再演 其ノ四

ピタリと閉め切ったびろうどの重たいカーテンから漏れ出る光から逃げるように、石蕗は緩慢な仕草で顔を背けた。

 枯れ木のような体はもうほとんどの皮膚が砕け散り、薄い膜に覆われた黒い血がドクドクと波打っている。手足の感覚はおろか、もう視界も聴覚も朧げだ。ぼんやりと霞みがかった頭が見せるのは遥か遠い、しかし永遠に色褪せないかつての夢。感触はとうにない、それでも決して手放さないようにと手のひらに括りつけた紙束がカサカサと微かな音を立てる。

 ずっとずっと息を潜めて、身を縮こませながら生きてきた。

 外には異国の影、内には動乱という二つの病を抱えたトヨアシハラで、ただひたすらに突き進む兄の障害にならぬよう引き篭もり、火種にならぬよう口を噤んだ。目も耳も口も塞いで、死んだように命を繋いでいたあのころ。

 穴の底で蹲るような人生だ。たった一つの光さえ、天華事変によって潰えた。

 石蕗の心は十三年前に腐り落ちて死んだ。理性も感情も、もう何処にも残っていない。あるのは虚ろにもなり切れなかった渇きと執着だけ。月日が流れるほどに乾きは欲を、執着は狂気に変じた。

 光を奪ったはずの鬼の手を取った時さえ、最早何も感じなかった。ポッカリと穴の開いた心臓が軋んで、それっきり最後の心も木端微塵に砕けて死んだ。

 ドウドウ、ガヤガヤ。

 乾いた頬が吊り上がる。もう何も聞こえないはずなのに、鼓膜がきんと揺れたような気がした。

 ガシャン!

 両開きの扉がひしゃげ、蝶番が弾け飛ぶ。薄暗い部屋を照らすように金の瞳が眩く光り、濡羽色がばさりと揺れた。

「石蕗殿とお見受けする」

 軍靴の音が忙しなく鳴り響く。皇族専用の迎賓館である清明宮の最奥、三十畳は下らない主寝室は瞬く間に特務隊員に占拠された。

 寝椅子に凭れて天を仰ぐ人影。背格好や荒い呼吸から漏れ出る声は間違いなく石蕗のものだが、その肉体は既に異形に変じつつある。

 煉が迷わず刀を抜いたのを合図に、ぐるりと石蕗を取り巻く隊員たちが揃って圧倒する。煉は己の太刀に雷を纏わせ、刃と共に最終宣告を突き付けた。

「貴殿にはかつて天華事変を引き起こした最悪の怪異、天詠鬼と通じた疑いがかけられている。大人しく縛に付いていただこう。従わねば即座に斬り捨てる」

 返答はない。黒い肉に枯葉を貼り付けたような口が僅かに弧を描く。

「捕縛する。連れて行け」

 煉の背後に控える隊員が二人、心得たように縛術が封じられた札と縄を手に駆け寄る。しかし彼らの手が石蕗を抑え付ける直前、煉の全身を冷たい稲妻が貫いた。

 虫の報せか、第六感か。すぐ傍で、白銀と漆黒の瞳を光らせた鬼がニタリと嗤ったような気がした。

「お前たち、下がれ!」

「総隊長?」

「どうされたんですか、捕縛しろと仰せでは」

「いいから下がれ!決してそいつに触れるな!」

 顔を見合わせる二人を強引に押し退け、煉は隊員たちを庇うように前に出る。躊躇なく振り上げられた雷の刃がヒュンと空を切り裂く。しかし石蕗の首を跳ね飛ばす直前で、カキンと何者かに跳ね返された。

 太刀風に煽られて、朱殷のザンバラ髪がひらりと揺れる。煉の額にぴしりと浮かび上がる血管を眺めながら、鬼は愉快そうにニタリと嗤った。

「よく気付いたねえ。でももう遅いよ、愚かな死に損ない。ほらお前も、もう起きる時間だよ」

 天詠鬼はそう言うと、後ろ手で小さな塊を石蕗に投げつける。一見黒い石のようなそれは、触れただけで堕ちるほど濃い瘴気が刻み込まれた漆黒の大ムカデだった。

 大ムカデはまるで意思を持っているかのようにまっすぐ飛んで、半開きになった唇の隙間からポトリと入り込む。石蕗の全身が大きく脈を打った。

 次の瞬間、石蕗の体から巨大な骨が飛び出した。

 メリメリ、バキボキ。乾いた皮膚を貫いて骨が飛び出るたび、膜が破れて黒い血飛沫が宙を舞う。

「あーあ、壊れちゃったねえ」

小さく嘲笑うと、天詠鬼はプツンと糸を切るように姿を消した。

 喰い破られる。貫かれる。捻り潰される。

 石蕗の体は瞬く間に無数の骨に貫かれ、まるで蚕の繭のように封じ込まれていく。いっそ八つ裂きにされた方が楽だと思うほどの苛烈な痛みの渦中で、石蕗はただぼんやりと夢を見ていた。

 利用されぬように、邪魔にならぬように。息を殺しながら歩んできた人生に一筋の光が差す夢だった。

 もう二十年以上前の話だ。石蕗の意思とは無関係に決められた、九つ歳下の少女との婚約。最初は酷く戸惑い、絶望さえした。しかしいつからか、渋々始めた彼女との文通だけが拠り所になっていった。季節の折々に届く手紙だけが、石蕗の心を肯定してくれたのだ。十三年前に打ち砕かれるまで、ずっと。

「あなたが憎い。どうして、どうしてあなたは逝ってしまったのか」

 目も耳も口も塞いで、ただ薄っぺらく微笑むだけの人形を、美しい心の持ち主だと評した奇特なひと。

『あなたは、あなたにしかできない戦い方でこの国を守ってらっしゃるのです。わたくしはあなたを誇らしく思います。ですからどうか、御無理だけはなさらないで』

 闇の底で、彼女の言葉だけが石蕗を救ってくれた。

「なにも、いらなかったのに、私はただ、ただ、あなたに、あなたに会いたかっただけなのに、なぜ、ああ憎い、憎い、なぜ、こんな都などを守って、ああ、壊してしまいたい」

 石蕗には彼女しかいなかったのに、彼女は石蕗を選ばなかった。選ばないまま、彼女は天華事変で散っていった。

本当なら、あと少しで祝言を挙げるはずだった。天華事変さえ起きなければ、桜が散る前には一緒になれるはずだったのに。

 何もできなかった。遠く離れた宵花京で、葉桜の季節に彼女の死を知った。

「憎い、憎い、あなたが憎い。私はただ、あなたに、あなただけに、ずっと、ずっと、ずっとずっとずっと、あいたかったんだ」

顔も知らないまま将来の契りを交わし、互いの立場のせいで会うことも許されなかったひと。初恋のひと。唯一の光。

会いたい。会いたかった。でももう、生まれ変わっても叶わないだろう。だからせめて、地獄に墜ちる前にあなたの名前が呼びたかった。


「あいたかった、六華姫」


 それでおしまい。

 吐息よりも微かな声を最期に、石蕗の命は砕け散った。


 ミシリ、ミシリと鞭のようにしなりながら骨が石蕗の体を呑み込み、メリメリと大きくなっていく。ついに壁が砕け、硝子が残らず割れて飛び散った。

「総隊長、早く脱出してください!我々は問題ありません!」

「ふざけるな!一人だって死なせて堪るか!」

 部下の換言を両断し、煉は刀を納めると跪いて床に右の手のひらを押し当てた。

「全員退避ィィィ!」

 有り余る霊力を乗せて放たれた、大音声の号令。

 右手を中心に床と壁を破壊し、周囲の瓦礫もろとも仲間を部屋から押し出した。嵐に煽られるように軋んで変形した屋敷の隙間から続々と放り出され、隊員たちは続々と庭に着地していく。

「速やかに体勢を立て直せ!」

間髪入れずに、今度は僅かにくぐもった中性的な声が響く。狐面の第三分隊長、透切那岐だった。

土煙が吹きすさぶ曇天の下、那岐は軍帽を抑えながらぐわんぐわんと揺れ続ける清明宮をギロリと睨む。

「まだ総隊長殿が取り残されてるはずだ。鷹見と唐沢で救出に向かえ!」

「その必要はない」

ハッと振り返った那岐の背後で、煉はぎこちなく頷いた。

「那岐、全員無事か?」

「無事ですけど、こういう時はまず隊長殿が逃げてくださいよ」

「できない相談だ」

 当たり前のように宣う煉に那岐は酷く顔をしかめた。しかし悠長に会話を交わす暇もなく、天地を引き裂くような咆哮が辺りに轟いた。

 ガラガラと崩れる屋根を突き破って姿を表したソレは、ゴキゴキと悍ましい音を全身から鳴らしながらギロリと煉を睨み付ける。

 天を衝くほど巨大な骸骨。真っ白な骨も、ところどころに纏う瘴気も、十三年前に全てを壊した化け物と何一つ変わらない。大きく波打つ漆黒の心臓は、まるで石蕗の体を蝕んでいた黒い血が凝ったようだった。

煉の心臓が嫌な音を立てる。

「がしゃどくろ……まさかとは思ったが、またこの手を使ってくるとは」

「いい趣味だろう?」

「ふざけるなよ悪鬼が」

「酷いなあ、くわばらくわばら」

 天から降ってきた粘着いた声。いつの間にか姿を表していた黒鬼は、骸骨の肩で悠々と胡坐を組んで特務隊を見下ろしていた。

「天詠鬼。お前、逃げたんじゃなかったのか」

「圧死は苦しいからねえ、ちょっと控えたいんだよ。でもおあいにくさま、今回ばかりはボクがいなくちゃこの子は崩れてしまう。石蕗にもう少し、器としての素質があればまた違ったんだけど」

 白銀と漆黒の瞳を交互に光らせ、天詠鬼はそっと骨を撫でてやる。霊力も魂の強度も平凡だった石蕗は、がしゃどくろを顕現させる触媒として役目を果たすと途端に壊れてしまった。気に入っていただけに勿体なくて仕方がないが、がしゃどくろを故意に発生させるには人を依代に使うしかない。あとは精々暴れてもらおう。

「おいで、死に損ないとゴミ屑ども。ボクを殺したいなら、この子の屍を乗り越えておいで。まあ最も……この巨大な屑籠を見捨てられるなら、の話だけど」

天詠鬼は口の端を三日月のように吊り上げ、ニタリと嗤う。するとまるで図ったように、ひらひらと折り鶴が二匹、煉の手元に飛び込んできた。

 黄ばんだ和紙に少量の血と霊力を織り込んで作られた、本物の鶴よりも速く空を飛ぶ紙の鳥。各分隊長に配布される緊急用の式神だ。煉が手に取ると、彼らは託された声をそっくり同じ声色と口調で諳んじ始める。

「こちら第四分隊、汀町にて幽鬼の大軍が発生!応援を要請します」

「第五分隊、綾錦町にて幽鬼と交戦中。住民に被害が出る可能性大、人員を回して頂きたい」

 その瞬間、煉の背後に小さな雷が落ちた。

 濡羽色の髪がぐわりと逆立つ。嵐雲を切り裂く春雷のような双眸は、たったひとりの悪鬼を写してギラギラと光っていた。

「怒髪天を衝くって?怖いねえ」

 ケタケタ笑い出した天詠鬼を射殺すように睨み付けながら、煉は抜刀したまま待機を続ける隊員たちに指示を出す。

「全員散開。第四、第五と連携し、暁花京中の幽鬼を狩れ」

 全方位から息を呑む音が鳴った。那岐の背をなぞるように、冷たい雫がすうっと滴り落ちる。

「正気ですか⁉」

「ひとりなんて無茶です、せめて分隊を付けてください!」

「我々でも肉盾程度には役に立つ、連れてってくれ!」

 誰もが首を振り、口々に叫んだ。しかし煉は振り返りもせず、天詠鬼を睨んだままその全てを一蹴した。

「誰か玉兎に式を飛ばして合流しろ。あいつに全権を譲渡する。それまでは源が指揮を取れ」

「総隊長!」

「早く去れ!邪魔だ!」

 煉は抜き身の刃をくるりと翻す。稲妻を纏って黄金色に光る刃が三人の分隊長の顔を順繰りに照らし、バチンと音を立てて爆ぜる。

「俺に、お前たちを斬らせてくれるなよ」

 一度だけ首を巡らせた煉の双眸から凄絶な覚悟が滲み出す。それでも刀を構えようとする那岐の肩を、壮年の男がポンと叩いた。第一分隊長を務める源という男だ。

「行くぞ、那岐。ああなれば、あの方は梃子でも動かない」

「源さん、ですが」

「意地を張るより、我々に何ができるか考えろ」

 小さく頷いた那岐の背中をもう一度どんと叩くと、源は思いきり声を張り上げる。

「第一分隊以下全員退避だ!隊長に従え!なんとしてでも、十三年前の繰り返しは避けねばならん!」

 怒声がビリビリと空気を震わせる。煉は僅かに微笑んだ。

「感謝する」

「くれぐれもご無事で」

「……ああ」

「では、失礼する」

 駆け出した源の背を追って、三十名ほどの特務隊員が続々と駆け出していく。数十秒後、清明宮の庭園は残らず空になった。

 壊れ、砕けた離宮の欠片を踏み躙りながら、がしゃどくろはぶるぶると身を震わせる。化け物の肩の上から地上を睥睨すると、悪鬼はニヤリと妖しく嗤った。

「サア始めようか、あの日の再演を」

 鬼の背後から浮き出るように、眷属の鬼火どもがぬっと現れる。青い炎をギロリと睨み付ける煉の双眸が爛々と光り、雷鳴が辺りに轟いた。

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