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それから一週間後の土曜日の朝九時ごろ、継人は東北地方の中核都市であるX市のターミナル駅西口にいた。
継人の乗ったタクシーは古い型のセドリックで、サスペンションが異様に柔らかかった。継人が戸籍謄本の住所をそのまま見せると、初老の運転手はしばらくカーナビを操作して、「あれ? ないなあ」などと呟き、それから運転席のドアのポケットにつっこんであった、ぞんざいに扱われて角が大きく折れ曲がった紙の地図を取り出して、眼鏡を持ち上げて地図の紙面を近づけたり遠ざけたりしたあと、ようやく車を発車させた。
本籍 X市T町社馬参拾九番地
氏名 名識雅之
婚姻の届出により昭和六拾弐年六月五日夫婦につき本戸籍作成(市長印)
タクシーは車体全体を大きく右側に傾かせながら走った。その傾きの原因が学生相撲レスラーたる自分の体重にあることは明らかだった。道路に凹凸があるたびに車は波に翻弄される小舟のように大きく揺れて、その沈みこみ具合は、路面の下までもぐっているのではと思われるほどで、アスファルトに車体をすりつけて火花を散らしながら疾走するタクシーの雄姿が、ギャング映画の一コマのように継人の脳裏に再生されるのだった。シートの真ん中に座ろうとも思うが、そうすればバックミラーの視線をもろにさえぎる位置に自分の顔が来るだろう。運転手が遠慮がちに後方を確認しようとするたびに顔をチラチラと見られると思うとぞっとした。
だが、運転手の立場から見ればどうだろう? 見ず知らずの男と狭い密室に閉じ込められ、ちょっと上体を前かがみにしさえすれば腕が首に届くほどの至近距離から、一方的に観察され続けるというのは、恐怖以外のなにものでもないはずだ……だからだろうか、運転席と後部座席のあいだの厚く頑丈そうなアクリル板の間仕切りには、前がよく見えないほど隙間なく、様々な広告やら注意書きのステッカーやらがベタベタと貼られている。そして、開いているのは金の受け渡しをする真ん中の部分だけで、たとえ首を絞めようにも、両腕を入れることはできなさそうだ……
すると、タクシーは急に速度を緩めて路肩に車を寄せたので、継人はギクリとして夢想から我に返る。何を言われるのかと緊張に体を固くしていると、「お客さん、つきましたよ」という運転手の声が聞こえる。
窓のすぐ外に立っている電柱の住所表示を見ると、T町三丁目だ。
「ここですか?」
「ええ。このあたりは住所が変わっとるんで、これ以上はわからんです」と、運転手は再び紙の地図を見ながら申しわけなさそうに答えた。
金を払って車を降りると、タクシーは気のせいか大急ぎでドアを閉め、去ってしまう。すぐ近くは交差点になっており、交差する二本の道の太い方に沿って継人は歩き始める。そのあたりはかつて村の中心だったのだろう、神社のような石の柵で囲われた角にはシャッターを下ろした米穀店があり、すぐとなりには、こちらもシャッターを下ろした酒店がある。見渡すと、今でも店を開けているのは八百屋兼コンビニと薬局ぐらいで、その先にも古いしもた屋が軒を連ねているようだ。
しばらく通りを行き、道を渡って反対側を歩いてみたが、若い頃の父が住んだであろうようなアパートはどこにもなかった。裏道に入ると、真新しい戸建ての住宅地と畑とが混在している。そのあたりをできる限りしらみつぶしに歩いてみたが、継人は何の手がかりも得ることはできなかった。
「あのあたりは、五年ほど前に区画整理があってね。番地もつけ直されたんよ」と、早い昼食に入った近くの食堂のおばあさんも、運転手の言葉を裏書きした。
「そのときに川も埋められて、道も新しくできたから、様子もだいぶ変わったよ。ここは街の中心まで十五分で行けて、結構便利だからねえ。それで、十年ほど前から街で働く若い人たちが流れてきて」
継人はそそくさと昼食を食べおえると店を出た。ここには父の過去を探る手がかりになりそうなものはなさそうだ。それに、この町で暮らしていたときには父はすでに名識という名前だったのだ。父の秘密を知るには、さらに時間をさかのぼらねばならない。
父の戸籍謄本は継人がX市から郵送で取り寄せたものだった。押し入れの天井裏に父が隠していたマイナンバーカードとパスワードのメモ、それに穴を開けられた古い運転免許書にあった本籍の住所を使った。コンビニで印刷するのではなくわざわざ市役所から取り寄せたのは、削除された情報まで載っている古い書式のものが欲しかったからだ。そして、その目論見はみごとに的中した。
継人はカバンから再び戸籍謄本を取り出すと、二枚目のページを開き、ひらがなのほとんどない漢文のような記述を一字ずつ目で追っていく。
妻 澄子 (名前の枠いっぱいに大きくバツじるし)
昭和参拾八年拾月弐拾四日Y郡K村で出生同年拾壱月四日母届出入籍(市長印)
平成元年九月拾五日午前零時参分X市で死亡同月拾六日夫により届出除籍(市長印)
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