始 花影とけだもの 其ノ三
ざあざあと雨が降っていた。
煉は濡羽色の髪をじっとりと濡らしながら、傘も差さずにふらふらと街をそぞろ歩いた。瓦礫が山積みになった殺風景な街角を、矢のような時雨が貫いていく。
踏み潰され、蹂躙された都に雨が降る。消えない傷跡を洗い流すように、今年は葉桜の季節からずっと空が泣いていた。ぐずる曇天をぼんやりと仰ぎ、煉はポツリと呟いた。
「生きていてくれと言ったのに。酷い主だったな、あんた」
壊れた帝都をふらふらと練り歩きながら、煉は絶え間なく言葉を紡いでいく。最後に立ち止まったのはいつだったか、もうぼんやりとしか覚えていなかった。
「あんたがいなくなった夜の話だ。玉兎は自分を責めていたぞ。もっと早く手を打っていれば、あんたを生かすことができたかもしれないと」
いつだってからりと笑う男が初めて唇を噛んで、飢えた獣のような目で天を仰ぐ横顔がやけに焼き付いて離れないのだ。屍の山を縫うように駆ける乾いた風に赤銅色の長髪をなびかせ、玉兎は何度も、何度も己の無力を吠えた。
おかしくなったのは何も、玉兎だけではない。
「あれからユーリンは塞ぎ込んでしまった。あんた、あいつを宵花京に連れて行く約束をしていたんだろう」
わんわん泣き腫らし、部屋に閉じこもって出てこなくなったユーリン。玉兎が師に引き合わされるより先に、彼女は六華に拾われて仕えていたらしい。たった一人の愛しい人の子を失ったあやかしの小娘は、まだ涙の海から帰ってきやしない。
六華に拾われたと言えば、もう一人。つい二年ほど前に六華の元にやってきた術師の娘も、随分と哀れな様子になってしまった。
「毎晩、寧々子があんたに焦がれてうなされている。六華、信じられるか。あんたが消えた夜、俺はあの小生意気な娘の泣き顔を初めて見たんだ」
つっけんどんで聡明な人間の子ども。まだ七つになったばかりだった。誰よりも六華を慕い心酔していたのに、今や煉や玉兎に嫌味を言うことすらできないほど憔悴している。
消えてしまった姫神を忘れられず、誰もが哀しみに溺れて生きている。煉は濡れた髪先を弄び、ぱちりと硝子玉のような瞳を瞬かせた。
「なあ六華、俺は今でも理解ができない。本当ならあんたは今頃宵花京で、初恋の相手と豪勢な祝言を挙げていたはずだったのに」
五歳のころから文を交わし続けた、顔も知らない初恋の男。神器を造り出し、七年待ってようやく輿入れが決まって。勝気な笑みをぐしゃぐしゃに崩して喜んでいたくせに。本当なら、十六日の明朝に暁花京を発つはずだったくせに。
「……なあ、あんたは今何処にいるんだ」
たった一人で帝都の百鬼夜行を全て祓いきった彼女の屍は、今に至るまで髪一本すら見つかっていない。
もう生きてはいないだろう。何処を探したって六華の骨どころか、霊力の残滓も見つからないのだから。
「あんたのいない世界は一体、何処に向かっていくんだろう」
穢れてはいたものの、梓弓の神器にはまだ神気が宿っている。あれはサクヤヒメの加護を宿す神器だ、器の人間が壊れた程度では揺らがない。しかし核に傷が付いたのなら、結界の要としての力は弱まる。
都はどうなるだろう。ようやく平穏を手に入れたのに、何もかも壊れてしまった。彼女の誇りは、生きた証は。
「俺は一体、何を守れたんだろうな」
答えは見つからない。煉は止まない雨に打たれながら、壊れた都をさ迷い続けた。
ひらり、ひらりと花のように雪が舞っていた。
天華事変からあと少しで二年経つ冬の終わり、煉は未だにふらふらとさ迷い続けている。暁花京を出て空帆の方に出掛けることもあれば、路地裏や山奥で蹲って眠ることもある。しかし、かつて六華が使っていた八雲家の屋敷に帰る気にはなれないでいた。
その日は上町の北端、綾錦町(あやにしきちょう)の裏通りの樽に腰掛けてぼんやりと虚空を眺めていた。このころになると上町は大部分が復興を終え、かつての活気を少しずつ取り戻しつつあった。石畳を行き交う靴音を聞きながら、煉はそっと目を瞑る。
うとうとと微睡み始めた煉の着流しの袖を、誰かがひしっと掴んだ。
「あの、あなた」
「……なんだ」
声は随分と低いところから響いていた。億劫さを押し殺して顔を下げると、小さな少女がジッと煉を見つめている。彼女は栗色のおさげを揺らしながら煉を見上げ、目が合うと途端に紅の瞳をきらきらと輝かせた。
「やっぱり!あなた、守り人さまでしょう!」
「は……?」
「あの時助けてくださった方でしょう?お姫さまと一緒に化け物を倒してくださった、とっても強い守り人さま……」
煉はきょとりと首を傾げると、やがて思い至って苦い溜め息を吐いた。
「……あの時の娘か」
六華が拾い上げた命の一つ。天華事変で踏み潰されるはずだった幼い少女だ。自分も小さくか弱い子どものくせに、もっと弱い命を必死に守ろうとしていた娘。
煉の胸がよく分からないもので満たされて、じんわりと微かな熱を持つ。得体の知れない感情に突き動かされるように、煉は少女の頭を不器用に撫でた。
「守り人なんて言葉、何処で知ったんだ」
「お母さんがね、おしえてくれたんです!お母さんはすごいのよ、なんでも知っているの。先生をなさっていたんですって」
「そうか。確かに随分物知りらしいな」
「とってもすてきだったのよ、おやさしくて、きれいで……それで、それでね」
「分かった、分かったから落ち着け」
それでね、それでね、と堰を切ったように喋りたがる少女。六、七歳の童女は明るく朗々としていて、瞳は灯火のように淡く煌めいている。煉はそれが不思議で仕方がなかった。
「苦しくないのか」
「……どうして?」
「あんた、母親を亡くしていただろう」
もう動かない、いなくなっちゃった。あの地獄で紡がれた拙い言葉を、煉は何故か鮮明に覚えている。
自分と同じように、大切な何かを失っているのに。くしゃりと歪んだ煉の表情をジッと見つめながら、少女は僅かに目を細める。
「そうね、もういません。今でも悲しくてたまらないけれど、でも、苦しくはないの」
泣き出しそうな顔で、それでも少女は笑う。透き通った微笑は無垢であどけなく、誰にも汚されない強さがあった。
「あなたとお姫さまが守ってくださったから、わたしはちっとも痛くないんです」
煉の心臓が悲鳴を上げるように軋んだ。
ぶわりと湧き上がる熱が渦を巻いて全身を貫く。訳も分からないまま煉は少女に手を伸ばし、かつての六華よりも一回り小さな体をそっと抱き上げた。
「きゃあっ、うふふ」
「どうして喜ぶんだ」
「だって嬉しいもの」
見知らぬ男に抱き上げられて喜ぶ童女の扱いが分からず、しかし何故だか離してやる気にもなれずに、壊れ物を抱えるようにそっと膝に乗せる。
あの日から少し背が伸びて肉付きもほどほど、着物は綺麗な桜色の小袖。困窮しているわけではなさそうで、煉は安心したように溜め息を漏らした。
「あの時の赤ん坊はどうした」
「わたしの弟になったのよ、陽典っていうんです」
「あんた、誰に面倒見られてるんだ」
「叔母さまよ!とってもやさしいんです、すてきな人なの」
「あんたは、生きていてよかったと思えたか」
勢い任せで飛び出した言葉を煉は恥じた。両親を失った少女に何言ってんだと玉兎に殴られる想像までした。しかし彼女は嬉しそうにへにゃりと眉を下げ、じんわりと熱のこもった瞳で煉を射抜いた。
「壊れてしまっても、わたしはこのまちが好きよ。陽典も叔母さまも、あなたも大好き。お父さんも、お母さんもずっと大好き。それだけでいいの。全部、あなたのおかげで好きでいられるの。あなたやお姫様のおかげでわたし、生きていてよかったって思えるのよ」
そして少女はピシリと固まった煉にきょとりと両目を瞬かせ、冷たい頬を両手でそっと包み込んだ。熱い体温が冷えた体に溶けていく。煉は呆然と少女を見詰めたまま、パチリと瞬きを落とした。
「あなたは、苦しくないの?」
「……え?」
「とっても痛そうなお顔をなさっているもの」
煉は虚を衝かれたようにポカンと口を開け、やがて乾いた声で笑った。
「俺、そんな顔してるのか」
「ええ、とっても苦しそう」
煉の心臓がぎりりと軋む。目頭に何か熱いものが込み上げた。何かが頬を濡らす感覚に目を見開くと、腕のなかの少女が慌てたように顔を上げた。
「泣いているの……?」
少女はパッと目を見開くと、紅の瞳を瞬かせてオロオロと慌てふためき、やがて覚束ない手で煉の頬を拭い始める。あとからあとから流れ落ちる涙は止まらず、煉はそっと俯いた。
「どうして涙なんて……」
「涙は、千切れた心がそれでも前を向こうとしてるあかしなんですって」
「どういう、意味だ」
「あなたはたくさん、たくさん、苦しんで、それでもまだ生きようとしているってことだと思います」
煉はぶるぶると肩を震わせる。ろくに形も色も知らないまま、煉の心はいつの間にか壊れ、砕け、凍り付いてしまっていたらしい。しかし頬を拭う小さな手は、散らばった硬い氷の破片を一つずつ溶かしてしまうほど温かかった。
「あのね、守り人さま」
「違う、俺はそんなんじゃない」
「どうして?」
「俺にそんな資格はないんだよ、小娘」
「……むずかしいことは分かりません」
少女はむうっと口を尖らせた。
「あなたが苦しいのなら。わたしも悲しいなって、思ったの。だからね、あなたもしあわせになって欲しいんです」
「難しいことを言うな、あんた。俺には幸福が何かすら分からないのに」
煉は小さく笑った。愛も分からないのに、幸せになんてなれるわけがない。それでも少女は諦めず、頬を真っ赤にして言い募る。
「あなたの願いが叶って欲しいの。痛い思いや、苦しい思いはして欲しくないのよ」
「それが、あんたにとっての幸せか」
少女は頷く。煉は少し笑った。自分にはきっと無理だ。それでも一つだけ、煉の胸に綺羅星のような願いが浮かび上がる。
だから煉は少女の髪を撫で、ほんの少しだけ口元を綻ばせて、言い聞かせるように語り掛ける。
「じゃあ一つだけ約束してくれ」
「ええ。なあに?」
「何があっても生きて、生きて、生き抜いて、幸せになってくれ。あんたのためじゃない、俺のために。それがきっと、残された俺の幸いなんだ」
嘘も偽りもなく、心の底から煉を美しい何かだと信じて、寄り添おうと手を伸ばす貪欲な人の子。
望みが叶って、痛い思いも苦しい思いもせずに、笑って生きられる未来。
それを幸福と呼ぶのなら、この小さな少女にこの世の幸いの全てが降り掛かかって欲しい。小さな頭を包み込みながら、煉は静かに覚悟を決めた。
夜明け前、気配を感じ取った玉兎は大慌てで庭に出た。うっすらと積もった雪が反射した月光に見覚えのある人影が浮かび上がる。
ボロボロの身なりのくせして、憑き物が落ちたような顔を引っ提げてふらりと現れた同僚に、玉兎は呆れ返って眉を引き上げた。
「お前、帰ってきたのか」
「ああ」
「ああじゃねえよ、半年も失踪しやがって。どれだけ探したと思ってんだ」
「すまない」
「……何しに来たんだよ」
動揺と安心をグッと腹の底に押し込んで、玉兎は煉の顔をジッと覗き込む。久々に見た金色の瞳はまるで黎明の光のように凛と透き通っていた。
「玉兎、どうすればこの都のために戦える」
「は……?」
玉兎は呆気に取られた。しかし煉は顔色一つ変えずに繰り返す。
「暁花京の民を守りたい。守る理由ができた。どうすればいい」
「どういう風の吹き回しだよ、オイ」
玉兎はいっそ笑い飛ばしたくなった。目の前の男は本当に都小月煉なのだろうか。もしやよく似た別人かとジロジロ眺めてやると、煉はバツが悪そうに目を逸らす。
「守れないものばかりじゃなかったって、初めて知ったんだ。失っても、掬い上げられた命があったのなら、最後まで守り通してやりたいと思った」
「……そりゃあ傑作だ」
人が嫌いなんじゃなかったのか。野暮な一言を呑み込み、玉兎は深い溜め息を零してからからりと笑った。
「まあいい。政府から打診が来てたんだよ、請ければお前も軍人だ」
「軍、か……?」
「神器が傷付いて、帝都の結界は揺らいだ。未だに元通りには程遠い状態だ。だから結界の役割を補うための部隊を作るんだってよ。やるか?」
玉兎が言い切る前に、煉は即座に頷いていた。
「なんだっていい。俺はこの命も、力も、全て使ってでも守りたいんだ」
喪った誰かが、生き残った誰かが、これから生まれてくる誰かが。六華が守った都の民がもうこれ以上傷付かないために。牡丹のように強くしなやかで、桜花のようにか弱く儚い少女が、決して手折られないように。
六華が守った世界を守るためなら、奈落の底だって生き抜いてやる。あの少女が笑ってくれるなら、地獄に墜ちたって構わない。
「そうか、この心を愛と呼ぶんだな」
じんわりと熱を持ったまま波打つ心臓を抱え、煉は柔らかく微笑む。カラッポではなくなった獣を、凛と冴える月がジッと見下ろしていた。
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