ。その言葉通り、彼女は一度も食べ残したことはなかった。
だめだ、また明莉のことを思い出したら、涙腺が上がってきた。
「はは、婆ちゃんの味と比べられると、きついな……」
健の思わず震えてしまった声に、高槻はぎょっとした顔をする。
「い、いや、だからあなたの料理も美味しかったって言ってるのよ! お婆様と比較したことは悪かったけれど…ほら、年齢のことを考えると、あなたも十分よくやってるわよ?」
高槻は、自分の言葉が健を傷つけてしまったと勘違いしたのか、健を慰めてくる。普段の彼女からは考えられないほど取り乱している様子だ。しかしそれは、今の健には逆効果であり、人の優しさに触れることで、ついに涙腺が崩壊してしまう。
「ううぅ…高槻さんって、優しいんですねぇ…! てっきりもっと…冷酷無残な人かとぉ…!」
健は感情が制御できなくなり、自分でも何を言っているか分からない。
「あ…あなた…、それ、褒めているつもりかしら…?」
高槻は頬をひくひくと引きつらせながらも、健の手にあったオレンジのバンダナを手に取ると、涙を拭ってくれる。健の家で使っているのとは違う柔軟剤のいい香りがした。
「ありがとうございます、ありがとうございますぅ…!」
途中から、何に対してお礼を言っているのか分からなくなる程、何度も何度もその言葉を連呼する。
誰もいない旧校舎裏で、情けない男の嗚咽と、「はいはい」と子供をあやす様な声が交互に響き渡った。
「ふぅん…つまり、ずっと好きだった幼馴染に彼氏ができてしまったってことね」
気持ちを落ち着けることのできた健は、高槻にすべてを打ち明けた。幼馴染である明莉がテニスサークルの先輩と付き合い始めたことや、彼女がその先輩の家に行っていたことも含めてすべて。
第三者にだからこそ正直に話せるところもあり、彼女に話しただけで少し気持ちが楽になった。
「好きっていうか……。うんまぁそうですね…おっしゃる通りです」
思わず下らないプライドで否定しようとしてしまったが、高槻に細目で睨まれ口をつぐんだ。
あれだけ泣いてしまったんだ、今更何を言ったところでもう明莉を好きだったことはバレているだろう。
「ちなみに、あなたの幼馴染が付き合いだしたのは、いつからなのかしら?」
「へ? ついさっき……今日の朝聞いたので最近の事かと思いますけど、具体的にいつかは聞いてないですね…」
正直、聞きたくもない。 馴れ初めなんて聞かされたら、精神がもたない自信がある。
高槻はどうでもよさそうにふぅんと呟き、腕を組んで目をつむる。そして、険しい顔をして少し間を開けた後、口を開く。
「ごめんなさいね、私も恋愛経験が豊富という訳ではないから、適切なアドバイスはできないわ」そう前置きすると、目を開き、健のことを見て諭すように話す。「ただ、私が思うのは、いい区切りができたと考えるべきよ。 あなたの話を聞く限り、もしこのまま幼馴染の関係を続けていたとしても、彼女との関係は平行線をたどることになってたんじゃないかしら? 限られた大学生活、そんなのはもったいないわ。あなたは次の恋愛に進むきっかけを手に入れたのよ。失ったものを振り返るのではなく、そのおかげでこれから得られるものを認識すべきだわ」
健は目をつむり、高槻が俺のことを考えていってくれたであろうその言葉を心の中で反芻する。
高槻の言う通りだ。 健も今まで何度か女子に告白されたことがあるが、明莉のことを考え、すべて断ってしまっていた。だからといって、八坂のことを好きな明莉は健の告白を受けることはなかっただろうし、明莉から告白されることなど天地がひっくり返ってもあり得なかっただろう。
今までの関係のままでは、どうあっても先に進めない状態だったのだ。
だが今、明莉と付き合える可能性がなくなったと分かったことで踏ん切りをつけ、自分は次に進むことができるのだ。
「そう…だね。 本当にありがとう高槻さん」
健は彼女の言葉に納得し、心から感謝した。
高槻さん、彼女の言葉にはとても力があり、頼りになるいい人だ。 彼女の優しさに、油断したらまた泣いてしまいそうだ。
健が下唇を噛んで涙を堪えていると、高槻は声をワントーン落とし、言葉をつづけた。
「それで、今落ち込んでいるあなたを慰めてあげた対価なのだけれど」
高槻のその言葉に、込み上げてきた涙が一瞬で引っ込んだ。
タイカ…たいか…対価? 対価とは『他人に財産・労力などを提供した報酬として受け取る財産上の利益。』(出典:goo辞書)
高槻は優しさ等ではなく、自分の利益のために労力を提供してくれたということか。
考えてみれば当然だ、少し前に知り合った自分なんかに親切にしたって彼女に何の得もない。
「なんだ…そういうこと、ですね」
健は自嘲気味に笑った。少し残念な気持ちはあるが、助けられたのは事実だし、そういう利害関係の方が気楽でよいのかもしれない。
「本当に感謝しているので、自分にできることなら何でもしますけど、お金はないですよ?」
平々凡々…というよりどちらかと言えば貧乏である健に、何を期待して対価を要求しているのだろうか。
健の言葉を高槻はフンと鼻で笑った。
「私はそんなものに困ってないわ。寧ろ、こっちから支払っても構わないと考えてるくらいよ」
「……へ?」
彼女の言っていることが理解できず、聞き返す。
お金を支払う? 高槻さんが自分に? いったい何を言っているのだろう?
疑問符を浮かべる健をみた高槻は、フンと鼻を鳴らし、ピョンとベンチから飛び降りると、健の正面に立って腕を組んで睨みつけてきた。
「明日から、私のお弁当を作ってもらえないかしら。もちろん毎日、ね」
折角聞き返したのに、全く意味が理解できなかった。
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