第2話
二限が始まる前の十時過ぎ頃、健と明莉は大学の教室前に着いた。
健は、先に教室に入ろうとした明莉を呼び止める。
「あ、待って明莉。はい、今日のお弁当。今日は生姜焼きだから」
鞄からオレンジ色の小風呂敷に包んだ弁当箱を取り出し、明莉に差し出す。 お弁当はいつも父、妹の分のついでに明莉の分も作ってあげているのだ。
生姜焼きは彼女の大好物であるため、彼女が『やったー!』と喜んで持っていくことを想像していたのが、彼女は困ったような表情を浮かべた。
「あ、そっか…。 ごめん、今日はお弁当要らないんだ」
「へ? なんで? 明莉今日はサークルあるよね?」
午前中で終わる日であればお昼は友達と外食に行く、ということも考えられるが、明莉はテニスサークルに所属しており、午後からサークル活動がある時はいつも大学内で食べているはずである。
であればお弁当が必要なはず、と健は思ったのだが、明莉は腕を組んで渋い顔をしている。
「う~ん、その…今日はなんとなく、友達と外で食べようってことになってたんだ」
「そ…そうなの? そうか…まぁそういう日もあるか、了解。ただ、次からは前もって言ってくれると助かる」
お弁当を一つ余分に作ってしまった。まぁ、夜ご飯に回せばいいだけだから構わないが。
「うん、本当にごめんね? じゃ、また今度ね!」
明莉そう言って教室に入り、後方の席を牛耳っているキラキラした女子グループの中へと紛れていった。
健と明莉は学校では別行動である。というのも健と明莉は、仲良くなる友達のタイプが違うのだ。健は比較的地味なタイプの友達が多いが、明莉は対照的に派手で社交的な友達が多い。
健が教室に入り席を見渡すと、こちらに手を振ってくる男が目に入る。
「おはよう佐古」
「おっすー。 今日も佐藤さんと登校か? 羨ましいなおい」
「いや、だから俺と明莉はそういうんじゃないって」
このやり取りも何回目だろうか。ただ幼馴染で一緒に登校しているというだけで、恋人に勘違いされてしまうことはよくあるのだ。
「いや、そういうんじゃなくてもな、佐藤さんと歩くだけで箔がつくっていうか…。 男としての価値がワンステージ上がる気がするだろう?」
明莉の様な美人と付き合えたのならば、そう思うのは分かるが、只の幼馴染がそう思うのはおこがましいだろう。
「うーん、それはどうだろう。そしたら佐古だって宮野さんとよく一緒に歩いてるよな?」
女性にしては背が高く、眼鏡をかけて、長い髪を低い位置で二つ結びにしており、見た目からは地味な印象を受けるが、その性格は結構明るく話しやすい。
「恵だ~? 恵じゃ男のステージ上がらねぇよ。無駄にでかいし!」
「…ふぅん? 佐古君はそんなこと考えていたんだねぇ?」
いつの間にか宮野は健たちの後ろに立っていた。腕を組み、不気味な笑みを浮かべている。
「げ!?」
佐古は驚いたように背筋を伸ばして立ち上がる。
「い、いや違う! こ、これは誰だって佐藤さんと比較しちゃ厳しいって話をしてただけで…!」
宮野はため息を吐くと、健の隣に腰を下ろす。
「まぁ、佐古君になんてどう思われようが気にしないけど、それを塩野君にも思われてたのならショックだなぁ…」
宮野にじろりと睨まれた健は、ブンブンと首を横に振って否定する。
「いやいやいや俺は思ってないよ! 佐古が勝手に言ってただけ! 宮野さんが大きいというか、佐古が小さいだけだし!」
実際宮野さんは女性にしてはやや高めというだけで、男性の平均身長と比べたら低い。ただ佐古が小さい、それだけなのだ。
宮野が健の言葉に噴き出すと、佐古が眉間にしわを寄せる。
「小さいっていうんじゃねぇ! 恵も笑ってんじゃねぇよ!」
不機嫌そうに突っ込んだ佐古に、健と宮野は顔を見合わせてゲラゲラと笑う。
佐古と宮野、この二人の雰囲気は、健にとってとても居心地が良いものであった。
その時、ふと後ろから視線を感じた気がした。健が後ろを振り返ると、明莉と目が合った。視線の正体は明莉のものだったようだ。
何か用か、そういった意味で健が首を傾げるが、明莉はぼうっとしており反応を示さない。よく見ると、彼女の目の焦点は自分に合っていない気がした。では、彼女は一体何を見ているんだ?
疑問に思った健が辺りを見回していると、宮野が突然声をあげる。
「あ! 私やっぱ前の席に移動するね! 最近メガネの度がずれてきちゃったみたいで…」
宮野がそう言って健の隣から佐古の前の席に移った。
今座っている位置は中間よりもやや後ろの方だ。確かに弱視の人にとっては黒板の文字は見にくいかもしれない。
すると佐古がギャーギャーと文句を言い出す。
「バカか! お前が前に来たら俺が黒板見えなくなるだろう! 嫌がらせか!」
「しょうがないでしょ、他に空いてないの! 文句言う前に背を伸ばして!」
「無茶言うんじゃねぇ! ていうか健の前が空いてるだろ! そっち行けよ!」
佐古と宮野がギャーギャーと言い合いを始める。言い合い、といっても本当にただのじゃれ合いだ。軽口を言い合っても険悪になることなく、お互いにラインを弁えてる関係。健はこの二人の漫才みたいな掛け合いを見るのが好きであった。
「なんだよ健、ニマニマ笑って気持ち悪い」
じっと見てたら、考えていたことが表情に出ていたようで、佐古が顔をしかめた。
健はニコッと笑って思ったことを真っすぐに口にする。
「いや、幼馴染がいていいなって思ってさ」
「「健(塩野君)だけには言われたくない!」」
二人の声が揃った。
おそらく、お前には明莉がいるだろう、という意味で言っているのだろうが、流石に俺と明莉でもここまで息ぴったりにはなれない。
そう思って明莉の方をちらりと見るが、既に明莉の視線はこちらに向いておらず、隣のギャルのような友達と談笑していた。
そういえば、結局さっき彼女は何を見ていたのだろうか。そんなことを考える間もなく教授が到着し、授業が始まった。
二限が終わり、昼食の時間になったため、佐古達と食堂へ行き、適当な席に腰を下ろした。
弁当を持参している健は三人分の席を取り、彼らが注文を終えてくるのを待つのがいつもの流れになっている。
ボーっとスマホを眺めながら彼らを待っていると、隣から呪詛のようなうめき声が聞こえてきた。
「まずいまずいまずいまずい…!!」
健が恐る恐る声の方に目を向けると、斜め前に座っていたとんでもない美人が、醜悪な表情を浮かべながら生姜焼き定食を食べていた。
腰まであるサラサラの黒髪に、まつ毛が長くぱっちりとした目元と凛としたシャープな輪郭は、かわいい系と綺麗系をいいとこどりしたような美しさだ。
ただ唯一残念なのが、眉間と鼻の間にしわを寄せ、酷い表情をしながらご飯を食べていることだ。
健が思わずじろじろと見つめてしまっていたため、ふと彼女と目が合ってしまった。すると、怪訝な表情を浮かべて声をかけてきた。
「…何? 私に何か用かしら?」
けしかける様な口調で、かなり怖い。健は慌てて目をそらす。
「い…いえ、生姜焼き嫌いなのかなって思っただけで……」
「別に生姜焼きが嫌いという訳では無いわ。 ここの生姜焼きが美味しくないだけ」
健もこの食堂の生姜焼きを食べたことはある。だが、特別美味しい訳ではないが、不味くもなかった記憶だ。
そう思った健はこっそりともう一度彼女の方を見る。
彼女は薄手の白いニットに、黒いロングスカートで、落ち着いた服装をしていた。脇に下げている鞄はファッションに疎い健でも知っているハイブランドのもので、それを見てからもう一度彼女の服装を見ると、どれも質が良く、高いものの様な気がしてくる。
大学あるあるだが、偶に彼女の様な大金持ちが紛れているのだ。
恐らく彼女のようなお嬢様には、庶民的な味の良さが分からないのだろう。
健がそんなことを考えていると、彼女は突然身を乗り出し、健の弁当を覗き込んできた。
「あなたのそれ、自分で作っているの? 生姜焼きかしら?」
彼女の美貌は間近で見ても、非の打ち所がない。健は突然近づいてきた美人にドキマギしながらもなんとか返事をする。
「ええ、まぁ」
「…ふぅん…?」
彼女はしばらく、訝しげにお弁当と健を見比べたあと、突然興味を無くしたように席に戻る。
そして、自分の生姜焼き定食をお盆ごと健の方に寄せてきた。
「これ、あなたにあげる」
「へ?」
「だから、あなたにあげるって言ってるの。残したらシェフに失礼でしょう?」
シェフて…ここは食堂だぞ。 …いや、間違いではないが。
「…出されたものをまずいまずいっていうのも失礼かと思うのですが…」
料理を作ることが多い健には、作ったものを貶される辛さが分かる。
この見るからに高飛車な少女を逆なでしてしまう恐れがあるが、思わず口をついて出てしまった。
しかし彼女は怒ることなく、表情を変えずに答える。
「さっきのはただの評価でしょう。お金を払っているのだから、それに対して評価するのは当然の権利よ。じゃ、頼んだわよ」
彼女はそう言って、盆に置かれた自分が使った箸を未使用の箸に取り換え、立ち去っていってしまった。
断る隙も与えずに、嵐のように去っていった彼女の後姿を呆然と見ていると、定食を手にした佐古が戻ってきた。
「おい健! 誰だよ今の子!? 俺にも紹介しろよ!」
どうやら先ほどの彼女とのやり取りを見られていたらしい。
「いや、俺も名前は知らない。突然絡まれただけだよ」
「はぁ〜? 一体前世でどんな徳を積んだら、あんな超絶かわいい子に絡まれるんだよ?」
佐古が健の隣に座りつつ、悔しそうな顔で睨んでくる。絡まれたといっても決してナンパとかではなく、ヤンキーに絡まれたといった方が意味的には近いのだが、佐古は勘違いしているようだ。
「一年生の
佐古が額を抑えて頭を横に振る。
「くぅ~、俺とした事がリサーチ不足だったか! なぜ俺のかわいい子情報網に引っかからなかったんだ!?」
佐古の言葉に、宮野が苦笑いする。
「う~ん…高槻さんはあの性格が災いして、今はかわいい子ってよりは変な子っていうイメージがついちゃってるからかな…?」
確かにいくら顔がよくても、人の作ったものをまずいまずい言うような人では人気は出ないだろう。やはり、明莉のように何でも美味しい美味しいとご飯を食べてくれる女性の方が魅力的だ。うん。
納得したようにうんうんと頷いている健に、佐古が高槻が置いていった生姜焼き定食を指さして健に質問してくる。
「というかその生姜焼き定食はなんだ? お前弁当もあるのに、定食まで買ってきたんか?」
健は、どう説明しようか考えながら答える。
「その高槻さんに押し付けられたんだよ。食べログレビュー風に言うと、『庶民的な味でまずかったです、全部食べられなかったので隣の人にあげました、☆一つ』ってところかな。」
「めっちゃ嫌なタイプのレビュアーだな! ていうかこれ、あの子の食べかけか!?」
健の言葉に佐古が定食を自分の方に引き寄せ、まるで宝物を見つけた海賊のように目をキラキラと輝かせた。
「「うわぁ…」」
健と宮野からの冷ややかな視線に気付いた佐古は、手をブンブンと言って早口で話し出す。
「ち、ちがっ…! どうせ健食べきれないだろう? 俺は食べ物がもったいないと思っただけだ! SDGSって知ってるか? サステナボゥディベロップメントゴゥルの略称で持続可能な開発目標っていう意味だが、そこには食糧問題についても…」
流暢に話そうとしている気取った発音の横文字と、どこかで聞きかじった知識を使って、自分を正当化しようとしている彼の姿は非常に滑稽だった。
佐古には残念なことだが、あの子が口につけた箸は持って行ったし、一口しか手を付けていないようだったから、彼が期待している食べかけではないだろう。しかし、そのことを佐古に伝えることは、誰の得にもならない。
そのことは黙って彼に食べてもらうことにしよう。彼の言うSDGSのためだ。うん。
三限が終わり、今日の授業がすべて終わった健が帰り支度を始めていると、明莉が声をかけてきた。
「やっほーケン、この後はどうするの?」
「いつも通り、まっすぐ家に帰るよ」
「そかそか。じゃあ私はサークルにでも顔を出そうかな~」
明莉は中学校からテニスをやっていて、大学でもテニスサークルに入っている。健も誘われて何度か試合を観戦に行ったことがあるが、素人の健が見ても明莉は非常に上手かった。実際、どの大会でもある程度結果を残していたため、それなりに上手いのだろう。
佐古が隣からひょっこりと顔を出してきた。
「佐藤さーん、テニスサークルってまだ入れるかな? 俺、昔から結構運動神経はいいんだよね」
佐古はテニスラケットを振るような動作をしながらそう言った。ぎこちないフォームで、素人目にも運動神経が良いように見えない。
明莉は楽しそうに笑い、眩い笑顔を佐古に向ける。
「あはは、佐古君、いつでも大歓迎だよ~。 ケンの友達だから特別に私が直々に教えちゃうよ~」
「マジっすか!? ぜひぜひ手取り足取り腰取…ぐえっ」
佐古が明莉に飛びかからんばりに前に身を乗り出したため、健が首根っこを掴んだ。
「何すんだよ健!」
「明莉、佐古はリップサービスを真に受けちゃうほど純粋なんだから、あんまりからかわないであげて。それに佐古は一年の時の体育の評価Dだったから、大して運動神経良くない」
「あー! てめ、バラしやがったな!」
佐古は健の手を払うと、健にとびかかってヘッドロックをしてきた。かなり本気でやってきてるようで、結構苦しい。
ポンポンと佐古の腕を叩き、ギブアップの意思表示をしていると、明莉に「ほんとに仲良いんだねー」とケラケラと笑われる。
その時、この教室では見慣れない男が声をかけてきた。
「明莉ちゃん、授業終わった? お昼に今日はサークル来るって言ってたよね?」
明莉に声をかけてきたのは、金髪でスラっと背が高いモデルのような男だった。
突然のイケメンの登場に、教室内が静まり返る。
「あ、はい、今行きます! じゃ、またねケン」
「え? あ、ああ」
明莉は踵を返すと、金髪のイケメンの元に駆けていった。
健と佐古をポカンとその様子を見送る。
健を抱える佐古の腕にはもう力が込められていないが、健も振り解くことを忘れていた。
そして、彼らが去って行ったあと、数秒の沈黙があり、佐古が…いや、教室内に阿鼻叫喚の叫び声が響き渡った。
「ふざけんな! 幼馴染がガードしてるから彼氏はできないって話じゃなかったのか!?」 「とんでもないダークホースが登場しやがった…!!」「誰だよあの超絶イケメンは! 俺らの佐藤さんを…!」
教室内ほとんどの生徒が、ショックを受けているようで、如何に明莉が人気な存在だったかが分かる。
健は、先ほどの金髪のイケメンの顔に見覚えがあった。
「…
八坂隼人。一学年上の先輩でテニスサークルの代表だ。
健が彼の名前を知っていたのは、文武両道でなんでもできてかっこいい、と高校時代の明莉から聞いたことがあったからだ。その頃、八坂とは学校も別だったため、特に絡みもなかったようだが、今では同じ大学になり、同じサークルにいると明莉から聞いていた。まさか迎えに来てもらうような関係になっていたとは知らなかったが。
それに、さっき『お昼に言ってた』と言ったか?
まさか、昼食を一緒に食べていた友達っていうのは……
「くそぅ! やっぱ身長か…!? いや、顔か…!? いや、テニスか…!? …って何でも持ちすぎだろ! ずりぃよ!」
佐古の教室内の男全員の気持ちを代弁したような叫びが響き渡る。
明莉は交友関係が広く、昔から男友達も多いため、ただの友達という可能性もある。
高校時代に、明莉と仲が良い男友達との関係が気になり、付き合っているのか聞いたことがあった。その時はタイプじゃないからありえないよ、と笑いながら答えてくれた。だが今回はどうだろうか…。
「塩野君、大丈夫?」
物思いにふけっていると、不意に宮野に声をかけられ、驚いてしまった。
「…え!? なにが?」
「何がって…すごい表情してるよ…?」
宮野に言われ、自分が顔をしかめていたことを気付いた。 健は取り繕うように笑顔をつくる。
「ごめん、大丈夫大丈夫。ちょっと考え事してただけ」
「そうなの? 」 宮野は健の表情を伺うようにじっと見ながら言葉を続ける。「ちなみに、塩野くんはあの二人、付き合ってると思う?」
健は言葉に詰まる。明莉からはそのような話は聞いていないため、今付き合っていることはないはず、と考えてはいた。
しかし、八坂先輩の話する明莉のことを今思い返してみると違和感を覚える。憧憬の念を抱いているだけの可能性もあるが…少なくとも、他の男子の話をする時とは違っていた気がする。
「俺も明莉から何も聞いてないから、多分付き合ってはいないと思う……けど、断言はできない」
健は考えた挙句、曖昧な回答を出した。宮野は健の背に手をぽんと置き、心配するように声をかけた。
「…そっか。何かあったら相談くらいは乗るからね?」
宮野がなぜ自分にそう声をかけてくれたのかは分かっている。
もし、本当に二人が付き合っていたとしたら、一番ショックを受けるのは誰かを彼女は知っているからだ。
佐古も宮野もサークルに入っているため、健は一人で帰路につく。
普段であれば、放課後は帰ったら何をしようかと考えて足取りが軽くなるものだが、今日は先ほどの一件が頭から離れず、足取りは重い。
帰り道の半ばでスマホの通知が鳴った。スマホを取り出し、画面に映る明莉の名前を見て慌ててラインを開く。
『ごめん、明日からしばらくお弁当は大丈夫。友達と食べることになった。』
友達…か…。果たして本当にただの友達なのだろうか。八坂先輩だったりしないだろうか。
そんなことを考えていたら、メッセージの返信入力欄に『友達って誰?』と思わず入力しまっていた。
彼氏でもないくせにこんなことを聞くのは不自然だ。少し悩んだ末、入力した文字を消し、『了解』とだけ返してスマホを閉じる。
明莉に彼氏ができたかもしれない、たったそれだけでこんなにも焦燥感に襲われ、気持ちが沈んてしまうものなのか。
八坂と付き合っているか否か、明莉に直接聞ければよいが、肯定された時を想像してしまい、踏ん切りがつかない。直面した自分の弱さに、本当に自分が情けなくなる。
そんなことを考えながらとぼとぼと普段の倍の時間をかけて歩き、やっと健の家が見えてきた。
健の家は三階建てとなっており、一階は定食屋で、二・三階が居住スペースになっている。今定食屋は無期限休業中であり、閉ざされたシャッターに「休業中」と書かれた貼り紙がされている。
その貼り紙を前に呆然と立ち尽くしている女性の人影があった。
昔、うちの店に来てくれたお客さんかもしれない。そう思い、健は話しかける。
「すみません、今店主がいなくて、休業中なんです」
健の言葉に女性が振り返る。
綺麗な女性だった。サラサラの綺麗な黒髪を腰の位置まで伸ばし、釣り目がちな勝気な瞳と眉間の寄った皺が…って。
「高槻…さん?」
昼間に定食を押し付けてきた高槻知聖だった。
高槻は眉をひそめて警戒するように後ずさる。
「あなた昼間の…。というかなんで私の名前を知っているの?」
そうだ、彼女は名乗ってなどいなかった。彼女の名前を出したのは失言だった。
「ご、ごめん、友達から聞いたんだ。君、有名みたいだから友達が知ってて…」
その言葉を聞いた高槻はため息をつき、きれいな黒髪の中に手を入れ、イラついたように少し乱暴に頭を掻いた。
「はぁ、どうせ変な噂でも聞いたんでしょう…? 人間関係って本当にめんどくさいわよね…」そう呟くように言った後、高槻は腕を組んで健を睨む。「それより、ここの定食屋、ずっと閉まっているのだけれど、何か知っているのかしら? 再開する予定はあるの?」
健は彼女の圧に無意識に背筋を伸ばしながら答える。
「ここ、俺の婆ちゃんが経営してたんだけど、その婆ちゃんが一昨年ね…。 多分もう再開することはない……と思う」
健の言葉に、バツが悪そうに高槻は顔を伏せ、「そう」と短く言った。
「もしかして、前にうちの店に来てくれてたの?」
健がそう聞くと、高槻にキッと睨みつけられた気がした健は委縮する。
またキツイ言葉か来るかもと身構えるが、そんなことはなく、高槻は懐かしむような口調で言葉を続ける。
彼女の目つきが怖いのは元からのようだ。
「ええ、随分前のことだけれど、ここで食べた生姜焼き定食が好きでね……。でも、そういうことなら仕方ないわね、今日はもう失礼す━━━」
ぐぎゅるるるぅぅぅ
その時、バカでかい大きなおなかの音が鳴った。
その音のでどころは、健のお腹ではない。
健は目を丸くして、腹の虫の主である高槻を見つめる。
すると高槻の顔はみるみると赤くなっていく。
「い、今のは私じゃ……ないこともないけれど! 何か文句があるのかしら!?」
彼女の言い草に、健は思わず吹き出してしまった。私じゃない、と誤魔化すのではなく、自分だと認めた上で文句あるのか、と聞いてくる辺り、彼女の性格を表しているようで可笑しかったのだ。
くつくつと笑う健を見た高槻は、握った拳をワナワナと震わせる。
「あ、あなたね…!! もういいわ、私帰るから! さよなら!」
勢いよく踵を返し、大股で歩き出した高槻を、健は慌てて引き留める。
「ごめんごめん、待って! お昼ほとんど食べてなかったもんね、そりゃお腹もすくよね!」
「う、うるさいわね! あなたみたいな失礼な人とはもう二度と会いたくもないわ!」
健は走り、ずんずんと進んで行ってしまう彼女の前に回り込む。
「これ、持っていってよ」そういってオレンジ色の風呂敷で包まれた弁当箱を差し出した。明莉のために作った弁当である。「一応俺、ここの店主に料理を仕込まれてるから、味は似てると思うよ。生姜焼き弁当、昼間と同じで申し訳ないけど」
「あなたね、今日あったばかりの人のお弁当なんて、食べられるわけないでしょう!?」
健は高槻の手を取り、無理やり弁当を渡した。
「頼む、受け取って。いらないのなら捨ててしまっても大丈夫。弁当箱もそのまま捨ててほしい。…もう必要なくなったものだから」
明莉のために作った弁当を、自分で処理するのも虚しい。このまま誰かに処理してもらった方が気が楽だ。
健は昼間の定食を押し付けられたお返しをするように、彼女から弁当箱を突き返される前にその場を走り去り、家の中に駆け込んだ。
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