5
旅行から帰った次の日は日曜だった。朝、母がレジ打ちのパートに出かけ、継人が食堂で朝食を取っていると、父がやってきてマグカップにコーヒーを入れ、継人の斜め前の椅子に座った。
「最近はいそがしそうだな。昨日はどこに行ってた?」
「相撲の日帰り合宿だよ。言わなかったっけ?」
「相撲の合宿なら、この前行ったばっかりだろ」
「いろいろあるんだよ」
「そうか。今度は東北か?」
そう言いながら父は、手に持っていた紙切れをテーブルに置いた。それは継人がX市のコンビニで飲み物を買ったときのレシートだった。
「おれの財布を勝手に見たの?」
「お前だって、おれのものを勝手に見てるじゃないか」
父は継人の心の中まで見通すような目つきで眺めていた。もはや言い逃れはできなさそうだと継人は観念した。
「K村に行ってたんだよ」
「K村……?」
「K村のとわ学園で父さんは働いていたんでしょう? そのあとX市に引っ越しして、そこで前の奥さんと結婚した。そして父さんは有城ではなく名識になった」
「……」
「M町の山下のお父さんから、あごの傷のことも聞いたよ」
「……」
「父さん、名識という人はどうなったの?」
父はしばらくのあいだ、まなざしをテーブルの上に漂わせていたが、やがてこう呟いた。
「それは、長い話になる」
継人が何も言わずにいると、父は覚悟を決めたように大きなため息をついた。
「どこから話すかな……まあ、最初から話すか」
父は背中をそらせて天井を見上げた。
「おれはM町で生まれた。まだ幼児のころに両親を病気でなくして、祖父に育てられた……そのことは山下から聞いたろ?」
「うん」
「なら話は早い」、継人の左右の目を素早く交互に見つめながら父は言った。
中学を卒業すると、おれは十五で東京へ出た。下町にある印刷所で働き始めて一年ほどたったころ、休日に上野の公園をぶらついていると、男に声をかけられた。割りのいい仕事があるというんだ。場所は遠いが、数ヶ月働けばひと財産かせげる。おれはくわしい話を聞くために谷中の事務所へ男と向かった。それは二階建ての一軒家で、中華台湾料理・玉華亭という大きな看板が上がっていた。つまり中華料理店だったわけだけど、客を寄せつけない外見をしていた。店の前には無数の観葉植物の鉢が置かれ、しかもそのうちの半分は葉っぱが灰色に枯れている。その他にも、ガラスの引き戸のついた棚やら、蓋つきの陶器の壺やら、木彫りの羅漢像やら、雑然とした物で入口のあたりは埋めつくされていて、軒下には鋳鉄のランプや紙の飾りなどがぶら下がっている。入口の引き戸には料理の写真やら護符やら手書きの字で書かれた紙やらがべたべたと貼られ、どこを開けて入るのかもよく分からない。男はしかしさっさと引き戸を開けると、おれを先に中へ通した。もちろん客なんて一人もいない。すると、すぐ左にL字に曲がって二階へ伸びる急な階段があって、その前に大きな男が立っている。そこまでおれを案内した男はその大きな男に合図すると、そのまま去ってしまう。おれはその大きな男に事務所の場所を訊ねると、男は黙って階段の上を親指で示した。おれは男の前を通り、その狭くて急な階段をのぼっていった。
二階には、驚いたことに、七人の男たちがわだかまっていた。奥の窓には陽に焼けてほとんど模様の消えてしまったカーテンが引かれ、部屋の中は薄暗かった。そこはかつて雀荘として使われていたらしく、麻雀卓が部屋の中央と壁際に並べられている。もう長い間使われていないらしく、ホコリを被っている。そこにいる男たちに、事務所はどこかときいてみたが、みな首を横にふるだけだった。
おれは階段を降りていって、下にいるあの大きな男にきいた。
「事務所があるって聞いたんですが」
男は何も言わず、ただおれの顔を無表情に見つめている。
「誰に話を聞けばいいんでしょうか」
「話? 何の話だ?」
「仕事の話です」
「仕事をするためにここに来たんだろう?」
「いや、まだやるとは言ってませんよ。説明をするからと、ここに連れてこられたんです」
「こっちは、もう決まったものと聞いている」
「何か誤解があるようですね。もう一度、あの人に聞いてきます」
すると男はおれの顔を見ながらゆっくりと首を横にふった。
「ここから出すわけにはいかん」
「えっ? どうしてです?」
「あいつにはもう、おまえの分の紹介料を払ってある」
「そんなこと、おれは知りませんよ。通してください」
そうしておれは、この大きな男に階段の下で、顔と腹を殴られた。二階に戻ると、男たちが哀れみと好奇心の入り混じった視線をおれに向けてきた。誰も口はきかなかった。つまりは、そういうことだった。おれは椅子に座り、そこにいるみんなと同じように力なく目を伏せた。
数日後、おれたちは監視つきで列車に乗せられて、北海道のタコ部屋へ送られた。タコ部屋というのは飯場のことだ。そこでおれは二年働いた。最初、おれたちは北部の道路工事現場に連れて行かれた。昼間は監視つきで土木作業、夜は工事現場の脇に建てられた飯場に鍵をかけて閉じ込められた。棒頭という管理人がいて、おれたちが逃げないようにいつも見張っている。逃げようとしたやつや生意気だと思われたやつは飯場の梁にロープで吊るされて、棒頭に殴る蹴るの制裁を受ける。ときどきやりすぎて、殺してしまうこともあった。その死体は工事で掘った溝の中に放り込んだり、ダイナマイトでこっぱみじんにして川に流してしまう。
二年がたち、おれはどこかのトンネル工事現場で働いていた。ある日、おれは足に怪我をして近くの町の病院まで連れて行かれた。病院といっても、そのあたりでは病院も警察もやつらと話が通じてるから、何を訴えてもムダだ。帰りは歩きだった。おれはわざと足をひきずりながらゆっくり歩いた。棒頭は早く夕食にありつきたくて、はるか先にいた。日が暮れてきて、あたりがすっかり薄闇に包まれたころ、おれは背を低くし、まわりの木立に紛れるようにして走り出した。十キロほど走って、牛舎のある大きな農場の納屋に隠れていたら、二人の棒頭が追ってきた。連れ戻されたら命はない。おれは干し草をすくう四本爪のフォークで二人をめった刺しにして、死体はリヤカーで近くの林の中に運んで捨て、さらに逃げた……
それから、おれはなんとか海を渡ってK村にたどりついた。土木会社で一年働いたあと、とわ学園に用務員として雇われた。そこであいつと、名識と出会ったんだ。あいつはおれと同い年だった。小さいころに両親を亡くして、ずっととわ学園で育ってきたが、社会に出るのを嫌がっていた。高校を卒業して、二年の措置延長の後も仕事が見つからず、あいつは死にたがっていた。それで、おれはあいつに「澄子さんと結婚します」という手紙を書かせて、あいつが海へ飛び降りるのを助けてやったんだ。おれは澄子と町に出たが、二年後に澄子は病気で死んでしまったよ……
その夜、継人はベッドにもぐり込むと、もう何も考えまいと、ギュッと強く目を閉じた。しばらくそうしていると、何もない闇の底がこちらを押し返してくるような気配があった。それは原油のように重くゆらめく不穏な海面で、継人の抵抗を押しのけて膨れ上がる。それは深い縦穴の底から水位を上げ、やがて濁流となってあふれ出す。タコ部屋の父や、本物の名識雅之、X市の片隅で父と暮らす澄子……見たこともないそれらの場所や、会ったこともないそれらの人々が、まるで自分の記憶であるかのように、あらわれては消えていく……
「父は……正当防衛だ」
夜の闇の中で継人はそう呟いてみる。だが、継人のイメージの中の父の姿は、その言葉をすでに裏切っている。畳敷きのタコ部屋の中央に屹立する、暗く大きな父の姿……その上背のある大きな男が、むざむざ殺される側に回るとは到底考えられないと継人は思う。むしろ父は棒頭として人夫たちの上に君臨していたのではないだろうか。そして、名識雅之もまた父にとっては……継人は不意に暗闇の中で目を見開く。
それを言うなら、この自分も同じだ……
すると、それまでさんざん頭の中で想像し、反芻してきた父についてのあやふやなイメージの断片が、急に焦点が合うように組み上がり、辻褄の合った全体として立体的な姿を現した。
それはとても妙な感覚だった。継人には父の感じたこと、考えたことが手に取るように理解できた……そしてそれは必ずしも父が自分の口で語ったこととは一致しない。その一致、不一致も含めて、継人は真実と父の描いたストーリーとを同じ一望のもとに眺めていた。父が感じ、考えること……それはまた、自分が感じ、考えるであろうことでもある。つまり、自分は常に父を先回りできるということでもある……
これから自分はどうやって父を愛していけばいいのだろう? 愛する者を死に至らしめずにはいられない、父がそんな呪われた体質の人間だとしたら……でも逆に考えれば、父に命を狙われている限りは、自分は父に愛されているとも言えないわけでもない。そして、自分はまだ深い愛着を父に対して感じている……父に憧れ、その考えに惹かれ、その生きざまを再びたどってみたいとさえ感じる。特に、そう、父はもうぼくの年頃には、人を殺していたんだ……
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