再演 其ノ二
暁花京の最北端に築かれた要塞、
半神として皇族と対等にすら成り得る煉だが、住まいは彼自身の希望により、広大な教練場の脇に設けられた独身の士官向けの宿舎の一室だ。散り始めの桜花を暁の光が照らすころ、煉は一人宿舎を抜け出した。
行き先は暁花京の中央、円形に広がる皇城暁宮。漆喰で塗り固められた純白の壁に沿って幾重にも設けられた城門を、煉は早足でくぐり抜けた。守りを固める多数の衛士も煉の姿を見ると一様に頭を下げる。暁宮は千年前に築かれた旧都宵花京の
「タケミカヅチさま、お早う御座います」
「第二皇子に呼ばれて参じた。取り次いでくれ」
「畏まりました」
慇懃に首を垂れた男が引き下がり、しばらく待つとすぐに奥へ通される。官吏たちが詰める外朝の中心である
硝子の張られた外廊下から座敷に上がり込むと、上座に座った伊吹が居住まいを正して出迎えた。傍らには珍しく少年を一人連れている。普段は煉に怯える伊吹が珍しく萎縮せずにグッと顔を上げているので、煉は思わず眉をしかめて腰を下ろした。どうやら一大事らしい。
「早朝にすまな」
「御託はいい。動きがあったのか?」
礼を跳ね除ける煉の態度に、壁際に控える少年の肩がピクリと動く。しかし伊吹自身は心なしか安堵したように苦笑して少年の方に目を向けた。
「この子の口からお聞かせしたい。よろしいだろうか」
「お前の『眼』か?」
「その通り。ヒナタ、タケミカヅチ殿に報告を」
「畏まりました」
ヒナタは顔を上げてジッと煉を見上げる。彼の視線から妙な温度を感じ取りつつ、煉は大人しくあどけない声に耳を傾けた。
「ヒナタと申します。先日の入京より、皇弟殿下のお傍に影ながら付かせて頂いておりました」
「お前が監視役か」
「はい。単刀直入に申し上げます。先刻未明ごろ、天詠鬼と思しき鬼が殿下に接触しました」
「詳しい状況を聞かせてくれ」
人外じみた金の目が剣呑な光を帯びる。ヒナタは僅かに気圧されながらも気丈に頷いた。
「暁花京に入られた直後より、殿下は体調が優れない御様子でした。侍医も何度も通ってはいたのですが回復せず、人も寄せ付けずに寝たきりになられています。しかし丑三つ時に差し掛かったころに男が清明宮に侵入しました。この目で確かめましたが、天詠鬼で間違いないと思われます」
「奴が相手だ、警備は使い物にならないだろう。石蕗はどうした?」
「危害は加えられていませんが、奴は殿下と言葉を交わしたのち消えました。気配を負い切れず取り逃したことが悔やまれます」
「会話の内容は?」
「全ては聞き取れていませんが、なんらかの繋がりはあるでしょう。天詠鬼の方は随分と親しげに接していたように感じます」
「……内通者だったんだろう。こうも分かり易いと奴の罠を疑うが、石蕗が無関係じゃないのは間違いない」
伊吹は溜め息を吐いた。考えたくはなかったが、そもそも石蕗が暁花京を訪れた時点で不審な点が多過ぎた。それに蟄居同然の生活を送っているとは言え、花宮に居を置く皇族のなかで、帝の実弟である石蕗を制御できる人間はいない。花宮に天詠鬼を招き入れ、共謀して暁花京に向かうことは容易いだろう。
分かっている。分かっているのだが。
「叔父上が道を踏み外した理由も、きっかけも、少し考えれば分かることだった。分かってはいてもやはり少し、堪えるものがあるな……」
記憶のなかの石蕗は兄の生前、後継者になるより前に何度か訪れた花宮で、まだ幼い自分を慈しんでくれた優しい叔父だった。十に満たない歳で兄を喪い、子どもでいられなくなった伊吹にとって、陽だまりのような温かさの象徴だったのだ。
沈痛な面持ちで俯く伊吹に、煉は不器用に笑ってみせる。
「伊吹、お前は背負わなくていい」
「タケミカヅチ殿……?」
「十三年前、あの悪鬼を仕留め損なったのも、六華を止められなかったのも、護れなかったのも俺だ。俺の弱さが、お前から優しい叔父を奪った。だから」
「御自分のせいだとでも言うつもりか?」
思わず両目を見開いた煉を、伊吹はきつく睨んだ。普段の温厚な姿からは想像もできないほど玲瓏で重たい声に、煉はおろかヒナタもびくりと体を震わせる。
「あまり舐めないで頂きたい。あなたがどれだけ強大な半神でも、この国の舵を取るのは人の力だ。人の所業の、それも我が血族の裏切りの責任をあなたが奪い取るなど、私に対する侮辱でしかない」
「……違う、侮辱したいわけじゃない。だが、俺が護れなかったことに変わりは」
「だとしても、私の矜持が許さない」
そこで伊吹は一度言葉を切り、フッと微笑んだ。途端に薄氷が割れるように緊張が霧散する。
「すまない。あなたの後悔も、苦しみも、自責も、痛いほど分かる。だが私は、己が背負うべき荷物を誰かに預けるつもりはない」
凛と煌めく碧眼を眩しそうに仰ぎ、煉は小さく笑った。
「お前は何処までも人らしいな、伊吹。六華に、少し似ている」
「それは、どういう意味だろうか」
「気にしなくていい。悪かったな、お前の心を踏み躙るようなことを言った。お前はお前の手で、信じる通りの道を拓けばいい」
硝子戸が朝日を透かして、夏空色の瞳が水晶のような光を帯びる。やはり夜は似合わない。彼はまるで、朝ぼらけの空のような男なのだから。
神霊に対する畏怖が強く、十年経っても未だに煉を恐れる臆病者。しかし何があっても決して目を逸らさず、逃げず、退かず、平気な顔で泥を食む。人らしい醜さは何処にも見当たらないくせに、強さと美しさは零れ落ちるほどに持ち合わせている。それがどれだけ稀有なことか、彼自身はいつまで経っても理解しようとしないのが玉に瑕だ。今だって夜明けの皇子は不思議そうに首を傾げている。しかしすぐに背を伸ばし、半神を前に強い瞳で命じた。
「神祇特務隊総隊長、都小月煉。第二皇子の名において皇弟石蕗、及び天詠鬼の誅滅を命じる」
「承った」
煉は軍帽を取って敬礼を返し、次いでジッと伊吹の両目を見つめた。
「俺からも一つ聞きたい。いいか?」
「私に応えられることならば」
「暁宮で、紅坂八重はどう過ごしている?」
伊吹は内心酷く狼狽えた。彼女の身柄が啓蟄宮から暁宮に移った際、警護の役目は特務隊から皇城の近衛に移っている。いくら煉が寛容でも、サクヤヒメは彼にとっての逆鱗だ。
静かに冷や汗を流す伊吹に、煉は片頬を引き上げて不器用に笑った。
「違う、不満があるわけじゃない。おれはあの娘がつつがなく、健やかでいられるのならそれでいい。暁宮に預ける直前、あの娘を随分と傷付けてしまったから、どうしても知りたかった」
伏せた顔の下で、ヒナタは密かに濃紺の瞳を見開いた。微かに手足を震わせる少年をちらりと見やり、伊吹は胃の腑がキリキリと絞られるような心地を覚える。
「……千寿殿に最も近い、迎賓用の
「何か思い悩んではいないだろうか。俺のせいで何か、苦しんでいないだろうか」
「今のところそういう報告は受けていないが……そんなに心配なら、今から会えるよう手配しようか。」
「……いや」
伊吹の申し出を、煉は気まずげに顔を逸らして拒んだ。
「俺は会うべきじゃない。無事ならそれでいいんだ」
煉は無理矢理口角を吊り上げ、おどけたように笑ってみせる。それはまるで囚人が死ぬ間際に浮かべるような、乾いて砕けそうな微笑だった。
煉が君影殿を辞した直後、伊吹は崩れ落ちるように脇息に凭れかかった。叔父の離反という事実に駆り立てられ、息を潜めていた緊張と恐怖心が一気に堰を切って溢れてくる。崩れそうに震える主の体を支えながら、従者の少年はボソリと呟いた。
「彼が雷神タケミカヅチですか」
「ああそうか、お前は会ったことがなかったね」
「ええ。少し意外でした。おれは神霊の類いが嫌いです。独り善がりの正義で他人を振り回す、根本的に違う生き物ですから。でも彼はまるで、ただの人のようで」
伊吹は汗ばんだ顔で少し笑った。神霊の思考は人の枠から外れ、時に災いを引き起こす。そうでなくとも人を愛するあまりに攫って囲い込み、我が物にしてしまうようなこともざらだ。
一途で身勝手、だから人は神を畏怖する。しかし、都小月煉は違う。彼は不器用なりに他人を慮り、心を砕こうとする。彼の心の在り方はあまりにも人に近く、神としては異端だった。
「以前、タケミカヅチ殿が仰っていた。半神として生まれてから長らく、死んだように生きていた。しかし玉兎殿に人の営みを教えられ、先代のサクヤヒメに心を植え付けられたのだと。ならばきっと、彼の魂は限りなく人に近い形をしているのだと思う」
だからこそ怖いのだと言った伊吹に、少年は目を瞬かせる。
「タケミカヅチ殿は優しい。故に私は、あの御方が恐ろしくてならない」
都小月煉、或いはタケミカヅチ。軍に入る以前は人嫌いを公言していたと聞くが、伊吹が知る彼は偏屈に見えて柔軟な気性を持つ、温厚で慈悲深い半神だ。あれほど寛容で献身的な神を、伊吹は他に知らない。
「私は未熟で、醜く足掻くほかに背負うすべを知らないのに、愚かなせいで楽な方へ泳ぎ出したくなってしまう。少しでも気を抜くとあの眩い強さに縋ってしまいたくなるんだ。あの方に気に入られるたび、己の力で立てなくなるのが怖くて息もできなくなる」
口を衝いて飛び出した弱音だった。伊吹は恥じるように目を逸らす。
「すまない、弱気になっている時間はないね。私はもう少し強くならなければいけないようだ。決断も行動も、兄上ならきっと迷わなかった」
天華事変にて命を散らした第一皇子・槐。当時十四歳だった彼は百鬼夜行の出現を知って家臣の反対を押し切り、少数で暁宮を出て東に向かった。最も被害の大きかった下町の住人を避難させるためだ。しかし従者諸共幽鬼に押し潰され、それきり帰ってこなかった。
慕っていた兄の死は、今もなお伊吹の心に暗い影を落とし続けている。しかし同時に民のために心を燃やして散った槐の姿は、伊吹にとって道標のようなものだった。
守るべきは民。そのためなら鬼にだってなれる。それが己の役目なのだから。
「ヒナタ、しばらく奥の間で待機していてくれ。状況次第ではまたお前に仕事を頼むかもしれない」
「なんなりと」
いつものように跪く少年の髪をくしゃりと撫でる手は、ほんの僅かに震えていた。迷いは消えない。それでも震える指先を握り締め、伊吹は喉から絞り出すように命じた。
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