雲外蒼天 其ノ二

遠くの空が鮮やかに光って、ゴロゴロと雷鳴が鳴り響いた。硝子窓から曇天を見上げる紅の瞳がそっと伏せられる。

「わたしは一体、何をしているのかしら」

 しんと静まり返った部屋で一人、八重は溜め息を吐いた。暁宮に移されてからの五日間、ただノロノロと時が過ぎるのを待っている。世話をしに訪れる侍女はみな親切で朗らかだが、那岐やユーリンのようにずっと傍にいてくれるわけではない。

 しかし一度だけ、夏空のような瞳の穏やかな青年が訪ねてきた。

『今起きている騒動が終息すれば、あなたにはサクヤヒメとして都を守る役目を担って頂く。それまではここから出ずに、できれば心穏やかに過ごして欲しい。……私が言えた義理ではないが』

 天上の色を静かに瞬かせ、心臓を抑え付けるように不器用に笑った彼の隣には、彼を守るように少年がピタリとくっついていた。目深に被った帽子のせいで顔は見えなかったけれど、チラリと覗いた藍色の瞳と背格好は見慣れた弟のもので。

 その瞬間、八重の全身を貫くように恐怖と焦燥がパチンと弾けた。

 歯車は回り続けているのだ。八重が思うよりずっと速く、多くの人を巻き込んで。しかし円環の中心にいるはずの八重だけが何も知らず、ただ微睡むことを求められている。儚い命を憐れんだ人々の優しさと温かさが、八重を鳥籠に閉じ込めるのだ。

 八重にとっては、まるで真綿で首を絞められているようだった。

 悶々と膝を抱え込んで溜め息を吐く。嘆いても悩んでも変わらない現状は、少し日八重の神経をすり減らしていく。

 せめて何が起きているか、僅かでも確かめようと硝子をジッと見つめる。しかしその瞬間、背後でギイギイと軋むような音が鳴った。

「ご機嫌は如何でしょうか、八重さん」

 黒檀のような黒髪を靡かせ、徒花の女が艶やかに笑う。呆然と口を開ける八重をよそに、黒い翼を広げた男が無残に拉げた鋼鉄の錠前をポイっと放り投げた。男は零れ落ちんばかりに見開かれる紅玉の瞳に気付くと、気まずそうににひらっと笑った。

「……邪魔すんぜ、嬢ちゃん」

「寧々子、さん……それに玉兎さんまで……どういうことでしょう、何が何だかわけが分からないんですが……」

「無礼をお許しくださいませ、それから声を抑えてくださるとありがたいのですが。わたくしの独断で潜り込んだものですから、見つかれば反逆罪で首を斬られます。見張りも伸してしまいましたし」

「……どういうこと、ですか……?」

「……わりぃな嬢ちゃん、そういう奴なんだよ」

 頭痛を堪えるように俯く玉兎をよそに、寧々子は手近な寝椅子に腰掛けた。人形のような唇が僅かに震え、やがて三日月のように見事な弧を描く。

「単刀直入に申し上げます。現在この暁花京は天華事変と同じ状況に置かれています。天詠鬼により、がしゃどくろが顕現してしまったものですから」

 蜜のように甘い声がすうっと鼓膜に入り込む。揺れる紅瞳に映る菫色は、いっそ残酷なほど凪いでいた。

 八重の手がぶるりと震える。衝動的に出かかった叫びは凍り付く喉に遮られ、か細い吐息だけが絶え間なく吐き出されていく。しかし寧々子は少しも取り乱さず、落ち着かせるように八重の背中を擦ってみせる。

「そんな顔をなさらないで。あの悪夢のようにはなりませんよ。貴女次第ではありますが」

「……わたしの、選択ですか……?」

「今、貴女が選べる道は二つ。どちらを選んでも都は救われるでしょう。ですが結末は大きく変わります」

 八重の頭がピクリと動く。まるで希望を手繰り寄せるように、震える手のひらがそっと上を向いた。

「一つはこの場に留まって嵐が過ぎるのを待つこと。恐らく二刻ほどでカタは付きます、貴女は座して待てばいい。ですがこの道を選べば間違いなく都小月は死にます」

「え……」

 寧々子は作り物めいた笑みを貼り付けたまま、静かに言葉を連ねていく。

「先代のサクヤヒメ、八雲六華様の功績は御存じですね。暁花京の結界を担う神器を造り出したのはあの方です」

「ええ、お聞きしました」

「では、神器造りに協力者がいたことは?」

 八重は僅かに顔を上げた。那岐の言葉が頭のなかを駆け巡る。

 神の血を引く半神半人で、サクヤヒメの神器造りの協力者。強く美しい、紅椿のような姫神さまを守って戦っていた、黄金色の神さま。

「煉さん、ですか」

「御名答です。この暁花京の結界はサクヤヒメとタケミカヅチ、二柱の神の霊力が合わさって構築されています。神器の衰えで力は弱まりましたが、あの男の力を以てして結界を再構築すれば怪異どもを封じ込めることができるでしょう」

「……そんな途方もないことが、本当にできるんでしょうか」

「勝機はあります。しかし、代償に都小月の魂は消滅するでしょうが。天乃神の血と力を持つとはいえ、あれもまた純粋な神ではありませんから」

 八重は思わず息を呑む。心臓が粉々に砕けないのが不思議なほどの衝撃だった。しかし寧々子は揺らがない微笑を貼り付け、淡々と言葉を繋げていく。

「都小月が消えれば、貴女の役目は結界の維持と管理になるでしょう。考えうるサクヤヒメのお役目でも最も平穏で安全な類いですよ」

「どういう、ことでしょうか」

「ただ暁宮に籠もり、静かに暮らせばいいだけですから。危険に晒される心配はありません。寿命の消費も最低限で済みますし、きっと結婚だってできる。貴女が真っ当に幸福を掴む唯一の道です」

 寧々子の声は赤子をあやす母親のように優しく、深く八重に突き刺さる。

 それっきり寧々子は口を噤んだ。薄暗い部屋に澱のような沈黙が漂い始める。

「あんまり気負うなよ、嬢ちゃん」

 見兼ねた玉兎が横から口を出す。柔らかい声に背中を押されたように、八重はゆっくりと顔を上げた。

「先に言っておくぜ。オレはアンタがどんな道を選ぼうと、決してあんたを責めることはしない。アンタの心も、未来も全てアンタのものなんだからな」

「……いいえ、玉兎さん」

 差し伸べられた手を八重はピシャリと跳ねのける。涙の膜で潤んだ紅の瞳は満開の牡丹のように鮮やかに色づき、春の一番星のように眩く煌めいていた。

「わたしがわたしである限り、その道を選ぶことは決してありません。煉さんの犠牲で成り立つ幸せなんて死んでも御免だわ」

 怯えも恐怖も、迷いすら排除した凪いだ瞳。ただ覚悟だけを宿して前を向く少女の姿に、今度は寧々子が息を呑む番だった。

「寧々子さん、どうかもう一つの道を教えてください。幾らでも戦います。どんな責務も果たしてみせましょう。四肢を引き裂かれたって構わないわ。それであのひとが生きてくれるなら、わたしは何だってできるんです」

「……どうしてそこまで仰るのかしら。貴女にとって、あの男は一体」

「わたしにとってあの方は道標で、永遠に忘れられない初恋なんです」

 冬の夜に垣間見たあのひとの涙。泣いて、下手くそに笑いながら、不器用に八重の幸せを願ってくれた神さま。

 お姫さまには憧憬を、守り人さまには恋を、それぞれ捧げて生きてきた。

 寧々子はふっと小さく口元を綻ばせ、流れるような所作で片膝を着く。

「こちらをどうぞ」

寧々子がパチンと指を弾くと、何もない空間から一張りの弓が浮かび上がった。

 つやつやとした木肌にピンと張られた絃、反りは美しい半月を描いている。しかし全体に夥しい傷が付き、ところどころ黒く煤けている。

「酷い有様ですが、これは六華様が造り出したサクヤヒメの神器です。神器としての力は弱まりましたが、貴女が再び霊力を吹き込めば元の力を取り戻します」

 八重は思わずまじまじと弓を見た。黒く煤けた部分をなぞるように指を翳すと、そこだけひんやりと冷たい。しかしそれ以外は何の変哲もない弓だった。

「暁花京の結界の要ではありますが、古来より梓弓は巫女が魔を祓う際に用いられたものです。どうぞお使いください」

「祓う、のですか?封じるのではなく」

「ええ。サクヤヒメの権能は破魔です。貴女、いえ、貴女がたにしか務まらないお役目ですよ」

「あなたがた……?」

「すぐに分かります」

 寧々子の言葉に首を傾げながら、八重ははっきりと頷いた。覚悟はとうにできているのだ。あとはただ、前に進むだけ。

「都小月を……どうかお願いします」

「ええ、この命に代えても」

 厳かに差し出された神器を受け取り、八重はそっと木肌を撫でる。傷だらけの梓弓を抱えると何故か温かい風に吹かれたような感触が手のひらに触れる。八重は驚いて目を見開いた。

「この感触はなんでしょう。なんだかとても、温かくて柔らかくて、優しい何かが流れ込んでくるような、これは……」

「六華様の霊力です。貴女と同質のものですから、触れるたびに心地良く感じるんでしょう」

「梓弓も特別手に馴染むはずだぜ、この弓を引けるのは此岸ではアンタしかいねぇ」

 ふうっと一度息を吐き出し、玉兎はパチンと手を叩いた。憂いが消え、翠眼は晴れやかに澄んできらきらと踊っている。

「よし寧々子、お前は先に行って分隊連中に加勢しろ。オレは嬢ちゃんを送り届けてやらあ」

「玉兎さん、いいんですか?」

「当たり前だろうが」

 しかし寧々子は眉根をひそめた。

「指揮権を委譲されているのでしょう?お前は即座に合流しなさい、わたくしが同伴します」

「お前じゃ運べねえだろうが」

「現場をどうするつもりですか」

「お前と源がいれば大丈夫だって」

 ギロリと睨み合う寧々子と玉兎に挟まれ、八重があわあわと辺りを見渡したちょうどその時。まるで図ったようにカツンと木靴が乾いた床を鳴らした。

「失礼いたします」

 ぴしりと空気が張り詰める。キイと扉を開いてするりと入ってきたのは一人の少年だった。藍染の古着に煤けた木靴、大きな茶色の帽子はまるで上町の豪商の小間使いの少年のよう。しかし帽子を目深に被っているせいで鼻から上はよく見えなかった。

「伊吹様の命で参上しました。サクヤヒメさまはおれが案内します」

 声変わりが終わったばかりの、少し低い淡々とした声。呆然としたまま固まる八重をよそに、玉兎と寧々子は顔を見合わせると納得したように頷いた。

「お前、もしかして『眼』か」

「はい。ヒナタと申します」

「姿を晒すなんて珍しいですね。隠密行動が基本でしょう」

「総督府の人員は避難誘導と防衛で出払っておりますので、代わりに『眼』が動いています」

「堅苦しい軍人連中じゃ不都合も多いだろうしな。案内人はお前だけか?」

「元より暁花京に配備される『眼』はそう多くありません。加えておれはそれなりに戦えますから、清明宮までの護衛も兼ねているそうです」

「伊吹さまのお墨付きですか。まあ信じてもいいのではないでしょうか、嘘も吐いていませんよ」

「息するように術を使うんじゃねぇよ」

 呆れる玉兎を後目に、寧々子はクスリと微笑んだ。知らぬ間に心を丸裸にされた少年は、しかし文句ひとつ漏らさずに八重に向き直る。

「お二方は本隊と合流を。サクヤヒメさま、よろしいですか」

「……ええ」

 八重は一度目を伏せると、短く息を吸い込んで前を向く。覚悟を飲み干したように紅く煌めく瞳は、篝火に照らされる桜花と月下の牡丹を重ね合わせたように凛と色付いていた。

「御武運をお祈りしています」

「アンタも死ぬなよ、嬢ちゃん」

「勿論です。ありがとうございます」

 身の丈に届くほど長い梓弓を背負い、八重は手を振る二人に向かってぺこりと頭を下げる。純朴で可憐な笑みだけを残して、当代の姫神は冷たい回廊に一歩踏み出した。

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