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列車での移動中、継人は携帯電話で地図を眺め続けた。K村はN川が海に流れ出る河口に作られた小さな村だった。石ころだらけの小さな浜と、その横に防波堤で囲まれた漁港があり、川に沿って二キロほど伸びるわずかな平らな土地に水田が開かれ、人家もそこに集中している。谷を両側からはさむ険しい山はそのまま海までせり出して、屏風のようにうねる断崖を形成し、その近くには展望台なども整備されて、村の数少ない観光資源となっているようだ。
目的地の駅についた時には午後三時をまわっていた。継人は駅を出ると、駅前の道をそのまままっすぐ突き当たったところにある交差点から始めて、川に平行に伸びる街道を歩き始めた。戸籍謄本には澄子が生まれた家の番地までは書かれていない。灰色に色褪せたガソリンスタンドや食料品店の前をすぎ、たち並ぶ家々の前を足早に進みながら、澄子の家はもっと外れにある農家だったのかもしれないと継人は思う。立派な石塀に囲まれた庭つきの屋敷や、事務所を兼ねたプレハブの家、簡素な平屋建てなどをすぎていくと、やがて家と家の間に隙間ができて空き地が現れ、その隙間がどんどん大きくなって人家はまれになっていく。人家が途切れたところで川は自然と左へ曲がってゆき、道は橋を越えて対岸へと渡る。そこを右へ曲がり、川の北岸沿いに伸びる道を、今度は海の方へと向かって継人は歩く。こちらは山が川の近くまで迫っていて田はなく、家の裏にわずかな畑を持つ川側と、木々を背後に抱く山側の双方に家が立ち並んでいる。しばらく行くと、N川に向かってもう一本の小さな川が左手から合流していて、町はその合流地点で扇のように広がり、ひしゃげていた。継人が左手の山に沿った道を歩いて行くと、やがてその道は少し坂を登ったところで行き止まりになっている。見ると、駐車場の奥に学校のような建物があり、入り口の芝生に立てられた木のパネルには「児童養護施設 とわ学園」と書かれている。
継人はそのパネルを見ると、しばらくその場に立ちつくして長い間そのパネルを見つめた。やがて、彼はゆっくりとした足取りで建物の中に入っていった。
受付で用件を伝えると、応接室へ通された。しばらくすると園長が現れた。園長は灰色の髪をした初老の女性だった。
継人は父のことを調べているのだと園長に伝えた。そしてカバンから戸籍謄本と自分の学生証を取り出して園長に見せ、そこに書いてある父の前妻の出生地を見てここまでやってきたのだと説明した。
すると園長は、「ええ、お二人ともここにおりましたよ」と答えた。「お二人は学園の出身で、生嶋澄子さんは指導員として働いておりました。名識さんはなかなか仕事先が見つからず、高校を終えたあともしばらくここに住み続けていたんです。それがある日、二人は何も言わずに姿を消したのです。『澄子さんと結婚します』と書かれた名識さんの手紙が残されていました。しばらくしてから調べたところ、二人はX市で暮らしているということがわかりました。なぜ何も言わずに出ていってしまったのかはわかりませんでしたが、二人がそうやって独立して、幸せに暮らしているのならまったく問題はない、むしろめでたいことだということになって、こちらではそのように手続きをしました」
「その後、二人がどうなったかはご存知ですか?」
「いいえ。学園から出たあとは、こちらからは一切連絡はしないことになっていますので」
「昔の父の写真はありませんか」
「どうかしら。もう四十年近くも前になりますから」と言って園長は部屋を出ていったが、五分もたたないうちに、一冊のアルバムを持って戻ってきた。
「ここに」
継人は写真の中の園長が指差す先を見てうなづきながら、「さすがに若いなあ」と驚いてみせた。だが、そこに写っている人物は父とはまったくの別人だった。
「ところで、この人を知りませんか」と、継人はカバンから父の写真を取り出すと、園長に見せた。
「ああ、この人はアリキさんです。しばらくここで用務員として働いていました」
「そうですか。父が昔、世話になったと言ってました。ちなみに、この人、それからどうなりました?」
「二年も続かず辞めてしまいました。どうも一箇所でずっと長く暮らすのは得意そうではありませんでした」
「辞めたのはいつごろですか?」
「そう……たしか、名識さんたちが駆け落ちしてから半年もたたないころでした。アリキさんは名識さんとは仲がよくて、名識さんが駆け落ちしたのにショックを受けていたみたいでした……」
継人はそそくさと施設をあとにした。頭の中が一杯で、考えがまとまらなかった。ときどき熱に冒された病人のように独り言を呟きながら、夢遊病者のようなおぼつかない足取りで継人は歩き続ける。
点と点がつながった……整理すれば、こういうことになる。父、有城哲人は千葉のM町で生まれた。中学を卒業後、十五のときに家を出る。その後の三年間、父がどこで何をしていたかは分からない。十八になると父はK村に現れ、土木会社のあと、児童養護施設とわ学園で用務員として働き始める。その一年後、名識雅之と生嶋澄子は駆け落ちをして施設から姿を消す。そしてその半年後、父も養護施設を退所する。そして……父はいつのまにか名識雅之になりかわり、X市で澄子と暮らしている。その二年後、澄子が亡くなる……
継人はいつの間にか森の中の道を歩いていた。見えない力に引っぱられるようにして二つの川の合流地点の手前にかかる橋を渡り、海を望む断崖へと向かっているのだった。ゆるやかな坂道を一キロほどのぼっていくと、展望台の駐車場が見えてきた。
展望台についたときはもう夕方だった。そこは最近になって新しく整備された様子だった。木目調の樹脂でできた柵に囲まれたデッキがあり、北側は海から切り込んだ深い入江に面している。ひょろひょろと伸びた松の林の間から、対岸の切り立った断崖が西日を受けて赤っぽく照り輝いている。
本来なら自分も有城という名前になるはずだったのだ……その有城は消え、かわりに名識が現われた。だが実際は、消えたのは名識のほうだ。継人は吸い寄せられるように柵へと近づいた。柵は腰から少し上ほどの高さで、乗り越えようと思えば簡単に越えられそうだ。その向こうは急な斜面の松林になっている。だが松林は少し先で途切れ、そこから先は切り立った断崖になっているのだろうと、対岸の様子からはうかがい知れる。視線を右の方にやると、陸の割れ目に侵入する海が見える。無数のとがった岩が海面から立ち上がり、そのあたりは岩がむき出しで、植物はなにも生えていない。その根本を海水が洗い、岩の周囲のみが白く泡立っている……
その白い泡を眺めながら、自分は父のことをどこまで知りたいのだろう? と継人は自問する。すべてを知ってしまったとき、後悔するようなことにはならないだろうか? 父のことをもっと知りたいという気持ちと、知るのが怖いという気持ちが継人の中でせめぎ合っていた。探るような目つきで継人の顔をじっと見つめる父の姿が脳裏に浮かんだ。だが、ひょっとすると父も、心の中のどこかでは誰かに真実を伝えたがっているんじゃないだろうか……根拠もなくそんなことを思いながら、継人は展望台から人家のある方へと向かう坂道を下っていく。
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