七

 

 

 朝の台所に二人とも並んで立っている。

 山上がパン担当、千本木がコーヒー担当。調理場スペースに置かれた白く丸いお皿には、ハムとチーズがクロワッサンに挟まっている朝ごはんがもう準備万端という顔をしている。

「コンチネンタルブレックファストです」

「横文字がかっこいいですがようはなんですか」

「ヨーロッパ朝ごはん!」

「なるほど」

 そう言って山上は立ち上がるとオーブントースターにクロワッサンを入れ、ツマミを回した。

「寝過ごしましたね」

 そう山上が言っても、全然遅刻はしないゆっくりする時間が減るくらいで。

「今日私たちどっちも仕事ですね」

「一緒に出ますか?」

「ぜひ! 冬子さんてお昼いつもどうしてるんですか?」

「面倒くさいのでくぬぎで買ってます」

「あーいいなぁ。私も今日くぬぎにしよう」

 チン!

「毎日これくらいだと、昨日の朝ごはんとかが…………んぐ。ちょっと目立っていい塩梅ですが……でもあれ美味しかったですし……」

 席について朝ごはん。もっぐもっぐと口の中の水分が持っていかれるのを、コーヒーで防いだ。

 ハムとチーズの塩気にオーブントースターで焼いたこんがりのクロワッサン。シンプルだからこそ、アイスクリームを乗せたりしていた朝ごはんの中で、キラリとした光を放つ。

「もう一回食べたいということですねあれを」

「シェフにお任せします」

「お任されました」

 お皿を綺麗に平らげた山上と千本木は、それぞれの準備を始めた。

 山上がお皿を洗ってる間に千本木は着替える。仕事用の灰色ワイシャツを着て、スーツのような黒いスマートなズボンを履いてびしっとすると、髪の毛に櫛を通す。

 いつもの朝が少しだけクイックに。

 そしてちょっと気を使って。

 普段から手抜きはしていなかったが、山上が来てるからか念入りにして、髪につける霧吹き型のトリートメントの量を一回分増やすくらいには、ちょっと気合いが入っているような千本木が洗面所から戻ると、山上は荷物を整理していた。

「着替えおわりましたぁ」

「じゃぁお借りします」

 とたとた服を持って歩いていく山上とすれ違うと、自分と同じ匂いがして千本木の胸はきゅんとした。

(もうそういえば四日目なんだっけ)

 他所の家の香りがしていたのだが、洗濯もここでしているしシャワーも同じつまり洗剤類はみんな千本木と一緒ということ。彼女からはコーヒーの匂いがすると、以前山上は言っていたがそれは仕事の匂いだったのだろうか。

「山上さん」

「なんですか?」

 白いワイシャツのボタンの前を止めながら山上は顔を出した。

 千本木はその彼女に近付くと、すんすんと香りを犬のように嗅ぎ回る。

「…………」

「やっぱコーヒー感足りないですね」

 人の匂い嗅ぎだして急にどうしたんだコイツ……という怪訝な顔をして山上は黙りながら、襟元を整えて全身のチェックをしている。

 推定それを言われた現場の香りか、それまで遭遇していた仕事時の分纏っていたもののイメージの積み重ねか……と、千本木はうむうむ一人で頷いた。

「何してるんですか……」

「前ほら、コーヒーの香りするって冬子さん言ってくれたので気になって」

「ああ……」

「でも同じ香りしますね!」

「そりゃ生活の場一緒ですからね。ほらそこよけてください、通りますよ」

 着替えもしっかり終わった山上はすとすと歩くと、荷物をまとめている所へ歩いて行った。

(つんつんしてる? よく寝れなかったのかな)

 ちょっとズレてはいるが、晩ごはんは頑張って美味しい物にしようと千本木はスマホを開いて検索画面を表示した。

「今日の晩ごはんパスタですけど希望ありますか?」

「ん……、クリーム系がいいかなと思います。ソース買って帰りましょうか?」

 少し考えるような素振りをしてから、山上がそう提案してきたので千本木は目を開いた。

 料理好きとしてはちょっと悔しいような気もしたが、楽できるし美味しいソースの研究だって出来るので断る理由もなかった。

「いいんですか!」

「ええ。帰り待ち合わせて買い物もいいかもしれないですね」

「ぜひ! あの前のベンチのとこでいいですか?」

「了解です」

 しかも一緒に選べるので山上の好みも知れると、前向きでいいこと尽くしだった。

 午前の快晴として雪粒ひとつひとつがキラリとする中に、ふたりは初めて共に仕事へと赴く。

 転んだりなどのアクシデントもなく地下鉄駅について、地下鉄に乗った。

「あれ、冬子さんくぬぎ行かないんですか?」

 目的の駅に着くとすぐに地下直結のくぬぎに向かおうとして千本木は、直進する山上のコースに疑問を持った。くぬぎのある箇所は地下鉄直結通路が設けられているので、地上から行くよりもずっと近いのだ。

「買ってから時間経っちゃうのが残念なので。今日は休憩時間で買います」

「あーそっかたしかに……!」

 折角なので千本木もそうしよう、ということで山上と同じルートを辿った。

「じゃあまたあとで」

 小さく手を振ってくれたので、振り返し、また帰りの時にと。

 千本木は山上と別れ、自分の働く角美珈琲店へ向かうと、店員用出入り口から入っていった。


 ====


「冬子さんお待たせしましたっ」

 山上はベンチから立ち上がるとぽすぽすと、ズボンについたホコリを払う仕草をした。

「今日は職場の人に、機嫌よさそうですねって言われましたよ」

「ほへ。なにかあったんですか?」

「良さそうだったんでしょうね。園家さんて人なんですけど、あの人よく見てくれてる人なので」

「園家さん……?」

 なんとなく覚えてる顔で照合すると捨てられた子犬のような目をした、全体的に儚そうな人が浮かぶ。

「頭ふわふわの人です」

「たぶん見たことあります」

「アルシェピース大人買いの時のレジの人です」

「あー」

 ──そして仲良さそうに、山上と独自の言語かなにかで話していた人とぴたりと一致した。

「山上さんと仲良い人ですね」

「仲良いんですかね? わかんないですがいい人ですよ」

 山上がはぐらかしたような事を、苦笑しながら言った。

 信号機の渡れる音が千本木にはやけに遠くに聞こえた。山上が歩き出したのに釣られることで、横断歩道を渡っていく。

 自分といるよりはるかに気楽そうな話し方をしていた気がするし、頭ふわふわでどちらかというと可愛い見た目の部類だし、並ぶとアリなのだろうか……、と、千本木はもんもんとした。

「どこで仲良いと?」

「……雰囲気?」

「そうなんですかね」

「楽しそうでしたよ山上さんが」

「そうですか……」

(なんかちょっとイヤそうな顔だ……)

 それにちょっと一安心すると、地下鉄の階段が見えてきた。

 人が多い時間帯の中で、雪と寒暖の差でツルツル滑る拵えになった階段を並んで、千本木は手すりをつかんで降りていく。

 地下になるにつれて、さして寒くない真っ平らな床へと変わっていくので、降りる速さは自然と上がっていった。

 

 ====

 

 お手軽で美味しい、中々いいお値段のカルボナーラのパスタソースで作った晩ごはんを食べ終えひととおり落ち着いたあと。

「レンコンとしゃけのサラダ、作ってみませんか」

 晩ごはんを食べ終わってお茶を飲んでいた千本木はまばたきをして、すぐに思い出した。

 レンコンを泥だらけになって収穫していた表紙のあのマンガ。

 山上の好きなひとつのマンガ。

 憧れるようなスローライフとひとさじのファンタジーと、優しい世界に楽しい生活の詰まった、あの作品に出ていた料理をこの現世に顕現させようと言い出した。

「実際に?!」

「結構そういう人もいるんですよ。ほら」

 SNSでざっくり検索したものを山上はスマホに表示する。千本木の知らない作品の『茄子とベーコンのパスタ&フレンチドレッシングのサラダを再現しました!』というものから色々と見せてきた。

 覗き込んで指で画面をスライドさせていくと、思う以上にたくさんの写真、ある時は動画で登場した。

「……作ろうって思う人結構いるんですね」

「千本木さんはてっきりする方かと」

「そんな発想してなかったですよ」

 人間興味なかったら知らないもので、アルシェピースにすっかりハマって本屋にちょっと足を運ぶようになったのもここ最近だった。

「だから休みが同じ日あったと思うので。また買い物行っていっしょに作りましょう。レシピは漫画で確認して」

 山上は“全賭け”の入ったトートバッグを置いてた場所からテーブルまで持ってきた。

「荷物増えたなとは思ってましたけど、持ってきたんですね」

「あらためて読み直すいい機会だったんです」

「あとでお借りします! 今日は今日のメモしとかないと」

 朝にはそんな時間が微妙に無かったので、今朝のコンチネンタルブレックファストのから千本木はまとめていく。

 あれは美味しかったし、ペンを持つ手がするする進んだ。しかし今日の晩御飯は仲良く、買い物して決めたパスタソースだったのだが……、千本木の表情はそこまで明るいものにはならなかったのでその速度はめっきり落ちていた。

「冬子さん、あのカルボナーラどうでした」

「……あれの感想もですか?」

「ええと、私としてはもうすこしチーズ感少なめの方が好きかなあって、思ってたんです」

「カルボナーラあんまり好きでない感じですか?」

「というよりは独特の臭みというか……?」

「ああ、ちょっとクセある感じはしましたね……、ケースに本場ローマの味って書いてあったから多分それじゃないかと」

「ぁー…………」

「なんでしたっけ……、ほら。中華料理とか本場だとアレだから、日本人向けの味になったとかそういうアレなのかもしれませんし……」

「なるほど……」

 コンチネンタルブレックファストな朝の物と、先程食べた本場の味再現カルボナーラの所見を、ノートにまとめきった。

(よし)

 今日のページを埋めると、満足げに千本木は読み返し再びペンを持ちながら、山上が近くに置いてくれた全賭けスピリットベアーを手に取り該当巻を開くと、使用材料などをまた別のページに書いてまとめはじめた。

「ドレッシングは作ろうか市販の和風のやつかで悩んでるんですけど、市販の方でもいいですか? 今日のアレみたいになってもやだなって」

「もちろんです。手間かかりそうだしお口に合わない方が問題だし、全然いいと思います」

 学んだことを早速活かすように、ペンを走らせる。

(料理マンガ原作のドラマとか、あった気がするしそれもちゃんと作ってるんだろうし……、そういうものなんだな)

 まだまだ世界はたくさんあるんだな、と千本木は書いてくうちに色々思うと、自然に口角がゆるゆる上がった。

(好きの力ってすごいな)

 少なくともそうでなきゃ、自分では思いつかなかった。

 やってみようと思ったのは楽しそうだから。これから作っていく過程とかを想像するだけでもそうだし、そもそもの作中のクマや少女たちが楽しそうだった。

 作る自分があのクロクマとすれば、提案してくれた山上は少女。いればきっと物語のような景色になること違いない。

 一通りまとめ終わると千本木の胸は高鳴ってきた。イメージトレーニングとして、先ほど山上が見せてくれた系統の動画をチェックしてみようと動き始めせっかくだしと、アルシェピースのもので検索すると早速出てきた。

「冬子さんこれ一緒に見ましょうっ」

『アルシェピース長兄特製、肉増しチャーハンを作ってみた』という動画を千本木は見せる。

 サムネと出だしに、ひき肉と米がほとんど割合同じのように見えるトンデモチャーハンと、後付けで大きな一口大の肉とレタスを添えた一皿。間延びした解説音声と反して手際よく、料理ガチ勢なのか中華鍋を使用し米とひき肉の割合がおかしいチャーハンを錬成していく。

「前にも見たことありますが豪快すぎで……ね」

「胃もたれしそう……」

「リスペクト精神高すぎる……ますね」

 丁寧さを無くした物言いをなんとかこらえてるような、ツッコミのような感想が隣の山上から聞こえてくる。

「……素でもいいですよ?」

「そういうわけにはいかないです」

「まきのんにはああだったのになぁ冬子さん」

「あれはまあ……」

「ふーむ……」

 ──まきのん(さん)だしなあ。

「お泊まりする仲ですし」

「いえ。千本木さんには変なところ見せたくないので……」

「変ですか?」

「現実は仮面マスクの下に美男美女とはいかないんですよ」

「マスクの下よりマスクの方が気になるんです」

「…………しょうがないですね」

 牧野だから、で千本木と山上は心が一つになった気はするが、千本木の気は不思議とそれでは収まらなかった。

 変なところというか、そういう部分はもっとなんだか見せてほしいと思った。

 諦めてちょっと微笑んでくれた顔に悪いことしてしまったかなと、ちょっとばつが悪そうにしながらお礼を言えば山上は「お気になさらず」とだけ言ったのだった。


 ──お泊まり六日目、土曜日。

 ふたりとも休日であったためちょっと寝坊しても困らない朝は、いつもより寒く布団にくるまりたい気持ちでいっぱいだったが、山上が暖房をつけてくれたしとふんばって、千本木は布団から這い出た。

「これが夜仕込んでたやつの正体ですか」

「はい。フレンチトーストとコールドブリュー……アイスコーヒーのお友だちみたいなものです」

 だんだんと熱であったまってきた朝にぴったりな、なんとも至福の朝ごはん。

「ん……苦味少なくて華やかな香りします。浅煎りでしたっけ。それですか?」

「それにプラス、ゆっくり水で抽出したので苦味が控えめになるんですよ」

「へー、奥深い……ですね」

 甘くて冷たいアイスは、焼きたてフレンチトーストで溶けていく。くどいと感じた頃に挟むコーヒーは軽めの口当たりで、ふわっとしながら喉を潤していった。

「夏にたべたくなる爽やかな朝です」

「冬はだめですか?」

「北海道らしくて好きですよ、この暖房効かせたのにアイス食べる感じが」

本州あっちはどんな感じなんでしょうね」

 もしゅもしゅとフレンチトーストとコーヒを口元に行き来させる。

 秋に修学旅行に行くことはあっても、冬事情は全国ニュースの背景でしか知らない。北に近いこっち側とか除くと雪がなんと、積もらなくて普通の靴で歩けるし、雪が積もってしまった場合例え数センチでも、電車が止まるのだという。ナチュラルに北から目線の会話をふたりはしていた。

「雪積もんないですしね、そんな大したことないんじゃないでしょう。暖房もそこまで焚かなくてよさそうだし少し羨ましいですよ」

 もっとも、外出の際もっこもこに着込んでいる山上は「着込まなくてもいいですしね」と付け加えた。名前に“冬”が入っているが本人の意思とは無関係の贈り物そうで、千本木はくすりとした。

「もこもこ可愛いのにな」

「…………」

「になー」

 おととい、あれからというもの千本木は、ちょっとずつ喋り方をくだけようと努力している山上にこんな事を直接言うようになったのだ。

 受け取り手がムスッと静かにしているからこうなるのであって、あくまでこうやっていじわるしたいわけでは無く千本木としては、最近親しくなったと感じているこの山上が、可愛くて仕方ない純一たる行動に過ぎないのだ。

「お買い物いつ行きましょうか」

「いつでもおっけーです」

「では午前中のうちに済ましましょうか」

「はーい」

 鉄壁な対応に雨晒しの犬のようにしゅーんとはしたが、千本木は笑ってそう答えた。

 着替えて買い物に外へと出ると、雪積る住宅地を抜けて大きな通りに出て、さらに進んで駅にほど近く、前回山上が行ったのと同じスーパーへと向かった。

 白い照明がまぶしい店内に入るとカゴは千本木が持った。もの言いたげな目で山上から見られたがスルーして、まずはサラダの最も目立つ部分である葉っぱ類を求めていくと、レタスとサラダ菜が並んでいてふたりは漫画での描写を検討し結果、サラダ菜をカゴへと入れた。

 レンコンももちろん忘れておらず生のもので大きめのを一つ入手して、続けて晩御飯向けという形式に合わせて、お手軽炊き込みご飯野菜セットを千本木は手にした。

 鮮魚売り場には鮮魚じゃない、山上が見た時とかわらず保存用な塩しゃけしか並べられていなかった。作品で使われていたのは採れたてのしゃけで、ようは秋ならスーパーだと確実に並んでいる生しゃけなのだ。

「塩のしゃけしかいないですね……」

「マーニくんはお酒いれて茹でてましたから塩出てくるかもしれないですよ」

「……下味付きということで?」

「うむ。ドレッシングかけすぎ注意しましょう」

 無いものは無いので塩漬けされたしゃけで妥協した。

 翌朝のための材料も千本木は買ったりしたので、カゴの中は結構な量になっていったのを山上は華麗に全額、クレジットカードで支払っていった。

 お昼ご飯はふたりとも休日なのだから、千本木が自信を持って勧められる近場の洋食メインのお店で割り勘で済ました。

 帰ってきた後は何をするか千本木は悩んでいた。なにか一緒にすべきだろうかと思ったが、読書会みたくそれぞれ好きな事をして過ごしていいわけであるしと思うと、彼女は調理器具の手入れとかのために台所に立った。

(炊き込みご飯は先にやっちゃっていいんじゃないかな)

 と気付いたので、さっそく冷蔵庫から材料をとりだしてきて、お米も一合分出して研ぎ始めた。

(冬子さんて本以外何が好きなんだろう……)

 確実にインドアだとして、千本木の本も普通に読んでいたため本であればなんでも、なのだろうしと結論付けていけるが本以外は全く浮かばないまま、水と米を炊飯窯に入れてジャッジャッと冬のひんやりした水で研いでいたが、山上のことを考えていたこともあっていつもより長くずっとじゃっじゃか研いでいた。

「長くない?」

「わやっ」

 横から山上に、完全に不意を突かれた形で声をかけられて気付いた。

 とぎ汁を捨てるとめんつゆで味付けし、ニンジンやゴボウ、たけのこといった炊き込みご飯セットの具材も入れて混ぜ炊飯器にあとは託す。

 ここまで来たらレンコン先に茹でてしまおう、となったのか千本木はまな板と包丁も取り出した。

「なにかできることは」

「だっ大丈夫です……!」

「ふーん……」

 水を入れた鍋を火をかけて、冷蔵庫からレンコンと……サラダ菜等を取り出した。

 サラダ菜を洗ってちぎり始めると山上の手が伸びてきたので、そっちは山上に任せて千本木はレンコンをちょっと薄めくらいに切っては鍋に入れていき、あとはもう鍋任せ。ボウルの水をざぱーと流す山上の方も無事サラダ菜の処理が終わったようで、ほっと一息ついた。

「鍋見てるんで座ってて大丈夫ですよ」

「えっ」

「考え事してるんでしょう」

「じゃあお言葉にあまえて……」

 上の戸棚からフレンチプレスをとりだすと、フレンチプレスのパーツを分解してシンクに置くと水洗いして、ガラスの胴体部分も銀色のブランジャーの歯車のようなパーツたちも、ふきんで曇り一つない状態へと仕上げていく。

 白いカーテンが開いて、昼間の光が存分に注ぎ込まれる室内でそれらはぴかりと輝いた。

 千本木のもとではコーヒーを淹れる専用の器具として扱われているこの器具は、今は三代目の品だった。

 高校生の頃に千本木ははじめて、今の店に父と行ったとき珈琲の良さと奥深さを知り大学生からだと知った上で頼み込んで、高校生の時からバイトを始めた。お店は珈琲がメインであってあくまで、お菓子は店頭で作らない完成品が八割を占めている。

「前に冬子さん、私のこときらきらだって言ってましたよね」

「ええ」

「今こうしてるのはいいですけど、お客さん相手は大丈夫かなって……」

 なんなら大学の専攻を千本木は経営学部を選んでいるしそれは当然、店長は知っている。将来を期待されているのは間違いない、はずで。

 様々な可能性が考えられるというか、茶化すように店長から言われた事達を思い出すと料理する腕にも力が入っていた。今回のような事はけっこうあったが、卒業の手前よりもっと高めていかなきゃいけないと普段以上で、いつも食べてる人じゃない人がよくてそんなときに、山上が現れて。


「あなたがお仕事でやれるようになるための被験体ですよ私は。大きな賞とか受からないと思って提出する人いないでしょ」


 冬の夜空を纏うくるりとした群青色の瞳で見上げてきていた。

 今までのように穏やかな笑顔をして、陽射しに瞳を透かしながら。

「千本木さんの出す料理はちゃんと美味しいですし。急にどうしたんですか」

「いえっ、これ磨いてたらちょっとそう思っちゃって」

「へーおセンチですね」

 山上はレンコンを茹でていた鍋の火を止めると、シンクに水を捨ててボウルとざるに移し酢水をつくるとそこに注いだ。

「あっありがとうございます……」

「……きらきらですねやっぱ」

「はい! きらきらですよ」

 にかりと笑うと、目を逸らされた。可愛いと思ったがからかうことはしなかった。

 夜までの時間に磨かれたてのフレンチプレスでコーヒーを千本木は入れて、おやつの時にふるまった。


 大きな白い器にまるっと盛られた、きみどり色で柔らかく厚いサラダ菜の上。丸く切り抜かれた花弁のような白いレンコンと、身が茹でほぐされたシャケ。

「見た目っ、これすっっごい可愛いですね!」

 サーモンピンクとレンコンの白と、サラダ菜の鮮やかなきみどり色が彩を魅せるそのサラダをバランスよく、山上は取り分けていく。ドレッシングは和風のものを選んで、しょっぱくなりすぎないようにか加減してゆっくりかけていた。

「味噌汁も炊き込みご飯もばっちりですよ。せっかくなので写真撮りますね!」

 千本木のスマホからシャッターの降りる音がパシャんと響いた。

「「いただきます」」

 撮影が終わると手を合わせて言って、大きな身を箸で崩し、サラダ菜たちと一緒に口へと運んだ。

「レンコンのシャキシャキした感じと……しゃけのほぐれた身がふかふか美味しいです。見た目だけじゃないです」

「いつかちゃんと生しゃけでやりたいですね」

「来年の……、もう今年か」

「そうですよ、楽しみですねっ」

「ふふ、そうですね」

 お酒を混ぜることで生臭さの消え、茹でたことでほどよく塩分が抜けたしゃけはふっくらとした歯触りで、きっと“全賭け”のクマと少女が食べたのとはちょっと違うのだろうが、特別な味だった。


 ──七日目の朝が来た。

 早めに起きた千本木は、全賭けに影響されたクレープシュゼットを作っていく。

(山上さん喜んでくれるかな……?)

 ちなみに明日が喜ばす本命。山上も喜んでいたあのバタートースト~バニラアイス添えの予定である。千本木のメインは朝ごはんであり、その回数が増えるのだから山上を帰すのは今日ではなく、明日の朝なのだ。

 クレープシュゼットこっちはオリジナルではなく、急遽ネットで検索して出てきたレシピを参考にして、朝からクレープ生地を焼きオレンジジュースをチンしたりして、生でカットしたオレンジも添えて──もちろんセットの飲み物は牛乳で!

 当然の結果として山上は喜んでもちゅもちゅとクレープシュゼットを食べて、ちょっとふざけてかメープルシロップをご所望してきたため、千本木はちゃんと出してあげるとあわてて「大丈夫ですからっ」と言われたのは、ちょっとくだけてきていた証拠だ。

 二人とも仕事であったため、四日目のように朝は一緒に出て普段通り働いた。

 土曜よりも人は少なく忙しくない、とはいっても世間のたくさんの人間が休日なので結局人の入りは多かったが、表立つようなトラブルも無い労働の日曜日だった。

 

「次の巻いつかなあ」

 千本木は自分の小さな本棚を。今朝のクレープシュゼットのことを綴りながら見て呟いた。

 その作品は牧野が勧めたあのアオハルのもので、あの作品は週刊連載のものであったから約三か月に一度くらいで、続きの巻が出る。

「ちょっとまっててください」

 ワンルームのこの部屋にはよく響くので独り言は、洗い物をしていた山上の耳に届いたようで、洗われていた晩御飯の食器が羽をぶつけ合うかちゃがちゃ音が止む。

 ハンドタオルで山上は手を拭いて、ぱたぱたと本棚へと向かった。

「いいのに冬子さんそんな」

「あとちょっとだったから。どのタイトルですか」

「『澄空色に染まれ』です」

 コミックスを手に取って一番最後のページをすぐ開き、次はスマホを取り出すと雑誌の公式サイトに出ている新刊予定カレンダーを確認する。まじまじと山上は眺めていたが、とくに延期の予定も書かれていなかったようで千本木へと画面を見せることもなく、ホームページの表示されたタブを消した。

「順調なら二月には出るんじゃ、ないですか」

「ありがとう冬子さん」

「……どういたしまして。バレンタインとかなんかフェアやりそうです、出版社側が」

 なんとも重苦しいため息を彼女はついた。あまりいい思い出でも無いのだろうかと千本木が心配しかけたところで、その視線に気づいたのかあいまいに山上は笑いかけた。

「熱心なファンの方々は大変な季節みたいですよ」

 自分は熱心なファンではないので想像つかなかったが、察するに色々大変らしい。

「うちのお店でもチョコやる予定です」

「チョコとコーヒーはペアリング定番ですから。ぜひ食べにきてくださいね」

「そうですね、考えときます。えーとそれで……今日も泊まってでいいんですよね」

「もちろんです! 明日の朝はアイスのやつにしますからね」

「……それは楽しみです」

 洗い物のために山上は立ち上がった。

 女の子の中では低いというほどじゃない身長だろう彼女も、千本木から見ればちょうどいいサイズの女性な彼女のことを千本木はまじまじ眺めている。

 バレンタインといえば思いを伝える日、関係性を認識する日、好きを知る日。

 ショコラティエ・カツールを選んでくるし、食レポは上手いし多分美味しい物はもともと好きなのだろうから、美味しい物をくれるに違いないのであるが。鉄壁の山上がはたしてくれるかどうか千本木はイマイチ答えが出なかった。

 自分は間違いなく山上には渡すので。園家やちらっと見かけた眼鏡の男の子だったり、職場に本命がいるのかなとその背を眺めて思い馳せていた。

「なんですかじろじろ見て」

「冬子さんっ、バレンタインください!」

「何言ってるんですか……」

「あはははは……いやぁ……」

「最近の子怖いですね……シャワーかぶってきます」

「はーい……」

 アホな男子高校生のようなことを言ってしまって、顔から火が出そうになった。

(いや友チョコ! 友チョコだから!)

 結局山上はくれるのか答えてくれずじまいだったが、自分からあげるだけでもいいという気持ちになった。なんてったってホワイトデーもあるのだからきっとしっかり者の山上であれば、渡せば返してくれるだろうという確信が千本木にはあった。

「おやすみなさい」

「おやすみなさーい……」

 今日から明日にかけてまでも、付き合ってくれる山上なら。

 目の前で瞼をおろしている山上のことをじーっと見てから、千本木は眠りについたのだった。


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