雲外蒼天 其ノ一

 声が聞こえるのだ。凛と響く鈴のような声が。

 たとえもう二度と聞けなくとも、それだけで生きるに値する。

 この畢生は、ただあなたのために。


『よく聞いてちょうだい。大事なことよ』

『はい、六華さま』

 紅葉が風に攫われ、凩が肌を刺す晩秋の夜。主の私室に呼び出された彼女は、柔き声にそっと三つ指を付いた。拾われた当初はざっくりと切られていた髪は美しく伸びて、肩口でふわりと揺れる。傷だらけの肌は白玉のよう、ガリガリだった腕は柔らかくなった。売り飛ばされた孤児の小娘を見出し、術者の道へ導いた姫神は小さな頭を撫でると、意地悪にクスクス笑ってみせる。

『わたくしが死んだら煉を見張っていて。あの男、どうせすぐ死ぬもの』

 彼女はがばりと顔を上げる。菫色の目がさっと動揺に染まった。

『六華様、何故そのようなことを仰るのです。貴女を死なせるつもりは御座いません』

『もしもの話よ。死ぬ気は無いけれど、こんなことお前にしか頼めないもの』

 六華はこの童女の気性を誰よりも正確に評価していた。まだ幼く、素直で無垢であどけなくて、しかし心の奥底に底知れぬ渇きと激情を秘めている。煉やユーリンは持合せず、玉兎も手放しつつある人の強さと怖さを持つ娘だった。

 六華はまろい頬をそっとつつき、耳元で呪いのように囁いた。

『何があろうともあの男を死なせるな、眠らせるな、贄にもするな。あのバカは全部自分からやりそうで怖いのよ。わたくし、煉をそう簡単に楽にしてやるつもりはないの。生かし続けなさい、たとえあれが泣き喚こうとも、のたうち回ろうとも、決して死なせてはなりません』

 童女はしばらくぎゅっと唇を噛み締め俯いていた。ひゅるりと吹いた風がざわざわと木々を薙ぎ払い、首が落ちるように紅葉がはらりと宙に舞う。やがて彼女はぐいっと顔を上げ、徒花のように妖しく微笑んだ。

『畏まりました。この命に代えても』

『ふふ、お前はわたくしに似ているわね。頼んだわよ、寧々子』

 憑き物が落ちたように笑う主をぼんやりと眺めながら、心臓にぐさりと突き刺さった杭を彼女はそっと抱き締める。

忘れられないひと。美しいひと。酷いひと。惨いひと。

 耳に残る鈴のような声は、いつまでも消えずに耳鳴りの如く心を蝕んでいる。だから彼女はいつも牙を隠して、徒花のように笑うのだ。

如月寧々子。五つの時に六華に拾われ、幼いながらもサクヤヒメの侍女を務め上げた才媛であり、当代最高の術者の一人でもある。


 そして今は都小月煉を生かし、その様を傍観し続ける監視者でもあった。


 ひゅうひゅうと風が吹く。冷たい凩ではなく、温かい南風だ。ぬるい空気を飲み干して、寧々子はジッと目を凝らした。

「玉兎、次を右。その次の角を曲がって一度屋根に上ってください。そのまま建物伝いに直進です」

「ああもう、ふざけんなよ。なんでこんなに複雑なんだよ」

「仕方ないでしょう、曲がりなりにも皇城ですよ」

 寧々子を抱えてひた走り、時には翼を広げて飛び上がり、隠術で身を隠しながら迷路のような暁宮をコソコソ隠れながら進んでいく。ヤケッパチになりかける玉兎に、寧々子は容赦なく冷や水を浴びせた。

「もっとやりやすい道だってあるだろって言ってんだ」

「衛兵に見つかりたいならどうぞ、わたくしは止めませんよ」

 玉兎の腕に凭れかかりながら、寧々子はいけしゃあしゃあと言い放つ。現在二人は暁宮に侵入している最中だった。千寿殿は暁宮の奥に位置する内朝の、さらに最奥に設けられている。許可がなければ神威省の神職さえ立ち入りを許されない禁域だ。見つかりでもすれば処罰は免れないだろう。

 溜め息を吐きながら飛び上がった玉兎の視界に、ひらひらと曇天を舞う折り鶴が飛び込んできた。

「源から伝令だ。聞いていいか?」

「隠密行動中ですよ、発声伝達はやめなさい」

「へいへい、文字変換な。めんどくせぇ……」

ぶつぶつ言いながら玉兎は折り鶴に手を翳し、霊力を流し込んでから開いていく。吹き込まれた源の声が文字に変換され、内側にびっしり書き込まれている。ざっと目を走らせると、玉兎の表情がたちまち曇った。

「オイ、とんでもねえことになってんぞ。皇弟殿を触媒に、清明宮にがしゃどくろが顕現したらしい」

「……現在の状況は」

「煉の指示で全分隊が暁花京全体に散った。指揮系統も含めて全ての権限はオレに委譲、今は源が指揮を執っているらしい」

 寧々子は思わず天を仰ぎ、震える手のひらをぎゅっと握り締める。

「もう時間はありませんね。煉を死なせたくないのはお前もでしょう。なら黙って飛び続けなさい」

「ああ、お前に従うよ」

 玉兎の翠眼がギラリと光った。

煉は独りで天詠鬼とがしゃどくろに挑んでいる。いくら天乃神とは言え、単騎で最悪の怪異二体を相手どるのは分が悪い。しかし寧々子は知っている。勝算はあるのだ。とびっきりおぞましくて身勝手で、この世で最も度し難い方法が。

ああ、虫唾が走る。

死なせてたまるか。舞台を降りるなんて許さない。

辿り着いた千寿殿を睨み付け、寧々子は凄絶に笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る