現代通俗傾城劉氏鼎漢演義

@hamazyuntaitei

第1話 徐州市にて

 中国は江蘇省の徐州市、といってもわかりにくいから、単に上海から少し北に進んだ場所にある地方都市だと思ってもらえれば良い。

 馴染のない都市であろうから、少しだけこの街の基本情報を話してみよう。

 まず、この地を地理的みると、四方を丘陵に囲まれた盆地で、かつ淮河の東北部に位置する水郷地帯である。また、歴史的に見れば、この堅固かつ豊かな土地を巡って、古来より軍勢必争の地であった。有名な三国志では、ここを舞台に曹操、劉備、呂布等々の英雄豪傑達が苛烈な争奪戦を繰り広げている。

 そんな戦火に見舞われた都市であったが、現在の人口はなんと九八〇万人程。日本で考えれば、首都レベルの人口であるが、中華の巨大さでいくと、これでも一地方都市レベルの街である。これは被害甚大の戦争が繰り広げられたとしても、豊かな自然資源がその傷を癒やすことができたからだ。

 さて、そんな恵まれた地理と豊富な歴史、そして多くの人口を抱えたこの街は、産業も大いに発展している。特に工業がよく栄えており、生産品の種類は、機械や化学製品からシルク製品に革製品と、多種多様である。

 そんな経済的にも豊かな街の見所、特に繁華な場所を紹介すると、居酒屋が乱立した泉山区であろうか。市内の南部に位置し、ここは連日、夜半でも人気の多い区間であった。

 さて、いろいろと話してみたが、ざっくりとまとめると、徐州市はよく栄えた中国の一都市であると思ってもらえるといい。

 しかし、なぜ、徐州市なのか。中国の都市を取り上げるのであれば、そこはやはり北京とか、上海とか、そういうメジャーどころを取り上げるべきかもしれない。そっちの方が日本人の方々にも親近感も湧くであろう。

 そんな中、敢えてこの都市を取り上げた理由は、最近、同市で有名になっている女性に注目したいからである。どうもこの女性は特異的な存在で、他とは違った何かを感じるのだ。

 そんな女性のことを、ここでべらべらと説明するよりも、まずは見てもらった方がいいであろう。というわけで、日も暮れて幾ばくか経った夜、泉山区の街角に位置した居酒屋を覗いてみよう。どうやら、今夜、彼女がそこにいるらしい。

 その店の壁に付けた看板には、ネオン管が「帕布精醸啤酒」という名前を成して、赤く光っている。別段変わったところもない、普通の居酒屋であるが、窓から覗けるその繁盛ぶりは、ここら辺りの酒場の中でも群を抜いている。

 大抵の居酒屋はしがないサラリーマンの某たちが、仕事終わりに訪れる程度であるが、ここだけはまるで祭りでもあるかのような騒ぎであった。

 そんな酒屋の中を覗いてみると、はしゃぎまわる連中とは一線を画した女性が上座に座っている。

 傍から見ると、その人はまさに場違いであった。大声ではしゃぎまわっている衆を尻目に、ただ頬杖をつきながら酒杯を仰いでいるだけなのだ。

 しかも、ほとんど黙っているのだ。天井についた紅提灯から漏れる紅い光を浴びながら、目をちょっと細めて、大騒ぎする連中をひたすらに見つめている。

 これは場違い以外の何者でもないではないか。彼女は、仕事終わりのOLで、静かに酒でも飲もうとしていた所に、このうるさい輩共と不運にも立ち会わせてしまった人なのかもしれない。普通に考えれば、そうである。

 しかし、何かが違う。それは表面に出てくる、わかりやすい異質なところではなく、内面に隠れた、なにか凄みと言うか、なんというか。とにかく、どこか神秘的な畏れを感じるような人なのだ。

 特に取り上げたいのが、その見た目。

 まず、女性にしては長身で、身長は一七〇センチを超えているように思える。

 更には、その顔である。鼻が非常に高いのだ。特に、顔の骨格が中高であるから、それも相まって、天を衝くような鼻をしている。また、眉骨も高く、いわゆる彫りが深い。正面から見てみると、まるで目と眉がくっついたようにも見える。

 この容姿は、まるで龍の顔であった。そして、彼女から発せられる雰囲気は、この龍顔に引けを取らないほどの神秘と威厳を感じさせた。

 この、人を引き付けるような見た目と、発せられる雰囲気が起爆剤となったのか。紹介しようとしていた、「巷で有名な女性」は、まさしく彼女なのだ。

 彼女は現在、徐州市の飲んだくれ連中を魅了して止まない。現に、今夜、この居酒屋の盛況ぶりは、皆彼女をひと目見たいがために集まったからであった。

 しかし、この騒ぎを見るに、どうも見た目とか雰囲気だけが彼女の人気の理由になっているわけではないらしい。実際、彼女は美人であるが、ここまで人を引き付けるような容姿ではないし、雰囲気はどちらかというと近寄りがたい怖さがあるではないか。

 それなのに、なぜ彼女はここまでの人気者として囃し立てられるのか……

 実は、彼女は……

 と、説明する前に、誰かがものすごい勢いで酒屋の扉を開いた。

 その開扉があまりにも力強かったから、店内の一同は静まり返った。皆、入口の方に目をやる。彼女ももちろん、例外ではない。

 皆の注目が、入口の方へ向けられる。そこには、一人、男がいた。しかしながら、尋常ではない男であった。

 まず、体がでかすぎる。ざっと一目して考えるに、二メートル程もあるのではないか。そのくらいの巨漢であって、肌は色黒、そして髪は猛獣の毛みたいに生え伸びていた。

 これほどの見た目なのに、目は丸く大きい。そのため、もはや人というよりかは熊に近い男であった。

 そんな男が、その伸びた黒髪を逆立たせながら、入口に佇んで、キョロキョロとあたりを見渡している。

 幾ばくかあたりを見渡したところ、男と上座に座った彼女との目があった。そうなるやいなや、男はぐんぐんと足音を響かせながら、一目散に彼女へと近づいていく。

 それこそ間近、お互いに触れ合えるほどの距離まで近づくと、男は目を血走らせて、怒号一喝。天まで轟きそうな大音声で

「おのれ、クソあばずれ!てめえか!ここらで自分を劉邦の生まれ変わりだとか何だとかいうやつは!」

 と叱り散らす。今にも飛びかからん勢いであった。

 さて、この男から、「劉邦の生まれ変わり」とかいう言葉が出たが、これこそ、彼女がここまで有名になった理由でである。

 先程、彼女の人気に関して、実際の理由を述べようとしたが、この男に遮られてしまった。いい機会だから、ここで紹介しておこう。

 そもそも、彼女の名前は「劉邦佳」という。この名前だけで、なぜ彼女が劉邦の生まれ変わりを自称するかがわかるかもしれない。苗字と名前の最初を取れば、「劉邦」となるではないか。

 もちろん、そんな子供だましな理由だけで劉邦を名乗っているのではない。

 例えば、その容姿。鼻が高く、眉骨が高いのは、ほとんど劉邦の龍眼と特徴が似ている。ちょっと面倒かもしれないが、検索エンジンで「劉邦」と画像検索してほしい。その際、出てくる色付きの肖像画に注目してほしい。その肖像画に描かれた劉邦には、非常に鋭くて、いかにも怖そうな目つきがあるであろう。その目付きと彼女の目付きはほとんど同じである。

 他にも色々と自称の裏付けがあるのだが、ともかくも、彼女のそういうところが面白いし、容姿を比べれば妙に信憑性がある。しかも、当本人は、嘘偽りがない、非常に澄んだ目で

「私は劉邦の生まれ変わりだ」

 と宣言しているので、疑いを持っていた連中も信じてしまうのだ。まあ、心底から信じているのかどうかは知らないが、しかし、彼女をそうだと信じたほうが、いつもの飲みが数倍楽しくなるではないか。だからこそ、ここ最近の飲み屋街で彼女は名が知れているた。

 今や、どこどこに劉さんがいる、という噂が立てば、仕事終わりのサラリーマンから果ては明らかに未成年だと思われるガキまで、

「前漢の劉邦に会いたい!」

 と思って、どっとその酒屋に押し寄せるのだ。

 そんなふうにして、皆を魅了しながらのらりくらりと暮らしていた彼女だが、今夜のこの大男による尋常ではない怒号。文字通り、親でも殺されたかのような男の剣幕に、彼女含めた満座は、水を打ったかのように静まり返った。

 大男の熊のような瞳に、ぐっと睨まれた彼女は、同じく力強い眼を男に向けた。彼女には臆する様子が全く見られない。

 男は、全く興奮が冷めない様子で

「証拠を見せやがれ!じゃねえと、しばくぞ!」

 と、卓を思い切り叩いた。卓上の酒杯は、その振動で倒れ、彼女の服に酒が思い切りかかった。

 彼女は、別段何も動揺しない。この無礼を食らっても、怒りも不安も見せずに、ちょっと苦笑いしながら男の方を見ていた。

 しかし、激情していたのは、彼女ではなく、周りで飲んでいた劉邦ファンの連中である。さすがの無礼に、皆怒髪天を衝くが如き語気で

「殺すぞ!ガキが!その人を誰だと思ってやがる!」

 とか、

「バラして流すぞ!」

 とかの暴言は当たり前。中には持っていた酒瓶を殺人級の勢いで男に投げる客もいた。

 今にも暴動が起きそうな客達であったが、そんな連中の中に、子犬みたいに頼りがない女が、ぎゅうぎゅうと押されながら

「まあまあ、ちょっと待って!」

 と甲高い声で制した。

 続けて

「劉姉!証拠だってよ!あれ見せてやんな!あれを!」

 と、大声でいった。

 すると、それまで暴動寸前の大衆達が一変。

「そうだ!あれを見せてやれ!」

 と、「あれ」とかいうのを声高に叫び始めた。

 彼女はこの声を聞いて、ちょっと肩を下した。どうやら、喧嘩騒ぎにはならないらしい、と確信したからである。それほど「あれ」を見せれば、この男も信じるだろうと思ったのだ。

 それにしても、証拠として今から見せる、「あれ」とは何なのであろうか。

 ともかく、彼女は

「しょうがねえなぁ」

 と、女性にしては低い声で呟き、どんと卓上に左足を乗せた。満座は静まり返った。どうやら、男を除いてその場にいる連中は、一体何が起こるのかがわかっているらしい。連中は、妙にニヤニヤしていた。

「よく見とけよ?」

 と、彼女は言う。続けて野次馬達が

「見とけよこの野郎」

とか

「黙ってみろよこの野郎。殺すぞバカガキ」

 とかオウム返しのように言って念を押した。

 彼女は、にっ、と白い歯を出して、誇るように笑う。これさえ見れば、お前も疑わないだろう、という自信を含めた笑いである。

 そして、彼女は勢いよくスカートを引いて、白い左足を露わにした。

 その途端、辺りからはおお、という感嘆と驚愕を合わせたような声が聞こえた。原因は、彼女の左足の股である。

 そこには、ホクロなのかもしくはシミなのか、ともかくも黒い斑点が、無数とも言える程に位置していたのだ。

 彼女はその股のホクロを誇らしげに指さして

「ほら見てみろ。前漢の高祖、劉邦には左股に七二個のホクロがあると伝わるじゃないか。これが、私が劉邦の生まれ変わりだという所以だよ」

 と、アオリの角度で男を見つめた。

 この勝ち誇った彼女の言葉に、連中は勢いを増して

「どうだ!わかったか!?」

 と勝利をひけらかし

「わかったら、頭下げろ!殺すぞ!」

 とほとんど脅しを加えた。

 七十二個もホクロがあるなど、気持ち悪いことこの上ない。実物を見せることができないので、皆さんの中には細工を疑う人もいるかもしれない。しかし、これがどうも偽の、つまりは黒ペンでつけたかのような斑点ではないのだ。

 これには男もその無数のホクロの存在を認めざるを得なかった。

 しかも、客達からは、「謝れ!」との命令が飛び交う。自分たちが惚れた劉さんに、無礼を働いたということに対して、そして、本物の劉邦の生まれ変わりを疑ったことに対して、怒りが爆発しそうだ。この怒りの火に油を注いだら、一体何が起こるかはわからない。

 と、なると、考えられる男の選択はただ一つだけ。すみませんでした、とでも謝って無礼を詫びて、そそくさとこの場から逃げるしかない。

 罵詈雑言を放つ大衆の誰もが男の謝る姿を想像したであろう。きっとこの男は、泣きを入れてこの場から退散すると。

 しかし、男はそんな衆の予想に反して、ひたすら劉のホクロをまじまじ見ていた。そこには、謝ろうとかいう感情は全く感じ取れず、この集団の暴言に屈しているような様子は見られなかった。

「な、なんだ?どうした?なんで何も喋らない?」

 流石に劉もその男が気味悪くなって、上目遣いで彼を見た。

 すると、その時、男はがっと彼女の左足を掴んで、ホクロに一つ一つ人差し指を当てながら

「いち、にい、さん……」

 と数えていった。

 その場にいる全員が、この奇抜な行動に興冷めしたのか、暴言は次第に飛び交わなくなっていった。


       *


 時間は日をまたいだ深夜である。春の肌寒い夜風に吹かれながら、飲み屋街の外れにある公園で、男女が三人、黙々となにかしていた。

 事の経緯を知らない者が、この三人を見たら、なにかいかがわしいことでもしているのかと勘違いしてしまうだろう。実際、一人の大男が、もう一人の女の左股を鷲掴みにしながら、目を大きく見開いている。こんなところで青姦しているのか、とこれを見たものは考えるかもしれない。

 しかし、この三人、実は先の飲み屋で一悶着あったあの三人なのだ。

 女の股を鷲掴みにしているのは、あの大柄な熊男。そして、掴まれているのはもちろん劉邦の生まれ変わりと名のしれた女。もう一人、そんな二人を眠そうに見つめている女がいるが、これは劉に左股を見せるよう助言した子犬のような女である。

 この様子からわかるように、なんと男はこの深夜の時間帯までホクロを数える作業を続けていたのだ。

 この作業があまりにも長すぎたがため、居酒屋はとうの昔に閉店時間を迎えた。もちろん、三人は追い出され、そして仕方なく、行き着いた場所がこの滑り台一つ置かれた簡素な公園だったのである。

 大きなあくびをした子犬女が、徐ろにポケットからスマートフォンを取り出した。電源をつけて、彼女が時間を確認したところ、もはや時刻は朝の三時十数分であった。

 彼女は大きくため息をついて、

「あんた、いつまで数えてんのさ……もういい加減やめなよ……」

 と呆れ半分、懇願半分のような口調で男に言う。

 これに男は全く反応しない。仕方なく、女は劉の方に目をやって、

「劉姉、もう帰ろう。こいつ、頭おかしいよ。もう警察いこう」

 と話しかけたが、肝心な劉は公園の砂に寝っ転がって眠っていた。今までの男の態度からして、なにか乱暴を働くような様子はなく、安心した彼女はとうの昔に夢の中へと旅立っていたのだ。

 「だめだこりゃ」と彼女はつぶやいて、同じくその場に寝っ転がった。

 もはや、三人の内、誰も喋らない。男は黙々と作業を続けて、女二人は横になって寝ている。

 静寂が、その場を包んで幾ばくかしたと思ったその時、

「八十三個だ!!」

 と、男が大声で叫んだ。寝ていた二人は、ぎゃっ、と悲鳴を上げて飛び起きる。

 二人が男を見てみると、彼はさっきまで掴んでいた劉の足を離し、彼女の少し後ろへと体を退いていた。そして、頭を垂れている、という言葉が最もふさわしいように、額を地面の上へつけていた。

 更によく見てみると、この男、少し頭を震わせ、かすかに鼻を啜っている。顔の表情は見えないが、泣いている、ということが想像できるような様子だった。

 この男の態度に、二人は驚いた。いや、驚きというよりも、あまりにも感情の起伏が激しいこの男に対して、一種の気持ち悪さも感じているようだ。居酒屋に乗り込んで来たときは、熊か虎のように気持ちを高ぶらせ、ホクロを数えているときは唖のように黙りこくり、そして今は処女のようにすすり泣いている。感情の上がり下がりがまるで蜀の峰巒と幽谷のようではないか。

 二人は顔を見合わせる。どうする、と目で尋ねあい、少し間をおいてから、劉が

「じゃ、じゃあ終わったらしいから、もう帰るわね。あ、あと、ちなみに本当の数は七十二個よ……」

 といって、立ち上がったときであった。

「沛の町で数えたときもそうだった」

 と、男は顔を地面に伏したままつぶやいたのだ。

 劉は尻についた砂を落とそうとした両手を止めて、下目を使ってその男を見る。彼女が動かそうとしていた足は、ぴったりと止まってた。

 「沛」という言葉の響きが、彼女にって懐かしい。そこは故郷とも言える場所であった。生まれこそ、沛から離れた豊邑という田舎であるが、農家である実家の手伝いもせず、いつも沛の町へ繰り出して、どこともなく遊び呆けた。そしてそこの連中、任侠の徒と言えば聞こえはいいが、実際はどうしようもない無頼漢と共に旗揚げし、天下を睨む足がかりとした場所でもある。彼女にとって沛という場所は、そういうところであった。

 さて、ここで認識を改めなければならない。これまで彼女は、あくまでも「劉邦の生まれ変わり」を自称している、と述べてきた。しかし、それは自称ではない。真実である。つまりは、前漢の高祖が現代に転生した姿が、彼女だったのである。

 だからこそ、「沛」という町の名前の響きは、人一倍彼女の胸にこだました。

 劉邦は一瞬だけ、ある考えがよぎった。この男も自分と同じで、当時を生きた人間の転生した姿なのではないかと。

 しかし、そんな空想のような展開が、簡単に起こるわけではない。

 冷静になった彼女は、男を見下ろしながら

「沛県で?そんなとこで会ったかなぁ?覚えてないわ」

 と、伝えたあと、「それじゃあ」といって足を進めようとした。

 ややこしい話だが、「沛県」というのは現在も存在している地名である。日本は市が集まって県となるが、中国はその逆で、県が集まり市となる。沛県は徐州市に含まれる一県であった。

 男はその町でも劉邦のホクロを数えたと言っているのだろうが、彼女は全く記憶にないのだ。

 なんだ、結局気狂いだったか、と内心呟き、そばにいた連れの女に「いこう」と言った。

 これで、一夜限りのおかしな出来事が、完全に終わるはずであった。が、しかし、男が呟いたもう一つの言葉に、またも彼女らは足を止められる。

「違う。沛県じゃない。秦末期の沛だ」

 秦という言葉に、彼女らは完全に立ち止まった。男の言いようからして、これは話の語り出し。彼女らはしばらく黙って聞くことにした。

「俺がまだ犬畜生の屠殺で飯を食っていた頃だ。いつも足を運んでいた武媼さんの店で、赤龍の子を名乗るあなたと出会った時も数えた。俺はつぶさに八十三個と数えたが、その時もあなたは七十二個と言われた」

 ここまで聞くと、劉邦はしゃがんで男のつむじを見た。もうこれ以上、喋る必要はない。劉邦は感じた。こいつも転生者なのだと。そして、大方誰なのかの予想も。

「お前、名前は?」

 つむじを見る。そこに男の両眼が位置するのを待った。

 男が顔を上げた。二人共目が合う。千里をも見通す龍のような鋭い劉邦の目と、獰猛だがそこに愚直さと可愛げを含んだ丸い男の目が、重なって瞬間の静寂を生んだあと、

「樊噲、諡号は武侯、劉兄ィ、まさかこんなところで会えるとは……!」

 と、声を震わせた。

 樊噲の顔には、流れた涙に連れられて、湿った砂が頬にへばりついている。先程まで熊のように恐ろしく感じられら顔が、どこか愛おしさも含んだ様に見られた。

 「そうか」と呟いた劉邦は、しゃがんだまま動かない。じっと樊噲を見て、なにか声をかけるわけでもなく、その場で止まっていた。

 なぜ何もしないのか。感動の再開ではないのか。輪廻を超えて、この現世にかつての仲間が現れたというのに。

 しかし、本当は何もしないのではなく、何もできないのであった。

 だからこそ、劉邦はその場でじっと止まっているしかなかったのだ。

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