第2話 高祖の難

「狡兎死して走狗煮らる」

 中国春秋時代、越王勾践を助けた謀臣の范蠡が述べた言葉であるが、意味は大方次の通り。

「ずる賢い兎がすべて捕り尽くされれば、不要になった猟犬は煮殺される」

 この意味を聞いて、猟犬の飼い主の薄情を非難する気持ちになるかもしれないが、しかし、これは一種の例え話である。ここでは、古代、猟犬と猟師の間でこういう事件が頻繁にあったとかいうのは何も重要ではない。必要なのはこの走狗を「君主に付き従った臣下」と置き換えることである。

 つまり、狡兎という積年の敵を撃ち、遂に天下の大一統を果たした後は、それまでの過程で戦った走狗という臣下たちは無用になり、各々何か罪をこじつけられて、殺されていくのである。

 なぜそんな無情な事をするのか。抽象的には説明しがたい複雑な理由が入り組んでの大粛清であるから、ここは実際にこれを行った君主を紹介するのが良いだろう。

 その君主というのが劉邦である。

 劉邦は積年の敵である項羽を打ち倒し、ついに天下統一を成し遂げた後は、これまでの功臣たちを粛清しまくった。

 その理由は、何よりもまず、功臣達の顔ぶれが強力であったことだ。蕭何、韓信、張良を三傑として筆頭に、曹参、黥布、彭越……いずれも古代中国史を代表とする偉人の数々で、個々の能力は田舎のダメ親父であった劉邦よりも遥かに強い。しかも、この連中に相応の報奨を分配せねばならず、これに少しでも不備があれば、すぐに功臣たちの心が離れていくような状況であった。

 この状況で劉邦が疑心暗鬼に陥いないはずがない。日に日に、いつ不満を持った臣下たちが謀反を起こすかの不安が高まり、結局極端な対策として、反乱前に首謀者らしき者共を殺すこととなった。これが故に死亡した者たちは、韓信、彭越、黥布……疑いをかけられたものは蕭何、樊噲、盧綰……特に蕭何達は、沛の町からの付き合いであるのに、であった。

 その大虐殺に、中華の全土を統一した威厳は見られなかった。ただ怯え、そして数々の功臣たちが屠られた。それもこれも、すべて強力な臣下共が、自身の皇帝の座を狙って反旗を翻さないか、と猜疑心を掻き立てたからである。

 そういった経緯があってからの、現在。劉邦と樊噲は宿命とも言える再開を果たしたのだ。

 先にも紹介した通り、劉邦は樊噲にまでも疑いを抱いた。樊噲を死罪あと一歩のところまで追い詰めたが、幸か不幸か、劉邦の死によって彼は釈放された。

 それにしても、地元沛では、劉邦の後ろに付き従い、その巨大で剛力な体躯をもって、

「劉兄ィの悪口を言うやつは、九族まで八つ裂きにしてやる」

 と高々に宣言したほどの男が樊噲である。旗揚げ以前から劉邦を兄として慕い、数々の場面で活躍したどころか、劉邦の危機を救ったこともあるのに、そんな男が死罪を押し付けられるほどになるとは、果たして当時誰が想像しただろうか。

 そんないきさつをもった二人が、深夜三時二十数分の今、再開した。感動の再開と一概に言っていいのか。劉邦はこの男に対してなんと言えばいいのわからない。 

「樊噲……」

 そう答えた後、夜の風がますます強くなってきた。

「劉兄ィ……!」

 樊噲はそう言って頭を地面に付けた。敬意と感動で再び頭を垂れたのであろう。

 感極まる樊噲に対し、劉邦はなにも言えなかった。すまない、という気持ちはあるが、しかしそれを口に出していうのは、少しの恥ずかしさがあったし、何よりも過去の自分を否定しているようで、どうにも言いにくい。事実、天下統一後のあの粛清によって、劉氏の漢が安泰になった。一概にも悪いと言えないことに対して謝るのは、兄のような存在である自分の、そして皇帝と臣下という間柄のメンツを傷つけるのではないか。

 劉邦はそういう考えが頭の中を瞬時に駆け巡ってた。そして、そろそろこの場の空気に「気まずい」という概念が現れるのではないか、といったところで、突如劉邦の斜め後ろから

「樊噲!?樊噲なのか!?」

 と、大きな声を出した子犬女が、男の下に駆け出してきた。彼女は半ば強引に樊噲の頭を上げ、そして屈した樊噲の体を立たせ、上目遣いで両手を握ると

「お前もこっちに来たのか。いや、まさか会えるとは」

 と、顔を赤らめながら滝のような涙を出すではないか。

 しかし、これに困ったのは樊噲である。この女は劉邦についてきただけで、まともに話したことがないのにも関わらず、急に泣き顔を見せられては理由もわからないだろう。

 愚直な彼は、急にしゃしゃり出てきたとも言えるを彼女を追い払うこともできない。ただ困惑の表情で劉邦と彼女を交互に見ていた。

 劉邦は内心で感謝した。彼女が大いに泣いてくれたお陰で、なにか雰囲気が変わった気がする。きっと彼女がいなければ、劉邦と樊噲は気まずい地獄のような空気を長い事経験するはずだったであろう。しかし、彼女の大袈裟とも言えるような泣き顔で、一気にこの男に対して何をしてやればいいのかがわかった。

 謝る必要は今のところないのだ。そもそも樊噲は晩年の劉邦から無下に扱われたが、それでも彼に対する忠誠と敬意を捨てなかった。しかも、それが今の今まで続いているではないか。

 そんな彼に対して、今一番しなければならないことは、晩年の謝罪よりも、宿命的な出会いに感謝しつつ温かく迎えることではないか。

「は、はは、久しぶり……」 

 そう思った劉邦であったが、実際言動に表してみると、どうにもまだ緊張するもので、ちょっとした言葉と、手を少し振ることしかできなかった。

「劉姉!もうちょっと喜んだらいいじゃないか!樊噲だよ!樊噲!」

 子犬女はそう言って泣き顔を劉邦に向けた。ありがたい。こうやってズバッと言ってくれることは、生来から人の上に立つ劉邦にとってこの上なくありがたいことだ。彼女は、そうだな、と少し笑って、樊噲に近づいていく。

「あの……この人は?」

 たまらなくなったのか、そう尋ねた樊噲であるが、これに劉邦は

「盧綰だよ。こっちの世界の名前は盧涵綰」

 と、軽く流して、盧綰が握った両手を一本奪い取る。

「久しぶりだなぁ。沛を思い出すよ」

 その言葉に樊噲が頬を赤らめ、鼻をすすったのは言うまでもない。

 

✕      ✕      ✕


 盧綰は、劉邦の親友であった。前世、同年同日に生まれた彼らは、文字通り竹馬の友であり、劉邦が沛の町をうろついているときは、必ず後ろに盧綰が犬ころのように付いて従った。

 そんな彼は、劉邦が一介のゴロツキから、将軍へ、更には皇帝へと出世していくにつれて、同じく地位を高めていった。

 しかし、地位がどれほど良かろうと、盧綰が劉邦の親友であったという事実には及ばない。事実、漢帝国が建国され、劉邦が皇帝になった時、天子劉邦の寝室には何人たりとも入室することが禁じられていたが、親友の盧綰のみが自由に出入りできたのだ。

 その後は劉邦の好意で燕王にまで封建されたが、やはり晩年から始まった彼の猜疑心の犠牲となり、結局盧綰は匈奴の国へ逃亡する。親友であったはずなのに、最後は身の危険を感じて国外逃亡、という儚い過去があったのだ。

 しかし、彼は劉邦そのものを恨むことはなかった。劉邦から反乱を疑われた際には、さほど驚き狼狽することもせず

「陛下は病気のせいで気が動転されているだけだ」

 と、劉邦を信じた(この時劉邦は親征の際に受けた傷が原因で、病を発症していた)。そして、劉邦の病が治れば、一番に詫びを入れるつもりだったのだ。しかし、劉邦は結局、盧綰に合うことなく崩御した。

 盧綰は劉邦を信じていた。最後こそ悲しい出来事が二人を襲ったが、しかし、その短い悲劇は人生の大半を占めた喜劇に及ばない。「願わくば、後世でも……」

 という望みを彼は捨てなかった。そんな二人に宿った宿命が、転生後も引き付けたのだ。もちろん、誤解は真っ先に解け、今でもこうして一緒にいるわけである。

 

✕      ✕      ✕      

 

 以降再開した三人は昔を懐かしみ、お互いの労をねぎらい、そして晩年のわだかまりの謝罪等々、話題が尽きることもなく、気づけば早くも夜明けである。

 そこで一旦、各々自宅へ帰ったが、それ以降、連夜の酒宴にかの三人が居合わすこと久しく、気づけば「転生した劉邦がいる」という噂に「樊噲と盧綰もいる」という内容も加わって、劉邦人気にさらに拍車がかかった。

 古代ではこの劉邦人気が彼を主とする旗揚げにつながったが、現在は太平の世であるがために、ただただ囃す声が大きくなるだけで、別段なにか大事を起こすこともなかった。せいぜいその集客力によって劉邦の飲み代がただになる、というぐらいの利点があるだけであった。

 さて、そんなふうにしてのらりくらりと生きていた劉邦であるが、ある時、もちろん酒を飲んでいるときであるが、樊噲が上座の劉邦に向かって、忙しなく言うようには

「俺がいっとき刑務所にぶち込まれていた時があるんですが、そのときお世話になった刑官がいるんです。でも、その人がいま大変なことになってるんです!」

 と、言うことである。

 なんとお勤めに行ったことがあるという新事実を告白された。(ちなみに樊噲は劉邦、盧綰と同じくこの時二十四歳。どうやら濃い人生を送っているようだ)愚直だが激情家である彼のことだから、おそらくなにかつまらない事を起こしてしょっぴかれていたのだろう。しかし、彼の経歴よりもその刑官について頼み事があるようだ。

 曰く彼が詳しく言うには、務所の中で何かと気にかけてくれたその刑官は、剛毅果断で実直、しかも偉丈の身の丈に傷跡が幾箇所見られ、見た目はどちらが罪人なのか官吏なのかわからない。そして、その実直な性格が災いして、いま現在とあるやくざ者から因縁をつけられたがゆえに、なんと、ここ徐州市に拠点をおく红龍幫という黒社会の連中の事務所に拉致されたという。

 それを受けて樊噲は

「今から乗り込んで事務所に火をつけるなり八つ裂きにするなりして、どうにか連中から彼を助けにいきますが……」

 と言うと、劉邦もびっくりの事を言い始める。

「その刑官は、どうも曹参の生まれ変わりのように感じたのです。こうして劉兄ぃにお会いでき、更には盧綰とも会えたということは、彼も曹参の転生した姿であるように思います……いや、そんな彼と直接話はしていませんから、憶測ですが……」

 ということであった。これを聞いて乗り気になったのが劉邦である。酔っ払った彼女はなぜか元君主としての威厳とメンツを保とうとして、

「お前なんぞの木偶の坊が行ったら、大事になる!私が一人で行くから、黙って待ってろ!」

 と大喝一声。戸惑った樊噲は

「え……でもどうやって助けるんです!?」

 と、当然の疑問をぶつけるが、

「身代金を持っていく。なんなら、今から予約してやる。事務所に連絡しろ!樊噲!」

 と、理由のわからない回答とさらに不安が広がる行動を取ろうとした。

 どうもこの世界に転生した劉邦は、酔っ払ってスイッチが入ると融通が効かなくなる。それを理解していた樊噲は仕方なく事務所に電話してみて、劉邦にスマホを渡した。

 相手は正真正銘のやくざ者で、何をしてくるかわからない。はじめの挨拶こそ、少し丁寧な口調であったが、熱が入った劉邦は

「半端共!曹参を今から迎えに行くから、待ってろ!」

 と、おそらく考えられる口の聞き方の中でも最悪な受けごたえをしてしまった。しかも、

「身代金も持っていってやるよ。それで曹参と交換だ。え?なに?百万元もってこいと?バカ言え!漢の相国が百万元で足りるか!一億元持っていってやる!待ってろ!」

 そういうと勢いよく電話を切った。今宵の劉邦は今までにないほど熱入っていた。

「劉兄ぃ……そんな金、どこにあるんです……?」

 当然の質問だ。劉邦はまともな職にもつかず、日々飲んだくれの生活をしているので、一億元もの資産があるはずがない。

「そんなものはない」

 劉邦はそういうと、すぐさま居酒屋から出て、スマホの地図を頼りに事務所へ向かっていった。

 さて、取り残された居酒屋の連中で、大半は事の経緯が全くわかっていなかったが、盧綰と樊噲は顔面蒼白。

「どうする……?あれじゃあ、バラされて殺されるちまうよ……?」

 と盧綰。

「うーん……まあ、ひとまず、ついて行って、危なくなったら助けよう」

 と樊噲。

 本来なら人の忠告をよく聞く劉邦であるが、最近は極度に酒を飲むとああいう頑固一徹の性格になってしまうから、扱いに難しいところもあった。


       *


 本来、劉邦はさほど勇敢な人ではない。しかし、転生してからというもの、どこか自分の存在に矜持を持ち始めたというか、常に心の奥底で

「私は前漢高祖劉邦だ。他の奴らとは違う」

 という、嫌味ったらしい感情を持っていた。

 だからこそ、今回の暴挙に出たのである。元来、臆病で逃げ上手な彼女が、一億元も持って単身一騎突撃を敢行するのは、すべて前世の威厳の自負が原因であった。

 さて、ちょっとした千鳥足で歩いた後、到着したのは、一見、反社会勢力のそれとは見えない小綺麗な建造物であった。電灯に照らされた壁は暗赤色をきれいに塗られており、それほど厳しい雰囲気を醸していない。

 はて、本当にここであっているのだろうか。劉邦は不思議に思ったが、ここでもじもじしていても仕方がない。再びちょっとふらつく足を動かして、玄関口まで行って、インターホンを押した。

「おう、さっき電話した劉邦だ。開けんかい。持ってきたぞ、金」

 と、さほど威勢のいい声ではないが、しっかりとした物言いで告げると、ガチャと、静かに玄関が空いた。そこから短髪の、人相は悪いがしかし細い男が出迎えて

「まあ、入れ」

 と中にいれる。

 中に通された劉邦は、机が整然と並べられた事務室に通された。室内の電灯が、どうにも薄暗いというか、なぜかちょっとした青色を含んでいるような電灯で、どうにも気持ちが悪い光だった。

 しかし、劉邦と相対峙したヤクザ者は、小柄で厳ついと遠く離れたような男で、確かに人相は悪いが全く恐ろしさを感じない。これは楽勝だな、ともう既に勝利を感じ始めた劉邦であった。

「あんた、まじで来たんだな」

 小柄ヤクザは、そう言った。その顔にはどこか敵対心というような感情が感じられず、むしろ恍惚としているような、よく単身一騎で赴けたものだという、感心が含まれていた表情だった。

(やっぱりな。ちょろいちょろい)

 内心ほくそ笑んだ劉邦であった。彼女はもとからこういう展開になるであろうと踏んでいたのだ。実際、こういう場面でとてつもない度胸を示すと、案外相手と打ち解ける事ができるのである。劉邦はその太く長い前世の経験から、この原理を得ていた。

「それで、一億元はどこにある?持ってきたのか?」

 かの男は真っ直ぐな目で劉邦を見た。

 劉邦はふん、と鼻を鳴らし、柳眉を少し曲げながら

「そんなものは、無い」

 と一言。これに対して、後ろで控えていた、あの出迎えてくれたチンピラが

「な!?てめえ、大法螺吹きやがって……!」

 と、襲いかからんとした剣幕を見せたが、小柄ヤクザがそれを目で制しながら、

「はははは、おもしれえ。気に入った」

 と、大笑い。

(ほれ見ろ。馬鹿なやつは印象だけで人を判断するから、単純だよなぁ)

 と、心の内でこの眼の前の男の哀れを笑った劉邦。彼女が考えるに、この男からみた彼女の像は、熱いほどに仲間を思い、しかも五臓六腑がすべて肝のようで、更には容姿まで端麗な完璧女だとでも思っているのであろう。本当は全く違う(容姿だけは正解だが)のにもかかわらず、であるが。

 そこからというもの、すべて劉邦が想像した通り、トントン拍子で事が進んでいき、遂には

「あんたの度胸に感服して、あの小便官吏は渡してやる」

 と、小柄ヤクザは言った。

「どーも」

 と彼女は頭を下げたが、下を向けた顔には、人を心底バカにしたような笑顔を作って、白い歯が輝いていた。

 何やら奥の部屋からドサドサという音が聞こえて、忽ち連れてこられる、長身にして全身傷だらけ、しかも全裸の男。しかも、今の状況に似合わない、中性的な顔立ちであった。

(あ、こいつが)

 劉邦が彼を一瞥するところ、なるほど樊噲が言うよう、曹参っぽいところがあり。特に短い眉と、引き締まった頬が、古の時代に見たそれとほぼ同等であった。

「こんな姉さんに気に入られて、運が良かったな、このうんこ垂れ官吏。どこにでもいっちまえ」

 と、小柄ヤクザが曹参と思わしき男のケツを蹴って、劉邦のところまでやった。

 全身傷だらけで、疲労困憊であったはずの男であるが、まだ意識はしっかりしているようで、

「あなたは、誰だ……?」

 と、少し混乱した様子であった。まあ、これに関する説明は面倒くさいので、「行くよ」と、劉邦は手を引いて、事務室を後にしようとした瞬間であった。

「面白い女だ!」

 という大喝一声、部屋の四方、どこからともなく聞こえてくる。

 劉邦は全身がビク、と動いた。それはその声である。男の低い声、それはまるで割れた鐘の叫びのような大声であったが、どうにも前世で聞き覚えのある声だったのである。

 しかも、それは生涯において、もう二度と聞きたくないようなもので、苦い思い出を含んだ声であった。

 声の主が、奥の部屋、おそらく曹参を虐げていたであろう部屋から出てきた。足音でそうだとわかる。その正体が何なのか、と気にはしたが、しかし、触らぬ神に祟りなしと言うように、そそくさと部屋を出ようと、強引に曹参の手を引っ張ろうとしたが、

「まあ、待て!」

 と、再び大音声が響き渡る。

 さすがの劉邦も堪忍して後ろを振り返ると、そこには身の丈八尺、すなわち190センチ弱の長身にして、さらにはスーツ越しからもわかるほど筋骨隆々。引き締まった顎が目立つその顔からは、才気煥発そうな気迫がムンムンと立ち込め、両眼には日輪とも言えるような炎が宿っている様に見えた。

 まさか、そんなはずはない、と心の内で繰り返す劉邦。額には焦りで飛瀑のように汗が流れ始めたら。

 そう焦る劉邦を尻目に、小柄なヤクザは、まるで自分の息子を自慢するが如く、知りたくもないような情報を喋りだした。 

「ああ、なんだ?急に出てきやがって。ま、せっかくだから、姉ちゃんに紹介しとこう。こいつがうちの若いものの中で一番勢いがある。名前は項だ。面白い奴でな、小学の頃に勉強を放棄してグレ始めた。なんでも算数なんぞ四則演算ができればいいし、国語などは自分の名前がかければいい、という理由で、学校の授業なんぞ必要ないと言って不登校になったらしい。どうだ。名字の項と、この性格に、加えてこの体躯。昔の英雄である項羽みたいだろう?」

 このヤクザはちょっとした冗談でそういったのであろうが、劉邦としては何も面白みがない。事実、紹介される前から、ひと目見ただけで、あの項羽の姿が脳裏によぎったのだ。それは前世、秦末の動乱期に始めてみたあの姿と、全く遜色ない覇気を身に包んでいた。

「そう……っすね」

 先程までの余裕はどこへ行ったのやら。劉邦はたちまち顔面蒼白、呼吸は荒れて、脂汗が至るところから湧き出てきた。自分は、彼が項羽の生まれ変わりであることを、なんとなくだが直感した。となると、相手もそうであるかもしれない。今は、彼が自分の正体に気づかないことを祈るしかない。そして、一刻も早く帰らなければいけない。

「じゃ、じゃあ、用も済んだし、これで……」

 と、そそくさと逃げようとして、事務室の扉に近づいたときであった。一瞬、劉邦の側頭部に強い風が吹いたかと思うと、瞬時に鈍い轟音が耳元に響く。

「いぃ!?」

 と、驚いて音の方を見ると、自身の頭と間一髪、ドスがクロスの壁に突き刺さっているではないか。しかも、刀身はほぼ壁内に埋められており、とてつもない勢いをもって投げられたことがわかる。

「項!何をしてやがる!」

 劉邦が後ろを振り返ると、ヤクザがかの項羽らしき奴に怒鳴りつけていたが、当本人の項は、右手に反社勢力が愛していそうな大刀の青竜刀を引っ提げ、左手には先程投げつけたのと同じようなドスを一本持っているではないか。

 その男が烈火のごとく顔を赤らせて、

「曹参!その女は誰だ!臭うぞ!俺と同じ、転生した人間だな!?その龍顔には見覚えがある!」

 と言うではないか。もはやこの発言で決まってしまった。この傷だらけの男こそ、正体は転生した曹参であり、そして眼前の虎が如き男は、項羽その人ではないか。

 曹参は傷にもかかわらず、意外とピンピンしているようで

「知ったことか!カタギの人間に手を出そうというのか!えぇ!?」

 と、大喝。

「黙れ!貴様ら、漢の連中だな!いや、そうでなくとも関係ない。その龍顔は俺が殺す!」

 項羽は遂に身を踊らせて、突進してきた。その響く足音は、まるで大銅鑼が如き轟音がし、意気は天を衝くばかりのものがあった。

 力は山を抜き、気は世を蓋う。覇王項羽の怒気、ここに極まった。


 

 

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