再演 其ノ一
「君ゆゑや、はじめもはても限りなき、うき世をめぐる身ともなりなん」
丑三つ時の深い闇を這うように一匹の鬼がふっと姿を表す。五つの鬼火をゾロゾロと従え、天詠鬼は下町の小道をそぞろ歩いた。愛しい姫君を見つけ出し、高揚に身を任せて逢いに行ったのがちょうど五日前。短時間で二度も死を迎え、一度は雷神の神通力をまともに受けたせいで擦り切れた魂をじっくり癒やし、ようやく動けるようになったのだ。上機嫌な彼は天を仰ぎ見る。口遊むのは恋の唄だった。
「夢にだに、あひみぬ中を後の世の、闇のうつつにまたやしたはむ」
何度も、何度も、何度も何度も繰り返し、天詠鬼はサクヤヒメに逢いに行く。時には若い娘で、時に壮年の婦人で、時には青年の姿を借りてかの神は現れ、朝廷に使われて鬼に弓を引く。いずれの時代でも恐れられ、憎まれ、恨まれ、時に殺され、何度も殺して。それでも天詠鬼は、器が現れれば必ず焦がれるように追い続ける。
「瀬を早み、岩にせかかる滝川の、われても末に逢はむとぞ思ふ」
サクヤヒメ。かつてはこの世で最も清く美しい神だった。今は最早、器に寄生することでしか力を奮えなくなってしまったけれど。
鬼はそれでも構わないと手を伸ばし続ける。神代より続く、途方もない恋だった。
ふらり、ふらり。陶酔するように覚束ない足取りで、時に鬼火に袖を引かれながら、天詠鬼はある大きな屋敷に入り込んだ。
最奥の部屋の真ん中で、一人の男がぼんやりと寝椅子に凭れかかっている。扉が開いても振り返らない屋敷の主を急かすように鬼火が硝子の窓を叩く。焦げ臭い匂いに顔を顰め、男はようやく顔を上げた。
「ようやく来たのか。もう忘れられてしまったかと思った」
「ボクにしては上出来なんだよ?お前の名も顔も、出会ってからもうひと月経つのに覚えているんだから。頑張ったと思わない?どうせすぐ死ぬのにね」
「あなたに魂を売り渡してからもう、ひと月も経ってしまったんだね」
痩せこけた頬に嵌め込まれた両目がぼうっと闇に浮かぶ。落ち窪んだ瞼に嵌め込まれただけの、今にも零れ落ちそうな二つの宝玉から雫が一粒零れ落ちる。鬼はクツクツと笑った。
「なんだ、ついに悔いて絶望でもするのかい?」
「悔いてなんの意味がある。もう後には戻れないのに」
「頑張るねえ。お前みたいなのは嫌いじゃないよ。過去の甘い夢に縋って囚われて、万人ごと業火に身を投げる大悪党。鏡を見ているみたいだ」
天詠鬼にとって、この男は長い生でも数少ないお気に入りの一人だ。命を賭け、全てを捧げて魂を燃やす。人らしい強さを持ちながら、躊躇わず鬼に手を貸して外道に身を落とした。なまじ良心なんかを人一倍持って生まれたせいで、狂気と虚勢でなんとか自我を保つ姿はいじらしくて堪らない。
天詠鬼は上機嫌になって男の手を取った。乾いてボロボロの肌は既に数か所が破れ、薄い膜を一つ隔てて黒い血だまりが覗いている。鬼は益々嬉しくなった。わざわざ貴重な神獣の怪異まで持ち出してこの男に植え付けてから七日、或いは八日ほど。黒い血も屍のような肉体も、『種』が上手く根を張った証拠だった。
「そろそろ芽吹くころだねえ、気分はどうかな」
「地獄のように悪いよ」
「人間が脆いのが悪いんだ。特別製なんだからもっと感謝してくれたっていいのに」
天詠鬼は不満げに鼻を鳴らした。百度蠱毒を重ね、生き残った毒虫同士をもう一度食い合わせて、最後の一匹を人間の生き血に漬け込んでやる。男に埋め込んだのは、そうやって穢れに穢れを塗り重ねて造り上げた逸品だ。
「ボクにここまでさせたんだ、しくじらないでくれよ」
「それはあなた次第だろう?」
「ボクの手を煩わせるんじゃないよ」
男は溜め息を吐くのも億劫で、ただ静かに目を閉じる。色が抜けてまばらになった髪をぐしゃりと掴み、鬼は虫を弄ぶように撫で始めた。
「やっぱり人間は嫌いだ。ああでも、お前は面白いからね。運よく生き延びたら助けてあげる。ボクと一緒においで」
「必要ない」
「お前の意志なんかどうでもいい。せいぜい壊れないでね」
天詠鬼は千切れた白い毛をぐしゃぐしゃに握り潰し、薄い唇をにいっと半月のように吊り上げる。
「人間如きがおひいさまに守られて、慈しまれて、そのくせ何度も飼い殺して腐らせて。ただでさえ醜いのに、どれだけ恥を塗り重ねるつもりなんだろうねえ。お前もそう思うだろう?」
男は何も答えなかった。荒い呼吸を繰り返す彼に嗤いながら背を向けて、天詠鬼は窓から身を躍らせる。トンッと飛び上がって着地した屋根の上で下弦の月を見上げながら、鬼は小さく呟いた。
「精々暴れるんだよ、暁花京が塵になるまで。おひいさまの力でできた鎮守の神器も、守られ続ける都も人間も、あの死に損ないの番犬も全て壊してしまえ。そしてボクはもう一度会いに行って、今度こそ……今度こそ、まっさらなおひいさまを取り戻す」
祈りにも似た呪いが風に攫われるより早く、月光に溶けるように天詠鬼の姿はフッと掻き消える。その瞬間、地上では一つの影がそっと動き出していた。
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