雲外蒼天 其ノ三

「では参りましょう。宮中の者に見られると時間を取られますから、なるべく声は出されぬようお頼み申し上げます」

 それだけ言うとヒナタはさっさと踵を返し、八重も黙って彼の背を追いかけた。

八重に与えられた待雪殿は暁宮の外れに位置する。曇天を衝くように高くそびえる

壁沿いの小径を足早に歩く間、人影はほとんど見られなかった。するとヒナタは警戒

を緩め、薄い唇を小さく開いた。

「戦況は芳しくありません。暁花京南部の清明宮に出現したがしゃどくろと天詠鬼を都小月少佐がおひとりで食い止めているような状況です」

「清明宮まではどれくらいかかるのでしょうか」

「本来なら馬車で四半刻ほど。ですが非常事態のみ使用できる地下通路があります。それを使えばその半分もかかりません」

 地下に道があるのだろうか。八重は半信半疑になりかけながらも、そっと頷いて歩みを速める。とにかく気が逸って仕方がなかった。

 やがてヒナタは小径の突き当たりの小屋の前で立ち止まる。皇城には似つかわしくない、昔ながらの納屋のような造りだった。ボロボロの木戸から土間に踏み入れると、彼は何やら膝を着いて戸棚の奥をまさぐり始めていた。

 ガチャリと鍵が開いたような音が響く。いつの間にか戸棚は横にずらされて、壁にポッカリと穴が空いていた。奥に続く道は薄暗く、果ては見えずに闇に溶けている。

「こちらです。足元にお気をつけて」

 八重は思わず息を呑んだ。

 階段を十段降りた先に広がる、剥き出しの岩と土に囲まれた息苦しい道。大人三人がようやく並べる程度の道幅で、ちらほら天井から漏れてくる外の光だけが照らす薄暗い場所だった。

さっさと階段を降りていくヒナタを追って、八重もゴクリと唾を呑み込みながら通路に入っていく。鼠も蜘蛛も履いて捨てるほど出るような狭苦しい空間で、二人分の呼吸音だけが静かに木霊していた。

 剥き出しの土の上を先導しながら、ヒナタは前を向いたままポツリと呟く。

「サクヤヒメさま、一つお聞きしてもよろしいでしょうか」

「ええ、なんでも」

「怖くはないのですか」

 パチリと目を瞬かせ、八重はほんの僅かな間だけ考え込んだ。しかし硬く決まった心が揺らぐことはなく、桜色の唇をふわりと綻ばせる。

「ちっとも。ただ、早く会いたいんです」

「……そうですか」

 淡々と返されたはずの言葉は、何故か酷く湿って響いた。

 剥き出しの弓を背負って炭鉱のような通路をひたすら歩き続け、八重の呼吸がかなり荒くなったころ。黙り込んでいたヒナタが突然口を開いた。

「着きました。地上に出ましょう」

 驚く八重が声を上げる前に、ヒナタは無言で右を指差す。よく目を凝らすと岩盤が一部分だけポッカリとくり抜かれ、入り口と同じような十段分の階段が覗いているのが見えた。しかし八重は小さく首を傾げる。

「まだ道は続いているようですが……」

「あれは暁花京の外に通じる道です。皇族やそれと同等の方々のための避難路ですよ」

 八重は思わず延々と続く道の果てに目を向けた。

十七年間一度も帝都から出たことがない八重にとって、ポッカリと口を開ける闇の向こう側に広がる風景は未知そのものだった。

「このまま進めば、帝都の外に出られるのですね」

「……逃げたいとお思いですか?」

「いいえ。行きましょう」

「承知しました」

 階段を昇った先の木戸をヒナタが押し開ける。少しずつ漏れ出る光を掴み取るように、八重は扉が開き切る前に外に飛び出した。

 重く垂れ込めた曇天の下、急激に開けた視界に色が付く。鼓膜を貫くような咆哮に、八重の背筋がぞわりと凍った。

「あれは、まさか……」

 びゅうと強い風が吹く。じんわりと全身を蝕む不吉な予感を肯定するように、巨大な骸骨がギロリとこちらを見下ろしていた。驚いて辺りを見渡すと、通りの向こうで鎧姿の幽鬼が数匹うろついている。

 握り締めた拳がカタカタと震えた。十三年前のあの日、母の命を奪った骸骨武者。今起きているのは正しくあの日の再演なのだと、思考より先に本能が理解する。

「あの巨大な骸骨の怪異がしゃどくろです。本来ここは清明宮の裏手に当たるのですが、建物は既に倒壊したようです。影も形も残っておりません」

「そうですか」

「少し休まれますか。足が震えています」

「心配しないで。私は大丈夫ですから」

 足だけじゃない。手も心臓も、何もかもが凍り付きそうで、油断すれば獣のような恐怖に食われそうになる。しかし腹の底の覚悟だけは驚くほど揺らがなかった。

ずっと、この地で生きてきた。一度壊れ、傷を引き摺りながら花開いたこの都を、心の底から愛している。それは憧憬と恋と同じくらい、八重の心臓の深い部分に根差した感情だ。

「参ります。着いてきてくださってありがとう。心強かったわ」

「御命令に従っただけですから。では、おれはこれで」

「待ってちょうだい」

 踵を返して去ろうとしたヒナタを呼び止め、八重はにっこりと微笑む。そしてきょとんと固まるヒナタの傍らに近寄ると、帽子越しにポンと頭を叩く。

「ちゃんとご飯は食べているの?少し痩せたみたいだけれど」

「え……」

「気付かないわけがないでしょう。ずっと家族だったじゃない」

 呆気に取られる少年の帽子を奪い取り、露わになった黒髪を撫でながら弓ごと抱え込むように抱き締める。時間がないのは分かっている。それでも、今生の別れになるかもしれないから。

「伊吹さま、第二皇子さまのところにいるのね。優しそうな方だったわ。危険なお役目なんでしょうけど、あなたが選んだ道なら間違いはないんでしょう」

「違う、違うんだよ、おれは」

「なんて顔をしているの」

「分かっているだろ、おれがあなたの正体を政府に密告したんだ。サクヤヒメの器だって、おれがあなたから人生を奪ったんだよ、ねえ、分かってよ、八重さん」

「だから何だって言うの」

 ぶるぶる震える小さな体を掻き抱く腕に力を込める。こんな細い背中で、一帯どれだけの荷物を背負い込んできたのだろう。

「そんな言い方はしないでちょうだい。あなたはただ、為すべきことを為しただけだわ。迷わなくていい、負い目に思う必要もない。ただ進み続ければいいの」

「でも、おれは……」

「それだけこの街、この国を愛していたんでしょう。恥じることはないわ」

 曙町の長屋に移り住んで、中学に進むこともできなくて、それでもずっと官吏の夢を捨て切れなかった弟。優しいこの子はきっと何度も苦しんで、葛藤して、罪悪感に悶えながら八重を神さまにする道を選んだ。

 彼にとっては大罪だったのかもしれない。しかし八重にとっては違うのだ。

「玉兎さんも、寧々子さんも、皇子殿下も、あなたも、優しい人ばかりね。みんなわたしを崖の下に突き落としたとでも思っているのよ。わたしにとってはただ、情けないわたしの背中を押してくれたってだけなのに」

 名残惜しさを押し殺して八重はそっと手を離す。曇天の下、がしゃどくろの咆哮が響き渡った。

「また会いましょう、陽典」

 彼女は百花を統べる牡丹のように微笑んで、風に攫われる桜花のようにひらりと踵を返す。刹那を見据えた紅の瞳は篝火よりも強く、燦然と煌めていた。

 遠ざかる姉の姿を呆然と見送るヒナタの背後で、革靴がカツンと音を立てる。

「紅坂陽典」

 男とも女とも取れない声。懐の暗器に手を掛け、咄嗟に振り返ったヒナタの目に映ったのは狐面で顔を隠した痩身の人物だった。

「どちら様で?」

「神祇特務隊第三分隊長、透切那岐」

「ああ、お噂はかねがね。何か御用ですか」

 丁寧に礼を取りながらも警戒を緩めないヒナタを睥睨し、那岐は驚くほど硬質な声で問い掛けた。

「おまえは何故第二皇子に仕える?」

 ヒナタの眉間に青筋が浮かんだ。那岐は抜き身の刃のような敵意を隠す素振りさえ見せず、淡々と言葉を連ねる。

「皇子は決して吝嗇じゃない。『眼』の命は軽いが、その分支払われる報酬は正規軍の下士官より上だって聞いてる。まあ『眼』の子どもはほとんどが孤児だ、大概は生活に消える。でもおまえだけは二年間、銅銭一枚たりとも使っていない」

「何を仰りたいのかよく分かりませんが」

「おまえ、何よりも姉が大事なんだろう。忠誠を誓った主を欺くほどに」

 ヒナタの喉がヒュウと鳴る。那岐が突いたのは正しくヒナタの、もとい紅坂陽典の急所だった。

「紅坂八重については粗方調べたよ。器量も悪くないし気立てもいい娘だ、縁談なんて湧いて出てくるはず。でも全部断っていたんだってね。一途だよねえ」

「あなたが、姉の何を知っているんですか」

「初恋の君についてくらいかな。でもそれだけで充分だったよ。身寄りのない独り身の娘が簡単に身を立てられるほど、下町は甘くない。少なからず苦労は降り掛かってくるだろうね。でも、常にまとまった金があるなら話は変わってくる」

 ヒナタは思わず唇を噛んだ。何もかも図星だった。

 八重の叔母が病死する前からずっと考えていたことだ。どうすれば姉が望む人生を送らせてやれるか。名も知らない初恋に操を立てた姉を歯痒く思いながら、思い通りに生きて欲しいと思ったのだ。『眼』になった理由の半分は確かに姉のためだった。

「はっきり言わせてもらう。切り捨てられないものがあるなら、すぐにでも『眼』を抜けろ。この国に仕える資格はない」

 那岐の声は何処までも無機質で淡々としていて、身の毛がよだつほど苛烈だった。

「第二皇子は優し過ぎるんだよ。国のために少数の命や心を使い潰すことを躊躇わないが、いつまでたっても正当化ができない。嘆いて藻掻いて、心臓から血を流しながら笑って生きている」

「それは……その通りです、でも」

「サクヤヒメだってそう。なんの罪もない、ただ選ばれてしまった娘の人生を奪って囲い込んでいるくせに、罪の意識も後悔も呑み込んだまま吐き出そうともしないんだ。人の力だけじゃ何も守れないような国で、皇族として生まれてしまったがゆえにね」

 晴天のような御方だと誰もが貴ぶ。しかし那岐は彼を哀れだと思うのだ。茨の道も、氷の道も、業火の道も、微笑みながら素足で歩いてしまえるような人間だから。

「半端な覚悟じゃ無駄死にするだけだ。あの子の傷を増やす前に去れ」

 那岐は厳かに、冷然と、しかし切実な声音で命じる。

 ヒナタはしばらく黙り込んだ。握り締めた指先が皮膚に食い込んで、手のひらからドロリと血が流れる。そして深く息を吸い込むと、腹を決めたようにニヤリと笑う。藍色の瞳が静かに輝き出した。

「あなたの仰る通り、おれは半端な道具でした。でも申し訳ありません。あなたの言葉で却って覚悟が決まってしまいました」

「は……?」

「当の姉に進み続けろと言われてしまいましたので」

姉よりも穏やかでしたたかな微笑は、晩冬の風花のようにフッと溶けて曇天に染み込んでいく。

「あの方にお仕えする理由の半分は確かに姉でした。ですが、もう半分は違う。おれなりにこのトヨアシハラを、暁花京を心の底から愛しているんです。伊吹さまと出会えたあの日を悔いたことは一度だってありません」

「だからなんだって言うつもり?有象無象のお前如きに何ができる」

「ええ、その通り。おれはあの方の道具に過ぎません。それでも同じ炎に焼かれるくらいはできます」

「……それがおまえの答えか」

 那岐が小さく舌打ちを落とすと同時に、ガチャガチャと不吉な音が鳴る。振り返ったヒナタは思わず目を剥いた。

通りの向こうで、ボロボロの鎧を纏った禍々しい骸骨武者どもがずらりと列を成している。数は少なく見積もっても二十体以上。ガラガラと音を立て、虚ろな眼をこちらに向けてカタカタと体を揺らす。距離はほんの僅かだった。

「クソ、数が多い……」

 ヒナタは懐から短刀を一振り取り出した。嘲笑うように骨を揺らす骸骨を睨み付け、黒漆の鞘から刀身を抜き放つ。しかし彼が鞘を路上に投げ捨てるよりも、抜き身の太刀を翻す那岐が飛び出す方が早かった。砂塵を掻き分けるようにしゃれこうべの群れに突っ込み、ぐるりと刃を振り回す。途端にガシャンガシャンと音を立て、五体分の骨が辺りに散らばった。

「分隊長殿⁉」

「数が多い、早く行け」

「おれも加勢します!」

「聞こえなかったのか?」

 骸骨武者の鈍ら刀と切り結び、那岐はパッと飛んで数歩下がる。しかしすかさず、死角から別の骸骨が那岐の頭を割るように刃を振り下ろす。ガキンッ、大仰な音を立てて狐面が弾け飛び、地面に突き刺さった。

 淡い白金の髪が舞う。那岐は静かに唇を食んだ。

 体が重い。まだ完治していない体で、子どもを庇いながら殲滅するのは分が悪い。そう判断するや否や、那岐はギロリとヒナタを睨んだ。

「暁宮に戻れ。おまえの仕事は終わっただろ」

 ヒナタは目を見張った。あらわになった那岐の素顔には、右目を潰して覆い隠すように大きな傷がある。しかし、彼が驚いたのは傷の有無ではない。

「分隊長殿、その目は……」

「……誰にも言うなよ」

澄んだ天色の瞳を伏せ、那岐は苦々しく言い捨てた。夏空のような青は伊吹によく似ている。片方潰れた空のような碧眼は、トヨアシハラにおいては皇族の証だった。

「自分が祓う。そのための刀だ」

「お待ちください、おれだってある程度は」

「怪異と戦ったことなんてないだろう。おまえは軍人じゃない」

 真摯な視線をすげなく切り捨て、那岐はもう一度前に出た。重心を下げて背筋を伸ばし、正眼に構えた白刃は射抜くように敵影を捉える。

「自分の言葉を曲げるなよ。おまえは誰の道具だ?」

 ヒナタは弾かれたように那岐を見上げた。答えるまでもない。迷いの消えた藍色の瞳を見つめ、那岐はフッと笑った。

「早く行け、立ち止まるな」

「承知しました。感謝します」

「……あの子を頼んだよ」

 小さく頷くと、ヒナタは風のように素早く駆けていった。

「せいぜいくたばるんじゃないよ、クソガキ」

 頬の肉を動かしたせいでずきりと痛む傷口に舌打ちして、那岐は大きく地を蹴った。グラグラと汗ばむ思考を頭のなかで蹴飛ばす。本能のままぐるり、ぐるりと刀を振れば、そのたびに骨が辺りに散らばる。幾度か体を掠めた痛みには蓋をして、那岐はひたすら幽鬼を屠り続けた。

 瞬く間に全てを片付け、那岐は荒い息を吐き出した。ゼエゼエと波打つ背中にぺたりと小さな手が乗せられる。

「ナギ、ここにいた」

 たどたどしい喋り方、小さな子どものように甲高い眠たげな声。霊力の気配も間違いない。那岐は思わずため息を吐いた。

「ユーリン……なんでいるの」

「いなくなった、から、むかえにきた。むちゃ、したね」

「うるさい、やることはやってきた」

「ギョクトと、ネネコがもどってきた、から、ぬけたの」

「あの人たちがいれば問題ないでしょ。うちの隊の奴らだって、いちいち指示しなくても動けるんだから」

「それは、そう」

 ユーリンは小さく頷いてから、トコトコ歩いて土塗れの狐面を拾う。ヒビはあるが割れてはいないそれをそっと差し出す。それから滅多に見られない彼の素顔をまじまじと眺めた。

 天色の瞳、淡い白金の髪。歳は三十路に差し掛かる手前辺りだろう。潰れた右目が痛々しいが端正な顔立ちは優しく、誰かによく似ていた。

「きれいなあお。おうじさま、だったんだ」

「バカ言わないでよ」

「いぶきさまに、よくにてるから」

 夏空のような色合いの淡い瞳、凛とした優しい顔立ち。彼を形作る色も雰囲気も、何もかもが第二皇子伊吹によく似ていた。

「えんじゅさま、なんでしょう」

「第一皇子は十三年前に死んだ」

「それでも、あなたはいきてる」

「たまたま命だけは繋がっていて、その上さ迷っていたら親切な人間に拾われてしまったから。そうでなければとっくに投げ捨ててる」

 那岐は吐き捨てるように言った。

 短慮な正義感に駆られ、襲われたあの日。死んだと思っていたのに目が覚めて、瓦礫だらけの帝都で息をしていた。自分の右目は潰れ、周りには物心つく前から己を慈しんでくれた者達の屍が六つ、無造作に転がっていて。

 心にポッカリ空いた虚ろを抱えて笑った。やはり槐は死んだのだ。透切家に拾われていなければ、すぐにでも命を絶っていただろう。

「自分は那岐、透切那岐だ。それ以上でもそれ以下でもない」

 養家に恩を返すために軍に入った。二度と槐と名乗るつもりはない。しかしユーリンは不思議そうに首を傾げた。

「イブキの、かぞく、なんでしょ?」

「違う、それは死んだ槐だ。那岐は天涯孤独なんだよ、もういいだろ」

「どうして?だいじ、なんでしょ」

「煩いなあ、俺は、違う、自分は透切那岐だ!これ以上何も言わせるな、あれはもう家族でもなんでもない!第二皇子殿下に兄なんていないんだよ、いるべきじゃないんだ!」

 幼いころからずっと、追いやられた叔父の姿を見ていた。花宮を訪れるたび、叔父は空虚に笑っていて。歳を重ねるたび、伊吹が少しずつ表舞台から遠ざけられていることに気付いた時は恐ろしくて仕方がなかった。

 ある意味、天華事変は都合がよかったのだ。だから自分の正体を見抜いた透切家の当主に頭を下げて家に置いてもらい、狐面を被るようになった。間違っても自分が皇子だと知られぬように。

 大切なあの子を、誰よりも民を愛するあの子を、運命なんかに奪わせないために。

「やっぱり、だいじにしてる」

 ぶるぶる震える頭をそっと撫でて、ユーリンはにっこりと微笑んだ。ついでに方も叩いてやる。頑張ったのだから、褒めてあげるのは当たり前だ。

「すてきだね。だいじな、だいじな、ぜんせのおとうと」

「前世って、おまえ……」

「ちがうの?」

「違、わない……ね。そうか、前世か」

 噛み締めるように呟いて、那岐はそっと顔を上げる。地続きでなければ、例えば前世なら、慈しんでも許されるだろうか。答えを探して視線をさ迷わせれば、橙と黒の瞳をご機嫌に揺らすユーリンを目が合う。那岐は少し微笑むと、やがて祈るように呟いた。

「そうだね。愛おしくて、大切で。生きていて欲しい、苦しんで欲しくない」

「なら、はやくいこう」

 那岐の手を引き、ユーリンは通りの向こうを指差した。まだ幽鬼は残っている。そして那岐たちの任務は幽鬼の殲滅だ。

「まもろうよ。だいじだったひとの、たいせつなまち」

「そうだね。ありがとう、ユーリン」

 狐面を被り直すと、那岐はユーリンの手を引いて乾いた土の上を歩き始めた。


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